†† 夢 守 教 会 ††  第一話「少女のケニング」5/(4)

  ◇

 島谷が壊したドアを踏み抜いて閉鎖された空間から外に出ると、暗天の中に轟と光り輝く満月がやけに近くに見えた。
 自分は、随分と高い場所にいたのだと気づく。
 吹き抜ける寒風が肌に刺さる。どうやら、廃墟じみたマンションの屋上の廃倉庫、それが私が閉じこめられていた場所の正体らしい。
 冷たく耳に響く高所独特の風音を背に、マンションの屋上に対峙する島谷とモトムラくん。モトムラくんは未だに右手にナイフを握りしめている。一方で島谷の着ているジャケットには数カ所の裂け目が刻まれている。どうやら、モトムラくんとナイフとを切り離すのに手こずっているという状況らしい。
「島谷!」
 私が声をかけると、いたって平静な口調であいつが言う。
「やあ、理子。別に問題ない。間違ってもあんまりこっちに来るなよ。キミが巻き込まれる事態が一番やっかいだからな」

  ◇

 さてとオレは思案する。
 ブランクだな。短刀取りなんて、それこそ幼稚園の頃からあらゆるシチェーションを想定して何度も道場では稽古したのに、どうも上手く体が動かない。三度、致命傷とはほど遠いが、ヤツに斬りつけられることを許してしまっている。
 理子も現れたことだし……。
 オレは別の手段を講じることをハラに決める。長引かせると、ヤツが標的を理子に移すことを思いつく可能性がある。その状況は避けたい。
「ぁあぁ」
 ヤツの四度目の突進を前に、オレは構えを低く取り、右足だけをやや地面から浮かせる。
――この方法は今まで講じていた短刀取りよりもいささかリスクが高いんだが。
 オレはそのまま右の足刀を作り、基軸となる左足を地面にひねり込みながら、渾身の右横蹴りをヤツの下腹めがけて繰り出す。
 短刀に対してはいざとなったら横蹴り。相手の手の長さプラス短刀分のリーチよりも、自分の足の方が長いのならば、こちらが致命傷を受けることはない。足に多少の切り傷を受けるかもしれないが、それは致命傷とは成り得ないものだし、そのリスクを考慮しても相手の腹という広範囲を的にくり出せる、すなわち攻撃を外してしまう確率が低いというメリットは大きい……だったかな。
 オレはこの手段を選択する根拠となった、幼少の頃から自分を指導してくれた空手道場の館長の言葉を反芻した。
 鈍い衝撃と確かな手応え。
 なんのことはない。ヤツがナイフを振り下ろすよりもはるかに速くこちらの横蹴りが決まる。もんどり打って吹き飛び、ナイフを手放すヤツ。
「ちくしョう、オマエ、オマエ……」
 まだ動いてる。ダメージが浅かったか。
 するとヤツはヤツの世界に埋没するように何かをつぶやきながら、先ほどの倉庫の方目がけて移動を始める。
 オレは理子が既に倉庫から離れていることを確認すると、もう一度左拳を握りしめて乾いた破裂音を鳴らし、ゆっくりとヤツに向かって歩み始める。次でケリをつける。

  ◇

 驚いたことに、ヤツが倉庫から持ち出したのは、一振りの鉞(まさかり)だった。
「なるほどね、吹奏楽部の楽器を壊したヤツか」
「ちくしョう、オマエ、オマエ……ボクがこんなに手こずってるのは、ボクが本当の自分じゃないから、本当の自分だったら、オマエなんかイチコロ、殺す、コレで、殺す……」

――あんたさ。

 それまで、はたと沈黙を通してオレ達の闘いを見守っていた理子が、いつになく冷徹な声で語り出す。
「さっきから、『本当の自分』、『本当の自分』って連呼してるけどさ、それって何? 何処にあるの?」
「ナニを言ってる?見つかる。そのうち見つかる……」
 フンと理子はうなずくと、いつからか手にした炭素鋼のナイフを掲げ、逆手に持ったままヤツめがけて虚空を十字に切り裂いた。

「いつになっても見つからないよ、そんなモノ。例えあんたが、私の何倍生きたとしてもね」

 理子が切り裂いた十字は、救いの十字架ではなく、否定のバツ印だったのだと、その時オレは思った。
「ぁあぁ」
 理子の刻印に秘められたその否定が、ヤツという存在の真ん中を通っている何かを砕いた。ヤツは絶叫とも発狂とも取れる雄叫びをあげ、鉞を振り上げながらコチラに突進してくる。
 ああ、何だか、今ならもう一度できる気がする。
 急速に、ヤツの怒号とは裏腹に冷静になっていく自分が分かる。

 右手を、相手との距離を測るようにかざし。
 左拳を、弾丸を込めるように左脇にそえる。
 砲台となる左足を徐々に右足に近づけてバネをためる。
 やがて、その一瞬が訪れる。
 オレだけが相手を殺せる一瞬。
 オレだけが全てを統べる一瞬。
 オレが、相手の意識にすら上らない一瞬。

――今が、放つ時だ。

  ◇

 閃光が閃いたかのような知覚を覚えた。

 決着が、私が瞬きをしている間に決着がついたのだということを理解するのに、もう二、三回瞬きをする時間を必要とした。
 モトムラくんの鉞は振り下ろされることなく、それよりも疾く島谷の左拳がモトムラくんの腹部に叩き込まれていた。
 その制止した情景は、いつか、どこかで見た宗教画のようにどことなく崇高で、私はキレイだと思った。
 表層的な美しさではない。私は、この閃きを生み出すまでに克己した、島谷の時間の重ね方、そのあり方に、美しさを感じたのではないかと思う。
 やがて、沈黙し、前のめりに崩れ落ちるモトムラくん。
 そのモトムラくんを支えることなく、島谷は左拳を打ち出したままの前傾姿勢を続けながら、こうつぶやいた。

「痛い」

 確かに、島谷は一言、そうつぶやいた。
 その時、島谷の口から漏れ出た「痛い」が、放った左拳を痛めて彼が感じた純粋な痛覚からくる「痛い」だったのか、放った左拳で痛めつけたモトムラくんの痛みをエンパシーで彼自身が感じ取ったがゆえにつぶやいた「痛い」だったのか、私には判別がつかなかった。
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