†† 夢 守 教 会 ††  第一話「少女のケニング」4/(3)

  ◇

 出会ってから初めて、PHSに島谷からの電話が入った。
 とにかく、もう一度会って落ち着いて話がしたいという島谷の申し出に、私は躊躇いもなく同意してPHSを切ると、待ち合わせ場所に向けて走り出していた。
 嬉しい。
 何故だかは分からないけれど、そんな感情が抑えきれなかった。
 私は、いつか歩いた電気街の路上に佇んでいる所だった。あの時は夕暮れ時だったから、家へと向かう人々であふれていたけれど、深夜の時間帯となったその時にはもう誰もいなかった。昼間栄えた残滓の中に、一人取り残された気分だった。
 それでも私は自分の家には帰りたくなかった。この路上を歩いた多くの人々にとって家はひと時の休息所だとしても、私にとっては私という人間の人生の終着駅のような気がしてしまっていたから。
 看守の目を盗み見て、この三日間は葉明学園内に忍び込んで夜を明かしていた。
 何かにいたたまれなくなって抜け出してきた所に届いた島谷の声だった。
 何故だかは分からないけれど、私は本当に嬉しかった。

  ◇

 島谷との待ち合わせ場所である葉明学園の校門はもう目の前という所まで来た時、私はある奇妙な事実に気がついた。いつからだろう? 何か不可解な気配が一定の距離を保ちながら私の後を追ってきている。
 確固として存在しながらどこか人から見られるのを拒んでいるようなその気配は、何やら不透明な存在感、言うなれば高い幽性とでも言ったものを放っていて、意識して感知しようとすればするほど曖昧に掻き消えてしまう、そんな性質のものだった。
「誰?」
 私はゆっくりと後ろを振り返った。眼を極限まで細め、自分が歩いてきた街路を遥か遠方まで見つめる。左右には代わり映えのしない人口建築物が濫立する闇の風景、周囲は耳が痛いほどの静寂に包まれている。何者の存在もそこには見えない。錯覚? 気配は消えている。
 私は再び正面に向き直り歩を進める。何処にも、誰もいやしない。この暗闇の時間を歩き回っている私のような人間など稀なはずだ。
 やがて私は葉明学園の校門前にたどり着く。
「島谷は、まだか……」
 冷たいコンクリートの感触が靴底から妙に鮮明に伝わってくる。暦は三月を迎えたと言っても、眼球に当たる空気はまだ冷たい。鼻から吸い込む空気が私の脳に冷気を送っているようだ。
 長いような短いような、身体の時間感覚では計れない微妙な時間佇んだとき、フイに、私の意識が明滅した。
「何……?」
 私は何故だろうか、暗天の夜空を見つめている。
 後頭部に、鈍い痛みが走る。打撃を、打撃を加えられた?
 フと、視界の脇に佇む門柱が気にかかる。何とも不思議な形をしている。一年あまりこの学園には通ったけれど、こんなもの、私は見慣れていたんだっけか?
 数瞬の精神の沈黙の後、どうやら私は意識を失ったらしい。
 視界が、闇に包まれる。

  ◇

 待ち合わせの時間に五分ほど遅れて僕が葉明学園の校門前にたどり着いた時、僕は奇妙な違和感を覚えて、校門横の外灯が照らす薄い白光の中、片膝を立てて校門前のコンクリートの地面に膝を下ろした。
 そっと地面に右手を添えて、目を凝らしてその変色を確認する。
 血だ……。
 理子の姿が見えない。
 僕の背中の骨が、見えない冷気にシンと包まれる。
 僕の顔色は、蒼白になっているに違いない。
「ぐ……」
 数瞬、また、例のアレが、もう一人の僕が僕に寄り添うように明滅する。
 幾度も繰り返した、自分が薄まっていくような感覚と、自分が自分を見ているような感覚との矛盾した辛苦が再び僕のもとに訪れる。
 だけど今、僕はここにうずくまるワケにはいかない。
 片膝をついたまま、視線をわずかに遠方に向けると、闇と白光とに包まれたその空間に、何やら違和を覚える物体が、非整然とした様相で散乱しているのが目につく。
 中身がブチ撒けられたカバンだ。
 コレは理子のカバンだ。間違いない。いつか僕の部屋に、硬質なケニングの本を入れて携帯してきたあのカバンだ。
 見えない冷気に包まれていた僕の背中の骨に、電流の如き痛みが走る。
 僕は立ち上がると、見つめているもう一人の僕をそのままに走り出した。
 ストーキングされているって? モトムラくんだって? 自分の責任を放棄したヤツがいるって?
 混乱した思考を整理しながら、僕は走り続ける。
 助けだ。助けがいる。
 しかしながら、こんな時、助けになってくれる人を僕はこの世でたった一人しか知らない。
 その人は、僕にとってこの世で最も信用できる大人で、また同時に、その人は、僕がこれまで出会った中で最も優れた知性を持った女性でもある。
 その人は、理子にはもう会わなくてもいいとも言ったけれど、それでもいつまでも僕の味方だとも言ってくれ人だから。
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