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夢 守 教 会
†† 第二話「痛みの在処(アリカ)」6/(5)<補>
ブレインの憂鬱/3
よろめくようにして事務所から外に出ると、既に夕日がコンクリートの地面を照らしている時間になっていた。
ここ数日、「真実」のレターを書き上げる作業に没頭して疲れ果てていた私は、衰弱した自分の脳を鼓舞するように、一口、携帯していた角砂糖をつまんで口に入れた。
糖の心地よい熱が、疲弊した体と頭に染み渡る。
レターは何とか書き上げたが、果たして一定以上の知力を持つ者の内面をコントロールできるかどうかには自信がなかった。
自分の無力さが恨めしい。ここ数年、あの人のために新しい世界を作るという目的に全てを捧げてきた。もとから、自分が一を聞いて十を知るタイプの天才ではないことは理解していた。それでも、十を聞いて五を知るような遅さでも、百を聞けば五十まで進めるはずだと自分を鼓舞してやってきた。
最新の心理学や催眠術の専門書を積み上げ、理解できるまで数日眠らないなどということはざらにあった。
私は、そんな自分の過程に誇りを持っている。連綿たる努力の積み重ねは、必ず結果を連れてくる。講演会を開けばやってくるような、非常に「濃い」密度で我々に心酔しはじめている、千を超える顧客のリスト。これは、そんな努力の結果だ。ブレイン教会は、私の適切な努力の結果、世界を変えるのだ。
それでも、このレベルの努力で、本当にあの人を救えるのか? と不安が過ぎる。例えば、いくら繰り返しレターを出しても、直に講演を行って直接言葉を投げかけても、顧客達の心象に私とシルヴィウスが計画しているような変革を起こすことができなかったら? それでは世界は変わらない。それではあの人を救えない。
フと、まだ笑顔をたたえていた頃のあの人の顔が脳裏に過ぎる。このイメージがある限り、私はその風景を取り戻すために走り続ける。
今、向かっている家屋にはそのためのヒントがあるかもしれない。
つまり、あの人は笑っていないのに、あの子は笑っている。同じ行く末が決まっている者同士なのに、この違いがあるのが私には少々気になったのだ。
笑っているあの子から何か聞き出せれば、あの人を救うための計画にプラスに働くかもしれない。
そうして私は車を走らせる。胸のポケットには数枚の紙切れ。私にとっては今では大した意味も無いものだったが、これはあの子との約束でもある。笑顔の要因を分析するのが目的なのだから、相手の機嫌がイイに越したことはない。約束を守る。どんなに些細なものでも、人間はそこに快感を見いだすことを私は学んでいた。
夕日がさらに沈んでいき、やがて夜と呼べる時間になる。あの子が住んでいる家屋に着くのは、日が完全に暮れてからになりそうだ。
◇
夜。
目的の家屋に付いてインターホンを鳴らすと、当のあの子の声が返ってきた。
ぶっきらぼうな応対だが、本当に私を邪険にしている訳ではない。そういった余裕が、ますます私の興味を駆り立てる。どうして、この子は?
やがて、彼女自身が玄関まで来てくれるというので、黙って目の前の扉に視線を向けて待つ。
闇に覆われていて既に全体像を視認できないが、家屋は、一般的な家庭が所有している大きさの何処にでもある「家族」のための「家」だ。闇に覆われていなければ、壁の色は白色だったと記憶している。
私自身の方はもう長いこと自分の家族と離れて生活していたので、微妙な郷愁を覚えないこともない。
玄関の内側の明かりが付いたので、いよいよご対面だと、私は自分の内側と外側を切り替える。ブレイン教会の教祖としての私と、この子の知り合いとしての私は、別の存在だからだ。
やがて扉が開かれ、部屋着を纏った少女が現れる。普段は髪を後ろで束ねている印象が強かったので、髪を肩まで下ろした姿が新鮮に映った。
まずはふざけ半分に慇懃に挨拶をして、ポケットから例の紙切れを一枚取り出す。
差し出されたその紙を見て、少女は呆れたような、それでいてどこか楽しんでいるような快活な微笑みを見せる。
その微笑みの訳を知りたい。
そう願いながら、この子と接するための一人称、キャラクターに自身を変えて、俺は昔の英国の騎士が礼を取るような大仰な態度で自己紹介をする。差し出した紙切れは、彼女と約束した名刺と呼ばれるものだから、これくらい大げさでいいのだ。名前を名乗るというのは、大事な行為なのだから。
「有限会社メンタルプロテクション代表の、甲剣竜志です。今後ともよろしくね、理子ちゃん」
理子ちゃん、もうすぐ死んでしまう君が、どうして笑っていられるのか知りたいよ。そう心の中で呟いて、俺は理子ちゃんに名刺を渡した。
/ブレインの憂鬱3・了
<第三話へ「つづく」>
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