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夢 守 教 会
†† 第一話「少女のケニング」1/(1)
――ネビル・シュートの『渚にて』という小説には、この世界の終わりにあたっての人間の生き方が描かれていたのだけれど、それは他者への愛情であるとか自分への誠意であるとか、人間が生きていく上での尊厳なんて呼ばれる物を、世界が終わるその瞬間まで真摯に守り抜く人々の姿であったな。
正義であるとか、情であるとか、一昔前までなら正しいとされていたことは一笑に付されがちで、それでいて誰もが自分が歯車の一部であると認識しながらも、それらの全てを忘却できるほどには誰もが無機的に成り切れない世界の片隅で、少女はそんなことを思った。
その電気街は多くの勤め人の帰り道になっていた。夕暮れ時をやや過ぎた時間のことである。人々は一方向へしか進み得ないエスカレータに運ばれていくように、一路、愛する家族が待つ各々の家へと歩みを進めている。流れに乗らないのは、少女一人だ。
閉店間際の電気店のショーウィンドウに飾られたテレビからは、この時間帯特有のバラエティー番組が流れている。帰路の途中のOLの中には、自分が贔屓にしている芸能人でも出ていたのだろうか、足を止めてしばしの間、道中のテレビに見入っている者もある。
しかし少女は素通りする。少女はバラエティー番組に興味がない。バラエティー番組というよりも、テレビというものを観る習慣を少しばかり前に捨ててしまっていたからだ。今の自分には、無駄にできる時間は少しもない。その一念は、随分と前から均衡を欠いている今の少女の精神機構の中では、割合上位に位置する確かさを持っていた。
――私は。
少女が自問する頃、少女は電気街の終着点へとたどり着いた。
幸せへと流れ着く河の流れのその中心に、一点、流れを堰き止めるように一人の女性が立っている。
薄紫色の正装。どんな流れの中でも揺るがないような確かさを持ちながらも、視線は穏やかな美しい女性だ。
顔見知りの少女は、その同性の女性にわずかばかり恋人へ寄り添うが如きしぐさを見せると、そのままゆるやかに女性を抱きしめた。
いささかだけ欲情を込めたような動悸で、少女は言う。
「もう全て、全ては変わってしまったわ。私の夢には、この世界は理不尽過ぎる」
そうした少女の独白に対して、少しの敬愛と情愛の眼差しを向け、静かに少女の額にキスをすると、女性は答えた。
「そうだね、でももう少しだけ、もう少しだけあなたは足掻いてみることができる。いつか私はあなたにマーク・C・ベイカーの『瞳の比喩』の話をしたね。人間が何故『瞳』を二つ持っているのかってあの話さ。右瞳と左瞳、どちらか一つでもいいのに、どうして我々は『瞳』を二つ持っているのだろうっていうあの話。私はこう言ったよ。『右瞳と左瞳、どちらかが優れているという事はない。だけど二つの『瞳』があると、世界が立体的に見えるんだ』とね。いいかい、今のあなたには片瞳しかないの。それはとても弱々しいことだと私は思うの。だから、最後の足掻きとして、私はあなたのもう片方の瞳を捜してみるべきだと思うの。とても、これはとても小さな可能性でしかないけれど、もしもあなたの片瞳が見つかることがあるとすれば、あるいは……本当にバカバカしいくらい小さな希望かもしれないけれど、私は今、本気でそう思っているの」
そう言って女性は瑠璃色の双眸から涙を流した。
――この少女が世界を立体的に見ることができたなら、あるいは……。
正義であるとか、情であるとか、一昔前までなら正しいとされていたことは一笑に付されがちで、それでいて誰もが瞳を瞑ってしまえば楽になれると認識しながらも、それらの全てを忘れて瞳を閉じてしまえるほどには誰もが何かを諦め切れない世界の片隅で、女性はそんなことを思った。
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「おーい島谷、起きてるかー」
とある日曜日の昼下がり、弓村理子(ゆみむらりこ)が寄宿舎の僕の部屋を訪ねてきた。
理子と出会ったのはついつい二週間ほど前のことなので、もちろん彼女が僕の部屋にやって来るのは初めてのことだ。
「ここ、一応男子用の寄宿舎だから、女人禁制なんだけど」
「え、そんな規則とか何とか、年がら年中授業をサボってる私らにとっては、今更な話なんじゃないのか?」
僕の突っ込みはまったくもって常識的なものだったと思うのだけれど、理子はしれっとした態度で流してしまった。もう一言、理子と違って僕が学校をサボるようになったのはここ三ヶ月余りの話だよ……と、付け加えてやろうかと思ったけど、やめた。ささやかに取り繕おうとしても、僕も理子も客観的に見て不良学生という事実に変わりはない。
「うん、実は僕、今はまだ壮絶に眠いんだけど、なんだ、その僕の不覚醒気味の意識を覚ますほどに、僕が寝ている間に世界に何か動きでもあったかい?」
暦は三月を迎えたとはいえ、寄宿舎の部屋の中はまだ寒い。部屋に入るなり、コタツという名の僕の部屋に存在する唯一の暖房器具に滑り込む理子。エアコンなどという気の利いたものは、このボロ宿舎には存在しない。
そんな理子に向かって僕は尋ねた。正直なところ、昼過ぎまでダラダラと安眠を決め込んでいたのである。TVもまだつけていないので、今の僕には今日という世界に関する情報が何もない。
「そうだな、ローカルなヤツなら一つ」
およそ、初めて訪れた他人の部屋とは思われぬ態度で、既にコタツに寝そべってくつろぎモードの理子が答えた。
「吹奏楽部の楽器が、軒並みメタメタに破壊されちゃった……らしい」
「マジで?」
おまえはネコか、とコタツで丸くなる理子に心の中で突っ込みつつ、僕は短く目を瞬いてみせる。
「犯人は?」
「うん、不明なんだ、コレが」
吹奏楽部、僕はまったく交流などなかったけど、誰かに熱烈に恨みでも買っていたのだろうか。
「楽器って固いじゃないか?そりゃもう、ブっ壊すのにも恐ろしい労力と執念がいるわけだ。かなり、興味あるよな。そういうことをやれちゃう人の心の中っていうかさ。きっと、その人を動かすものスゴい何かがあったんじゃないかと私は思うんだけど」
興味あるってのは何か違うような気もするけれど……。普通の女の子の反応としては、もっとこう、怖いとか、不気味とか、そういうものが最初に来るような。
「菖蒲(あやめ)さんも大変興味深いって言ってたし」
ああ、まああの人ならそう言うだろう。全然普通の女の子じゃないし。ん、ということは、菖蒲さんと同じ感想を抱いている理子も既に普通の女の子ではないということになるんだろうか。
「とりあえず世界の動きとしてはそんな所だ」
「ん、確かにローカルだったけど参考になったよ」
すると、理子は話に一区切りついたといった風に態度を改め、今度は持参したカバンから何やら取り出した。
数冊の本だ。
「というわけで、次は私達の世界の話だ」
理子は元々大きな瞳をしているが、そんなデフォルトに大きな瞳をさらに大きく輝かせた。
「ああ、その話か」
話というのは、僕と理子のサークルの話だ。
そう、僕と理子はサークル仲間なのだ。それもついつい二週間前に二人で結成したばかりの、真新しいサークルだ。
目下、僕らがメインで行っている活動は、僕らのサークルのサークル名を考えることだ。二週間の間こればかりを二人で考えていたのだけど、なるほど、ついに日曜の寄宿舎にまで出張してきてこの活動を継続しようというわけだ。
「島谷、何度も言うけどさ」
前置きをして理子が話を続ける。
「広く人を惹きつけるような、ステキで、詩的な名前じゃないとダメなわけだ」
「そんなに、凝らなきゃならないかね」
「そこで今日は、非常に参考になる本を三冊ほど持ってきた」
僕のぼやきを黙殺して理子は持参した本を掲げてみせた。
一番手前の本には、『古英語のケニング―古ゲルマン詩文体論への寄与』とのタイトルが輝いていた。
「なるほどね……」
ケニングというのは、古英語の詩の世界で盛んだった、詩的迂言法、すなわち一つの言葉を遠回しに表現する表現方法のことだ。有名どころで人の体にまつわるケニングなんかを例にあげてみると、「人体」のことを「肉の着物」と表現したり、「心臓」のことを「胸の宝」と表現したりする(もっとも、この辺の知識はここ二週間の間に菖蒲さんのもとでやっつけで勉強した成果なのだけど)。
まあ、普通に言ったんじゃ字義通りの意味しか成さない言葉も、こうやって遠回しに表現したりすると何だかカッコよく聞こえたりするわけだ。文字通り「ステキで、詩的な」サークル名をご希望の理子としては、この詩的迂言法を何とか活用しようと思い至ったらしく、この二週間の間熱心に勉強していたのである。そうした折りに、今日は新手の文献を発掘してきたというわけだ(これも菖蒲さん経由だろうけど)。
「さっきの、名前にそんなに凝るべきかという話についてだけどな」
「ん、ああ」
話が繋がった。黙殺はしたが、聞いていなかったわけではないらしい。
「名前は大事だろ。だって、名前をつけるということは、最初の言葉を語り出すということじゃないか? 特に私達のサークルでコレからやろうとしていることは、言葉で何かを作り上げていくという作業じゃないか。だとしたら、なおさら最初の言葉は重要だと私は思うぞ」
整然とした口調で理子は言った。
「ああ、最初の言葉が大事だという理子の意見は前から聞いてるよ。でも、そんなにこだわるほどに、言葉には価値が、力があるものかね」
「あるさ」
「そう?」
「人が殺せるくらいに言葉には価値も力もあるさ」
ここで、話に一呼吸間が空いた。
「あ、スマン」
理子が形だけ申し訳なさそうなジェスチャーをして、そのまま続ける。
「人が救えるくらいに……島谷にはこう言った方が良かったんだったな」
まったくだ。
年頃の女の子が「殺せる」とかあんまし言うものじゃないよとか、そんな保守的な感想はともかく、僕の場合、言葉に関してはそうでなくては困る。
そう、救って貰わないことには困るのだ。
僕と理子がこうして専心して名前を考えているサークルは、そういう性質のサークルだからだ。
何を隠そう、僕たちが立ち上げたサークルは、ズバリ、宗教サークルだったりするのだ。
宗教を研究するサークルではない。僕たちのサークル自体が、一つの宗教なのだ。
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