†† 夢 守 教 会 ††  第四話「花の名前」2/(6)

  ◇

「目をあけていいぞ」
 どうやら診断が終わったらしい。
 ケンシンさんが行った診断というのは、僕は内面でエンパシーを起動させる矢を接ぎ、ケンシンさんも自身の内面で起動のための映像を創る。そうしてお互いに共感状態になるというシンプルなものだった。
 だけど、シンプルなものだけに、気が付いてしまうこともある。
 沢山の痛みを抱えていたケンシンさんの内面には、僕が知っている「痛み」があったのだ。
 目を開いて改めてケンシンさんと向き合った後、そのことに触れたものかと迷う。いや、もう言葉にしなくても、だいたいは理解してしまっていたのだけれど、それでも改めて言葉にするということには大きい意味があるように感じられる。だとするならば、あえて「友人」という言葉を使ったこの人の意志を、尊重しなければならないような気がする。
「さて、君は『音』のタイプではないようだ。君の『痛みの音』は聞いてしまったけれどね。同時に私と同じ『聴覚タイプ』ではないことも分かった。同じタイプの過剰エンパシー障害者は、共感した瞬間に分かるものだからね」
「タイプ、ですか?」
「その通り。過剰エンパシー障害にはタイプがある。五感は知っているかな。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚だ。『痛み』を視覚で見るタイプや、私のように聴覚で聞くタイプもいる。味覚で味わうタイプなんかも、いるんだよ」
「では、僕は何タイプなんでしょう?」
「それが、分からない」
 あまりにもあっけらかんと言うので、僕は拍子抜けした。なかなか興味深い話だっただけに、当の自分が何タイプなのかには興味があったのだけれど。
「というよりも、君はまだ顕現していないんだ。既に顕現している過剰エンパシー障害者なら、私と同じ聴覚タイプじゃなくても、共感した瞬間にある程度分かるものだからね」
「顕現?」
「君という存在に宿命付けられた感覚が、目を覚ます体験のことさ。過剰エンパシー障害者は、人生のどこかで、この顕現を体験する。あまりにも鮮明で躍動的な痛みが、一つの感覚に強力に働きかけてくる体験だ。なんて言うのかな。子ども時代の終わりのような、そんな体験だよ」
 少しだけ、ひっかかる。その言い方だと、それを経験していない僕のことを、遠回しにまだ子どもだと言っているようだ。
「ケンシンさんの感覚は、いつ顕現したんですか?」
 別に対抗意識を燃やしたわけではない。そもそも僕は大人になることの早い遅いを競い合い、優劣をつけるような世の中にある雰囲気があまり好きではない方だ。学業の中で浪人したとかしないとか、何歳で就職したとか、初キスがどうとか、性交渉を何歳で体験したとか、一大事のように語る人達の精神性に、ピンとこないのだ。
 それでも尋ねたのは、どうもその顕現を経験しないことには、ケンシンさんが言う過剰エンパシー障害者の戦い方が発揮できないような話の流れだったからだ。僕は今十六歳だけれど、例えば五十歳に顕現を体験してからでは、間に合わない。僕は、今助けたい人がいるのだ。
「二年前だ」
 ケンシンさんがゆっくりと答えた。
「でも、子ども時代の終わりの体験なんでしょう?」
 息を深く吐いたケンシンさんは、自嘲気味という言葉がまさに当てはまる。
「子どもだったんだよ、二年前までね。私が本当に痛切な痛みの音を聴いたのは、二年前に娘が亡くなった時だから」
  2/(7)へ

夢守教会TOPへ