†† 夢 守 教 会 ††  第二話「痛みの在処(アリカ)」4/(2)

  ◇

 白色だった陽光は既に朱色にその色を変えて、眼前に広がる屋上の光景を照らしている。
 遠方には紅に染まった天空。その紅色を背に、一人の女性が立っている。薄いワンピースが屋上を吹き抜ける風になびいている。背後の赤色の光が眩しすぎて、年齢のほどが判別できない。成熟した女性のような印象も受けるし、未熟な少女のような印象も受ける。

――Life is like a Parody.

 妖精がそのフレーズを口ずさむ。
「ここに来る人間には二種類しかいないわ。現存世界の美しさを堪能するために展望を行う者と、現存世界の存在を否定するために、投身自殺を行う者」
 そっと語り始める妖精は、僕たちに微笑みかけているような印象を受ける。
「あなた達はどっち?」
 光が眩しすぎて、彼女の表情が読みとれない。
「前者だ」
「前者です」
 何かに弾かれたように答えた。僕と理子の答えが重なる。
「そう、私は、後者」
 抑揚の無い声で、夕日に照らされた妖精が呟く。
 僕は一歩前に進み出る。この妖精が何者なのかは分からない。だけど、仮に今彼女が答えたように自殺志願者なのだとしたら、それは止めなければならないと、理性ではない心の内側の声が伝えていた。
 もし仮に、彼女が今すぐにでも飛び降りる、そういうつもりでこの場に来ているのだとしたら、力に訴えてでも止める。そう考えて、もう一歩踏みだそうとした時、後ろから肩口を掴まれた。
「スイッチは切っておけよ」
 理子だ。
「あんた、どうして飛び降りるんだ? 現存世界の存在を否定する? なんだ、それは、新たな宗教か?」
 理子が言葉を発する。言い方にやや攻撃的な印象を受けるけど、理子としては言葉による説得で彼女をどうにかするつもりらしい。
 夕日の光が揺らぐ。揺らぎと共に、妖精の目元が少しだけ知覚できるようになる。その瞳は、方向としては僕たちを視ているけれど、その実僕たちを視ていない。何故だか、それが分かった。
「考えたことは無いかしら?」
 妖精が語り出す。
「今、ここにこうして存在している私達を取り囲んでいる世界そのものが、何者かが作った模造品だということを?
 私はずっと考えていた。この、『模造』の世界とは違うどこかにある、模造の元となった『既存』の世界の存在を。
――多元時空理論。この考えを理論化したものを、私はそう呼んでいたわ。そして、いまだこの現存世界では物理実験による検証作業ができるだけの実験装置が生み出されていないけれど、理論としてのこの理論は疑いの無いものとして整合していると私は確信していた」
 妖精は語り続ける。
「どこかにある、こことは違う次元の『既存』の世界の存在が、この『模造』の世界にエネルギーを送っている。そのエネルギーが、この世界に住む私達の糧になっている。それは幸福なことではないかしら? 様々な応用を考えたわ。あるいは医学的にこの『模造』の世界ではもう助からない患者に対して、『既存』の世界のエネルギーは治療の活路を見いだしてくれるかもしれないし、重度の精神病患者は、『既存』の世界のエネルギーを有効利用することでその心を回復させることができるのではないか? とね。本当に、魅力的な学問だった」
 話が半分も理解できない。話の隅々に衒学的な装飾をつける菖蒲さんとの対話で、この手の難しい話にはだいぶ耐性がある方だと思っていたけれど、彼女の話はそういうレベルを遥に凌駕している。
「それで……」
 だけど、僕の後ろから理子が、この学問とも狂気とも分からない話を続ける妖精に対してコミュニケーションを続ける。
「そんな輝かしい理論に裏打ちされたこの『模造』の世界とやらの、何があなたは不満なんだ? 『既存』の世界とやらからパワーを貰って、生き生きと生きられてハッピーじゃないか?」
 突拍子もない妖精の話を、筋道を立ててまとめてちゃんと対話をしている。理子は、やはり頭のいい子なんだと、こんな時に改めて思う。
「ダメなの……」
 妖精がうなだれる。
「この『模造』の世界で私が愛したモノが消えてしまったから。そして、それは『既存』の世界にももう存在していないことが理屈として分かってしまったから。『既存』の世界にも、『模造』の世界にもそれがもう無いのだとしたら、私は両方の世界を否定して、新しい世界に行くしかない。そのための方法が……」
「自殺か」
 理子が妖精の言葉を繋ぐ。
「あなたは、ちょっと傲慢だな」
 そしてそう続ける。
「私の信頼している人が、自殺は世界の方を消してしまえるほどに自分が偉大だと錯覚している人間の所業だと言っていた」
 それは菖蒲さんの言葉だ。どうやら理子も聞いていたらしい。二つ目の選択肢、自殺とは、世界を否定できるほどに自分は偉大であるという信念や錯覚が根底にあると菖蒲さんは語ってくれた。
「面白い話だけど……」
 妖精が理子に答える。
「自殺を傲慢と言ってしまえるのは、知覚できる世界のどこにも存在しないモノを求め続ける人間の気持ちが分からない人間の言い分だわ」
 それは違う、と思わず心の中で反論する。菖蒲さんはうわべだけの綺麗事や、心に負荷を追った人の気持ちが分からないから自殺を傲慢と定義づけた訳じゃない。菖蒲さんは、そう、三番目の道を僕たちに選ばせたかったからあんなことを言っていたんだ。
「あなた、宗教をやらないか?」
 そう、僕が辿り着きかけた答えを先取りして、理子が妖精にそう声をかけた。
「私達の名は夢守教会。あなたが愛した、もうこの世界に無いモノが何かは知らないが、私達の宗教が、それがなくてもこの世界で生きていけるように、あなたの心を守ってやる」
 言い切った。理子は、本当にただの十六歳の女の子なのではなく、偉大な宗教の教祖様なんじゃないかなんて気持ちが一瞬過ぎる。
「あっは」
 そこで、妖精が初めて明確に笑った。夕日の加減でそれまで見えなかった表情が見える。あどけない笑顔だ。
「不思議、アイツと同じことを言うんだ」
 そう呟くと、妖精はこっちに向かって歩きはじめる。
 徐々に光の加減で見えなかった妖精の姿が知覚できるようになる。ヒールを履いていること。髪は菖蒲さんくらいの長さで、無造作に流しながらも後ろで束ねていること。そして、息を飲むような美貌を携えていたこと。判別できなかった年の頃も分かりかける。少なくとも少女ではない。菖蒲さんと同じ年くらいの、年上の女性だ。
「誘ってくれてありがとう。でも先約があるからダメね。大丈夫、まだ死ぬ気は無いのよ」
 近付いてくる妖精はそんな言葉を口にする。

「今年の七月が過ぎるまでは、死なないわ」

「ノストラダムスの大予言の七月。その月に、本当にこの『模造』の世界は消滅して。ううん、『模造』の世界だけじゃないわ。その大本となる『既存』の世界までも消滅して、まったく新しい世界が生まれるとアイツは言うの。その世界でなら、私はあの人がいなくても生きていけるって。救われるって。アイツは今まで口にしたことは本当に何もかも叶えてきたから、私、信じてみることにしてるの。だから、七月が来て、結果が分かるまでは死なないわ」
 そう語り終えた妖精と、僕らはすれ違う。
 すれ違い様に、微かに聞き取れる声で、妖精はこう言った。
「私の名前はシーモアグラス。あなた達とは、また会うかもね」
 と。
 妖精は、そのまま鉄の扉を開けて、僕たちの前から去っていった。
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