†† 夢 守 教 会 ††  第二話「痛みの在処(アリカ)」6/(4)<終>

  ◇

 いつか見た、雪景色の風景が僕の脳裏に浮かぶ。見たことがあったはずなのに、いついつの時に見たとは断言できない。何処か高い場所から見下ろしている、雪の白色に満ちた町の絶景。全ての雪とそれに彩られた風景が、希有な立体性を放って全ての知覚に圧倒的な何かを訴えてくる。
 その映像は一瞬で消えてしまったけれど、代わりに、僕の胸の中に、より確かな実感としてフツフツと沸き上がってくる感覚があった。それは、「痛み」とは遠い、「ぬくもり」と呼ばれる感覚だった。
「なんで……」
 暖色の系統に統一された僕らの教会の中は、夕日の差し込み具合も相成って、ゆるやかに燃える炉の中のようだった。
 そして実感として感じる、いつか冷たい雪の日に、石油ストーブの前で父さんや母さんと身を寄せ合って体を温めあった時に感じたような、確かな「あたたかさ」。
「なんで……。君が一番痛いはずだろう? もうすぐ死んでしまう君が、一番心が痛いはずだろう? なのにどうして、君の心の中はこんなに『あたたか』なんだ?」
 僕の問いに一瞬きょとんとした理子は、本当に何でもない様子で、こんなことを言った。
「それは多分、今、優希といるからだ」
 それを聞いた時の僕は、本当に間が抜けた顔をしていたと思う。
 そんな僕を、理子は両手を腰に当てて前屈みになって見つめている。
「おまえ、あれだけ言ったのに、エンパシーの矢をオンにしたな。しかもあまつさえ、私の心に共感しようとしたなー?」
 ちょっと怒っているような口ぶりだけど、実際はおどけているようにも見える。
「優希は近くに誰かいる時しかエンパシーで感覚を共感できない。だけど私が優希の近くにいる時は私の『痛み』は消えていて私はとても『あたたか』な気持ちでいる。だから優希が私の前でエンパシーをオンにすれば、『あたたか』な感覚にしか共感できない。簡単な理屈だと思うけどな」
 分かったか? と、何かを講義する先生のように人差し指を立てながら理子は僕の瞳を見ている。
「え、あー、うん」
 戸惑った。
「正直、『痛み』以外の感覚を共感したことが無かったんで、戸惑ってる」
 理子は立てた人差し指を口もとに持っていくと、しばし何やら思案したあと、こう言った。
「やっぱり今だけ、エンパシーをオンにしろ」
 え?
 理子の瞳が近付いてくる。
 言われた通りに心象イメージの矢を繋ぐと、今まで経験したことがない、恍惚とした幸福感が流れ込んできた。
「おまえも難儀だったんだな」
 瞳だけじゃなく、薄紅色の理子の唇までもが近付いてくる。
「せめて、今だけ、感じろ」
 僕の両肩に両手を乗せると、ちょっとだけ背伸びをした理子は、そのまま僕の唇に、そっと理子の唇を重ねた。
 その瞬間、炉の中で燃え続ける火炎が一際揺らめいたような感覚と共に、不思議なことが起こった。
 僕の頭の中にあった、モノクロの矢に、『色』がついたのだ。
 『矢』は、紅蓮の赤色をしている。
 そして、僕はこの『矢』を知っていることに気付く。どうして今まで思い出せなかったのだろう?
 唇から理子の体温が伝導してきて、感じている温かさが物理的なものなのか、心象的なものなのか判別がつかない。
 だけど、こういう時のマナーなのかと思って僕はそのまま瞳を閉じて理子を抱き寄せた。
 理子は、僕といると『痛み』が消えると言った。そして、僕の『痛み』は理子から流れてくる「あたたかさ」の前で今消えている。
 え、それじゃあ、僕たちの夢(こころ)の中に在るはずの『痛み』は、いったい何処にいってしまったのだろう?
 色が付いた僕の中の矢に、消えてしまった『痛み』。分からないことだらけの現在(いま)を、僕は理子が奇跡を起こしたんだととりあえず解釈することにした。
 偉大な宗教家は、往々にして「奇跡」を起こす。僕たちの夢守教会の教祖さまがそれを起こして不思議なこともない。
 それくらい、シーモアグラスや巫和さんが「模造の世界」と呼んでいたこの世界で、「痛み」が消えてしまうというのは「奇跡」的な出来事の気がした。

――この世界では、「痛み」は人の心(ゆめ)の中にある。
  ――だけどもしこうして「痛み」を消していけることができるのなら。
    ――僕たちはきっと夢(こころ)を守っていける。

 朱の夕日が差し込む僕らの教会で、僕と理子は長い時間唇を重ね続けた。
 例え痛みが其処に在ろうとも、僕たちは夢を守り続ける。そして僕は、少なくともこの子の夢を守ってみせる。伝わり合う「あたたかさ」に身を委ねながら、僕は夢の中で静かにそう誓った。

       /痛みの在処(アリカ)・了
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