†† 夢 守 教 会 ††  第二話「痛みの在処(アリカ)」6/(2)

  ◇

 日曜日ということで、今日は校舎内は人が少ないだろうということに思い至ったので、この時間を使ってロッカーの始末をしようと思いついた。
 葉明学園の生徒には、学業に関する用具をしまっておくためのロッカーが個人個人に割り当てられている。校舎内にあるそのロッカーの中に、家や宿舎に持って帰るまでもないような用具は入れておく訳だけれど、例の症状に悩まされるようになって学業からドロップアウトしていた僕は、しばらくの間そのロッカーを放置してしまっていた。
 そして、これから先も、当分の間そのロッカーを使う予定はない。
 まだ例の症状が完治したのかも分からなかったし、何よりも限られた時間を理子と一緒に過ごしたいという想いが強くなってきたからだ。理子の方は学園こそ活動の拠点にしているものの、もう一般の学業になんか興味を示していないようなので、自然、それに付き合おうという僕の行動も、一般的な学生のスタンダードからは外れたものになる。
 既にだいぶ授業は休んでしまっていたので、このまま行くと留年だよなという現実的な考えも頭に過ぎることは過ぎるのだけど、そんなことよりも理子と一緒に探し物をしたい。そう考える自分の方が強い。
 留年も受け入れてしかりな人間になってしまって、親が聞いたら泣くかもな。そんな想いが過ぎる。僕の両親はこの町からだいぶ離れた町でクリーニング屋を営んでいる、いたって普通の両親だ。優しい両親だと思っているけれど、どこまでも普通ゆえに、高校くらい出るのが普通だときっと思ってるだろうから、やはり、今の自分の状況は少し後ろめたい。
 そんなことを考えながら歩いているうちに、校舎内のロッカースペースまで辿り着いた。コンクリート造りの校舎の中でも、ロッカーが並んでいるスペースは窓から遠くて光があまり差し込んでこないので、ちょっとばかり薄暗い。日常の喧騒の中だと騒がしいせいでそんな薄暗さも気にならないのだけど、人気のない日曜日のロッカースペースは、ことさらになんだか湿っぽい空気に包まれている気がした。
 そこで、顔見知りの一人の女生徒を見かけた。
 日曜日にこんな所に来るのは僕だけだろうという算段でやってきたので少し驚いたけれど、顔見知りなのに声をかけないのも変だと思われたので、軽く挨拶をする。
「巫和(みわ)さん。お久しぶり」
 本当に久しぶりだったのでそう声をかけた。
「島谷君? 本当、お久しぶりですね」
 何やらかがみ込んでロッカーに向かっていた巫和さんも、顔をあげて挨拶を返してくる。
 西條巫和(さいじょうみわ)さん。
 僕が一年の時に同じクラスで、学級委員長をやっていた女の子だ。紺のスカートに白のワイシャツ。上からベージュのベストを着ているという、私服の学校なのにいつも制服みたいな格好をしている女の子。
 誰にでも敬語で話す女の子で、その立ち居振る舞いからはちょっと他の生徒から距離を取っていた印象を受ける。けれど、まがりなりにも一年間学級委員をやっていたので常識的なコミュニケーション能力はあったし、あどけない顔に肩口くらいまで伸ばした髪は清楚な印象で、男子生徒の中には隠れたファンも多かった。
 理子の可愛さが動的なら、巫和さんの可愛さは静的だ。
「忘れ物でもした?」
 日曜日に校舎内のロッカーの前にいるのに、一番ありそうな理由はそんなところだと思ったので、聞いてみた。巫和さんはもの凄く学業の成績がいい人で、本当は一般の授業になんか出なくてもいいくらいの人なのだけれど、高飛車な天才といったタイプではなく、日頃の授業も大事に受けていた。何か学習用具を忘れたら、休日でも校舎に来るくらいは厭わない人だと思う。
 だけど、立ち上がった巫和さんは首を横に振った。
「じゃあ、ロッカーの整理とか?」
「整理というより、片づけですね。私、この学校を去ることにしましたので」
 意外な言葉が返ってきたので驚く。
「去るって、まさかいなくなっちゃうの?」
 こくりと、今度は首を縦に振る。
「他にどうしてもやりたいことができましたので、今月で、既存の学業は終了することにしたんです」
 学業を終了する? ということは転校という訳でもないらしい。また、「やりたいことができた」という言い回しからは、病気などのやむを得ない事情での退学ということでもないというニュアンスを感じ取れる。
「意外ですか?」
「うん、ちょっと驚いているかな。巫和さんはもの凄く成績もいいし、きっとこのまま勉強して有名な大学に行く人なんだと正直思っていた」
 学業を終了するといっても、高校を卒業しないでできる仕事は限られているんじゃないかとか、難関大学だって普通に合格するであろう巫和さんなのに勿体ないなとか、そんな俗な「常識」的考えがしばし頭に去来する。
「フフ。私、そんなに真面目じゃないんですよ。たまたま、必要に迫られて勉強の方はしていただけで」
 髪をそっとつまんで上から下にすくようになぞると、巫和さんはうつむき加減で視線を泳がせた。
「あの、変な女だと思わないで欲しいんですけど……」
 巫和さんが視線を逸らしたままつぶやく。
「私のことより、島谷君の方こそ大丈夫ですか?」
 視線が戻され、僕と瞳が合う。
「僕? 僕は……」
 困った。大丈夫かとは、何のことを指して言っているのだろう。
「島谷君の方こそ、ずっと学校を休んでいました。去年の終わり頃から、島谷くんがとても苦しんでいたのを、実は私知っていました」
 もう一人の自分が僕を見ている。耐え難いあの感覚を一時的に思い出す。
 確かに去年のクラスの終わり頃、僕は例の症状に苦しんでいた。快活なお喋り。くだらない冗談。口に出せば盛り上がるような恋愛話。そして、やがて来る受験の話。そんなものに包まれていた教室で、僕はそれどころじゃない苦しさを抱えて、一人窓際の席で菖蒲さんから勧められた本を読んでいた。クラスメイトに打ち明ければ、きっと頭がおかしくなったと思われる。そんな不安を抱えながら、ただの読書好きを装って過ごしていた。そうして、結局の所最後の方は耐えられなくなって、僕は学校に行かなくなった。
 そんな僕の過程を、巫和さんは見ていた?
「すごい。気付いている人が、いたんだ」
 どのくらい理解されているのかは分からない。何か、鬱病のようなものになっていたのだと思われていたのかもしれないし、何か人間関係で悩んでるのかも程度に思われていただけかもしれない。それでも、打ち明けられない僕の痛みに気付いてくれていた人がいたというのは、何か嬉しい気がした。
「僕は大丈夫だよ。最近やりたいことができて、幾分マシになったんだ」
 だから、心配させないように。僕の痛みに彼女まで反応してしまわないように、笑顔を作って伝えた。

「でもまだありますよ」

 え?
 一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。「そうですか、だったらいいのですが」と、そう彼女が返してきて、この会話は終わるはずだった。
「島谷君の中に、まだ『痛み』が在ります」
 背筋に冷たいものが走る。
 微睡んだような瞳で僕を視る巫和さんを、何故だか僕はその時「怖い」と思った。
 目の前に佇んでいる巫和さんは、僕を見ているようで僕を見ていない。物質として今ここに存在する僕ではなく、何か遠い世界に存在する別な僕を視ているような印象を受ける。
「巫和……さん?」
 もしかしたら、巫和さんはあの頃僕を見ていたもう一人の僕の存在を知っていた。いや、もっと具体的に、「視えていた」んじゃないかという想像が頭を過ぎる。
「その『痛み』、消せますか? 島谷君は知っているんじゃないんですか? 『痛み』が、この世界の何処に存在しているのか。だから苦しんでいたんじゃないですか?」
「巫和さん。僕は……」
「こんな話をしてしまってごめんなさい。でも、私は『痛み』がこの世界の何処に在るかを知っています。それを知ってしまった時、ああ、もうこの世界はダメだと思いました」
 巫和さん。僕は……。
「そんな時です。この世界が『模造』の世界に過ぎないことを私に教えてくれた人が現れたのは。もし、こんな世界が何かの『模造』に過ぎないのだとしたら……」

――壊してしまいたい。

「それが、私のどうしてもやりたいことです。この『模造』の世界が壊れるまで、そんなに時間はかかりません。だから、この世界の『痛みの在処(アリカ)』を知っている島谷君が、少し可哀想でした。あんなに辛そうにして。それなのに、こんな『模造』の世界にしがみついて」
 そこまで話して巫和さんが瞳を閉じると、僕を貫いていた巫和さんが発する鋭い冷気のようなものがようやく緩和された。
 巫和さんは、そのままロッカーの中に入っていたと思われる書籍の類を脇に抱えると、僕と目を合わせないまま僕の横を通り過ぎて行った。もう、話は終わりということだろうか。
「待って」
 一つだけ聞きたくて呼び止めた。
「今の君の話と同じような話を以前聞いたんだ。だから確認したいんだけど、その『模造』の世界とやらを壊して、その後どうするの?」
 巫和さんは振り返って答えてくれた。
「勿論。まったくの無から、『痛み』の無い新しい真実の世界を生み出します」
 拳を握りしめる。
 知っておかなきゃならない気がした。
 だから。

 瞳を閉じて、心象イメージの矢を繋ぐ。人の痛みを感じ取るための、エンパシーのパスを繋ぐその矢を、頭の中で僕は繋ぐ。
 巫和さんが感じているものを、エンパシーを通して僕自身も感じるために。

 でも。

――伝わってきたのは、やっぱり「痛み」だった。

 巫和さん。君も。

「でも、私、島谷君のことは好きでした。だから、もし島谷君もこの『模造』の世界がダメだということを悟る時がきたら、私達と一緒に連れて行ってもいいかな、なんて思っています。
 その時は……」

「どうか私を探して下さいね」

 そう言い残して、巫和さんはその場から去っていってしまった。
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