†† 夢 守 教 会 ††  第一話「少女のケニング」1/(4)

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 三分で作業に一区切りつけたのだろうか、パソコンの電源はそのままに、菖蒲さんは部屋中央の黒色で背の低いソファに腰を下ろした。菖蒲さんの座り方はちょっと独特で、こう、ちょこんと膝を抱えるようにしてソファの上に、いわゆる体育座りのような形で座るのが常だ。
 細い切り目に艶のある長い黒髪が印象的な菖蒲さんは、今日もいつも通りの少々ルーズな黒いズボンに、菖蒲さんの名を冠したかのような薄紫色の凝った刺繍が施されている上着を纏い、少々僕の目線より下の角度から、ぱちくりと目を見開きながら見上げるように僕の方に視線を送る。
「で、やっぱり調子悪いのかな?」
「はい」
 僕は、簡単に例の症状がこの深夜に現れている旨を告げた。
「ふむふむ」
 じろりと、正面から瞳が合う。
「じゃあ、まずはこっちに来なよ。人恋しいでしょ。そんなに頭に負荷がかかってちゃ」
「どうにもスイマセンね、何ともかんとも」
 初めて隣に来ないかと言われたときは、そりゃ菖蒲さんは年上の人とは思えないほど可愛いらしい人だから、大変ドギマギもしたのだけれど、今ではこの程度のスキンシップは普通に許容できる関係が僕と菖蒲さんとの間にはある。ここ二ヶ月半、この症状に苦しめられた時は、いつもこうして近い距離で菖蒲さんに話を聞いて貰ってきたのだ。そうすることで、一時的にでも、なんだかとても落ち着くことができたから。
「うんうん」
 僕が菖蒲さんの隣に腰を下ろすと、菖蒲さんは体育座りのままゴロリと横になった。ダルマが横転した感じとでも言えばいいのか。それよりも、自然と僕が菖蒲さんを膝枕する態勢になってしまった。さきほどから低い位置から見上げるように視線を送られていたのだけれど、いよいよ完全に下からのぞき見られる形になってしまった。
「優希」
 下から菖蒲さんが語りだす。
「正直ね、限界だと思うんだ。決断の時だよ」
「って言いますと?」
「うん、私はね、それなりにちゃんとした精神科医のもとで薬による治療を続けて、十分に心の休養も取って、そうすれば一〜二ヶ月の間に優希は、うまく薬を使ってやり繰りしさえすれば、通常の学校生活を送るのには支障のない程度に回復するんじゃないか、そういう風に期待していたんだ。でも、そうはいかなかった。そうだね?」
「ええ、まあそうですね」
「そう、こうやって深夜だろうと昼間だろうと優希の『発作』は襲ってくる。例えば授業中、異質さなど微塵もない教室という空間で優希は発作に襲われる。強い動悸が伴う発作だから、優希は椅子から転げて床にうずくまる。無標の教室、健常なクラスメイト達は騒然。そして先生が優希の所に駆けつけてくる。どうした優希? いったいどうしたんだ優希! って。そして優希は答えざるを得ない。『もう一人の僕が僕を見ているみたいなんです』って。それって、もうアウトだよね。それって、とても悲しいことだよね?」
 僕は無言でうなずく。確かに、例の夢のような感覚も現実の動悸も苦しいけど、異質なモノを見つめる他人の視線も苦しい。それが怖くて、もう二ヶ月あまり僕は授業に出席していない。
「だからね、私が言う決断っていうのは、とりあえず、普通の、世の大半の高校生が送るようなティーンエイジャーの時間は諦めて、別な道を選ぶ決断を下すってことなんだ。優希の未来の全てに責任は持てないけれど、この二ヶ月半優希を見てきて、優希はそうした方がいいんじゃないかって、私はそう思った」
 普通の高校生を諦める、の部分に少しだけ僕は戸惑いを覚える。別に、一生懸命勉強していい大学に入りたいとか、あるいは部活に精を出して仲間と青春を過ごしたいとか、そんなことには大して価値を見いだしている訳じゃないけれど、そうか、僕はそろそろ、普通に生きることは無理なのか。
「別に普通に高校なんて出なくても、どうとでも生きていけるよって、そういう話は何回もしたよね?」
 僕はまた無言でうなずく。
「優希、優希は今、一番何がしたい? どうなりたい? テストで一番を取って誰かに自慢したい? スポーツで優勝して誰かに称えられたい? 可愛い女の子と付き合ってHなことがしたい? 優希は、どう生きたい? 何が欲しい?」
 僕は……。
 ちょっとだけ考えて、僕は答えた。もとから答えは決まっていたようで、この答えを心の中から取り出すのにさして時間はかからなかった。
「僕は、僕が今一番欲しいのは、自分が自分でいられるような健康な心と、動悸がしない健康な体です」
「だよね」
 菖蒲さんが自分の前髪を掻き上げる。むき出しになった菖蒲さんのおでこを僕は見下ろす。
「別な道でしたっけ」
 確かに成績もスポーツも彼女も、僕が心から欲しいものじゃない。だとするならば、一番欲しいものを手に入れるためなら、他のものが手に入らなくなるとしても、そのための道を、僕は選ぶべきなんじゃないかと思う。
「教えて下さい」
 菖蒲さんが静かにうなずく。
「うん、でもその前に優希」
「はい」
「優希は私のこと、信用してる?」
 何を今更と、僕は菖蒲さんの言葉に反応する。信用していなければ、こんな込み入った相談をしたりするものか。
「とっても信用してますよ。だからこそ今まで自分のこと、色々と包み隠さず話してきたわけですし」
 菖蒲さんが細い目をさらに細める。
「うん、優希の信用、嬉しく思うよ」
 それじゃあと前置きして菖蒲さんは僕の目の前に左手をかざし、人差し指と中指と薬指の三本を立てた。
「優希が選べる道は三つある。とっても大事な選択だから、心して聞いて」
 僕はごくりと喉をならす。
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