†パープルタイズ†


【出題編】


 遡るならばきっともう、ベルリンの壁が崩壊したあの頃には既に二つの世界が始まっていたのだと誰もが何処かで思いながらも、そんなことには気付いてないよって顔をしながら曖昧さに寄りかかってるのがむしろトレンドみたいな不思議な時代の片隅で、今日も少年少女がモニターに向かってキーボードを叩いている。
「さようなら、また明日」
 そんな当たり前に飛び交うはずの挨拶という名の言語音よりは、静寂の中にカタカタと刻まれるタイピングの音の方がこの空間全体を印象づけている。
 場所の名は私立リディーエル学園。
 西暦20××年創立というこの学園は、産業時代の終焉と共に訪れた情報時代のリーダーを育成すべく設立されたばかりの、新進のビジネスオーナー養成学校だ。
 片手に最新のラップトップパソコンを抱き、もう片手を混迷する未来に向けてかざしながら、今日もブルーを基調とした軍服のような制服を身に纏った若い男女が各々の想いを胸に勉学に克己している。

 放課後の校門に佇む少女が一人。

――彼女、巫奈守芙毬(みなもりふまり)も、学園に通う未来志向の若者の一人だ。蒼と融合した白地のシャツに映える深紅のタイを表層の胸元に、いささか神秘めいた白色に映える漆黒の帯を深層の腰に緩く結びながら、陽気をたたえた凛とした瞳で空を見つめていた。

「うん、今日も綺麗な青空」

 一つやり遂げた瞬間に、また次に向かって駆け出すことがいつの間にか当たり前になっていた世界では、ひどく陳腐に聞こえる呟きだった。
 それでも芙毬は自前の小鳥が囀(さえず)るような可愛げな声で、何の意図も無く立ち止まって発した。青空を称える、ただそれだけの言葉を。
 
 ◇◇◇
 
 (出題編)
 
 ◇◇◇

 パープルタイ、香源司由咲(こうげんじゆさき)さんに会うために保健室を訪れたら、ベッドはもぬけの空で、当の香源司さんは窓から見える小広場のベンジャミン・フランクリン像の前で手を合わせていたので驚いた。
「香源司さん」
 保健室の外側のガラス扉はテラスを経て小広場へと通じていたから、芙毬はそのまま外に出て手を合わせている香源司さんに声をかけた。
 肩までは届かない位の短髪に、涼しさを感じさせる切り目が印象的な美少女が合わせていた手を解いてゆっくりと顔をこちらに向ける。
「巫奈守さんか」 「うん、寝てなくてももう大丈夫なの? 私、あなたの鞄を届けに来たんだけど」
 午前の授業中に「気分が悪い」と言って保健室に退席した香源司さんの鞄が放課後になって目にとまったので、帰るついでに届けに来た。芙毬がここに来た理由はただそれだけだった。
「それはありがとう。しかしわざわざだな。放っておけば、私が教室に戻って勝手に取って帰るとは思わなかった?」
「うーん、でも、教室出るの私で最後だったし、ずーっと空っぽの教室に置いておいたら、不用心かなって。いくらリディの中だって言っても、放課後は外部の人とかも出入りするかもしれないし」
 本当はこういうのは、担任の先生なんかが気を利かせて親しい友だちに持っていかせたりするものだとは思うのだけど、残念ながら我がクラスの担任はお世辞にもそういった気配りをするようなタイプではない。リディの放任主義、個人主義もこういう時はどこか冷たく感じてしまったりもする。
「お人好しなんだな、君は」
「うーん、よく言われるけど、別にそんなに大したことじゃ」
「お人好しなんだけど空手の黒帯で、中学時代は全国大会にも出場経験ありか」
「わ、知ってるんだ」
 驚いた。パープルタイを付けている香源司さんと違って、芙毬はリディでは取り立てて目立つことのない平均的な生徒だからだ。
 入学してから一ヶ月、香源司さんとはクラスこそ一緒だったが、親しく会話したことは一度も無かった。というより香源司さんは教室の一番後ろの席で一人で本を読んでることが多く、お世辞にも社交的な人とは言い難かった。個人主義で生徒間の交流が希薄なリディにおいても輪をかけて孤高の人。それが芙毬が香源司さんに抱いていたイメージだ。そんな香源司さんが、ことリディにおいては何の自慢にもならない芙毬の経歴を知っていようとは。
「別に驚くことじゃないさ。教室で交わされる会話は、特にこちらから意識的に関わろうとしなくても耳に入ってくるものだよ」
 そうか、確かに芙毬にはリディでは珍しく休み時間や空き時間にお喋りをするような友人が何人かいる。そんな友人と教室でお話しているうちに、空手のことは口に出していたかもしれない。いや、出していたな、確かに。モダも、セッチャンも、空手のことは余裕で知っている。
「過去ならともかく、今でも空手を?」
 香源司さんが鞄と一緒に肩にかけていた芙毬のスポーツバッグを指さして言った。中には、空手の道着と黒帯が入っている。今日は学園の宿舎に帰る前に幼い頃から通っていた町の道場に寄って、少し汗を流していく日だ。
「うん、やっぱりバカっぽく見える?」
 よく、リディに入学してからこのかた、ビジネスと空手は関係ないじゃん。寄り道じゃんなんてことを言われてきたから、芙毬はあらかじめ予想される反応を見越してちょっとおどけてみせた。
「バカとは言わないけれど、ギャップは感じるね。空手に限らず、武道につき物の伝統とか、数稽古とか、リディっぽくないというか」
「だよね、でも……」
 空手に関する想いは芙毬の中に沢山沢山あふれているのだけど、これは正確に言葉にするのは大変な類の気持ちだった。
「重要なことだから」
 だから芙毬はただそう答えた。
 そうしたら香源司さんは少しの大仰さも感情の起伏もないような様子で、かといって無関心というほど意志が感じられないわけではない、至って素の趣でこう答えた。
「そうか。重要なことだったらしょうがないな」
 中々新鮮な反応だった。
「これ」
 鞄を香源司さんに手渡し、次いで一冊の本を同じく香源司さんに差し出した。
「鞄とは別に机の中に入ってたんだけど、持って帰るものなのかなと思って」
 ベンジャミン・フランクリンの伝記だった。
 キリスト教系の学校で聖書が重要視されているように、リディでは経済的に名を成した偉人達の伝記や彼らにまつわる本が重要視されている。図書館には彼らに関する蔵書が沢山あるし、フランクリンに至っては目の前の銅像をはじめ学園の至る所に彼の言葉が記されていたりもする。教師達も、彼の言葉を引用することが多い。
「ありがとう」
 フランクリンの伝記を受け取りながら香源司さんが言った。
「重要なものなんだ」
 瞳を細めて、少し笑っているように見える。
 何か、空気が軽くなったような気がしたので、芙毬も思わず微笑みかけた。
「でも。フランクリンの像に手を合わせている人って初めて見た。仏像とか、マリア像とかなら分かるけど、偉人の像っていうのはきっと珍しいよ」
「そうかな、アメリカの黎明期(れいめいき)を支えた偉人だ。資本主義の原点だよ。今の世界の大本にいた存在として、仏様やマリア様に通じる神性を私は感じるね。手を合わせたって悪くはないさ」
 私達を見守るように佇んでいるベンジャミン・フランクリン像を見上げながら、言葉通り何か神聖なものを見つめるように香源司さんは目を細めた。
「信心深さとは縁が無さそうなリディで、こんなことをやってる自分が滑稽に映るであろうことは自覚してるけどね」
 確かに、リディでは信仰心よりお金だろう。だけど、そんなことをパープルタイである香源司さんが言うのが芙毬には面白く感じられた。
「だけど、君だって何かを仰ぎ見たくなる時があるだろう?」
 香源司さんが視線を芙毬に戻す。
「うーん。仏像とか、マリア像とか、ベンジャミン・フランクリン像とかは無いけど、私は空を見上げるのが好きかな。何処にでもあるし。特に、晴れ渡った青空を見た時はステキな気持ちになるかな」
 素直に答えた。芙毬は空フェチを自覚している。
「空?」
 そう言って少しの間、香源司さんは空を見上げる。つられて、芙毬も一緒に上を見上げる。今日も、中々いい空だと芙毬としては思う。
「そうか」
 ところが、香源司さんはそんな呟きだけを漏らすと、振り返って歩き出してしまった。帰るのかな?
「香源司さん。体調はもういいの?」
 芙毬が当たり前のエンパシーからそう尋ねる。
「少し目眩(めまい)がしてただけ。もう、帰れるよ」
「そっか、じゃあ、また明日ね」
 芙毬が軽く手を振ってバイバイの合図を送ると、香源司さんも立ち止まって軽く手を振ってくれた。
「巫奈守さん」
「うん?」
「私はね、加速する空が、たまに怖くなるよ」
「え?」
 余りに何気なく言うので、言葉の意味が理解できなかった。
「鞄と本、ありがとう、また明日」
 そう言って香源司さんはまた歩きだした。
(また明日)
 直前の言葉が理解できないまま頭の外に押し出され、続いたその言葉だけを、芙毬は心の中で繰り返した。
 ベンジャミン・フランクリンの銅像と、蒼天の空だけが二人を見ていた。
 そんな、いつものリディーエル学園の放課後だった。
 
 1/

 パープルタイとは、リディーエル学園の学年トップ5のみが付けることを許された紫色のタイである。
 リディの成績は産業時代的(と教師陣は言っている)な減点法のテストで学力を測定されて付けられるわけではなく、その生徒個人が稼いだ金額の大きさによって付けられるから、言ってみればパープルタイは付けてる者の金銭的能力、リディ風に言えばファイナンシャルスペックの高さを宣言している記号だ。大部分の生徒がビジネスオーナーを目指すというリディ的価値観に共感して入学してきてる以上、その紫のタイは当然憧れの対象になる。
 とはいえ、いくら数年前に法律が改正されて高校生がビジネスで稼ぐのが当たり前になりつつある時代とはいえ、それはまだまだお小遣い稼ぎ程度のレベルでの話と言わざるを得ない。実力も天分も努力も兼ね備えた大人達がひしめき合うビジネス界をフィールドにして、大きく稼ぎ切る高校生というのは珍しい。
 パープルタイは単純に稼いだ金額順に上位5名に与えられるわけではなく、大人達のフィールドで彼らと互角のレベルで稼いだ者という制限が付く。今現在、リディの一年生でその高い基準額のハードルを超えてパープルタイを付与されている者は、香源司由咲さんただ一人だ。
 天才という言葉は安易に使わない方がいいと芙毬は考えているけれど、少なめに評価しても標準的とは言えないであろう彼女の明晰な頭脳は、よわい十五歳にしてある商品を発明し、それで特許を取った。最初の特許料を受け取ったのが今年の四月冒頭。同じ一年生にして彼女はスタート地点から大人達のビジネスフィールドでの相対値と比べても十全な金額(=リディでの評価値)をその身に宿し、リディの入学式の壇上にてパープルタイを授与されるという異例の栄誉を受け取る運びになった。そんなリディの有名人。それが香源司由咲さんだ。
 そんなパープルタイである香源司さんが、ベンジャミン・フランクリン像の前で語り合った翌日、午前で授業が終わる土曜日の放課後にバームクーヘンを持って芙毬のもとにやってきたので、芙毬も回りも驚いた。
「作ってみたんだ。皆で食べてくれたまえ」
 そう言って、さも昔から時々こうやってお菓子のやりとりをしてたよね? とでもいった自然な態度で芙毬の机にバームクーヘンを香源司さんは置く。あっけに取られる芙毬とその友人二名。しかし、そんな芙毬達の反応をよそに、すぐにすらりと踵(きびす)を返して歩いていってしまう。
「こ、香源司さん!」
 我に返って声をかける。
「あ、ありがとう。私、甘いもの大好き。せっかくだから、香源司さんも一緒に食べようよ?」
「いや……」
 片手を小さく振りながら教室の出口に向かって歩いていってしまう。
「今日はこれからすぐ用事があってね。それに丁度三人分なんだ。是非とも三人で食べてくれたまえ」
 さらに教室の出口にさしかかった所で一度立ち止まり、芙毬に向かって一言付け加える。
「昨日はありがとう、嬉しかったよ」
 そしてそのまま教室を出て行ってしまった香源司さん。一陣の風に吹かれたような気分だった。風を意識した時にはもう風は通り過ぎて行ってしまっていた。後に残されたのは、友人達の好奇の視線だ。
「パープルタイとのお近づきフラグ来たよ、コレ」
「ほわわ。芙毬ちゃん。いつの間に香源司さんと仲良くなったん?」
 モダとセッチャンがそれぞれに反応を見せる。三人分ということで、名誉なことにパープルタイからバームクーヘンを頂いたことになる他二名である。
 モダこと茂田圭介(もだけいすけ)は飄々(ひょうひょう)としてるけど眼鏡でオタクというよく分からない奴。オシャレ眼鏡を人差し指でくいっとやりながら、たまにディープなオタク言語で話しかけてくるのが反応に困るけど、清潔な装いにバランスのいい長身という外見も相成って、基本的にはイイ奴だ。まあ、その、見たかったアニメのDVDを借りたのが親しくなったきっかけだったので、オタクがどうこうという点に関しては芙毬も人のことは言えない。
「香源司さんは○○(アニメのキャラクターの名前が入る)を彷彿とさせるクールビューティーだよな。小柄なのがポイントが高い。是非、俺にも紹介してくれ」
 早速こんなことを言っている。
 一方でセッチャンこと翔田刹子(しょうだせつこ)ちゃんは碧黒い長い髪が綺麗な芙毬的には天使な女の子。「ほわわ」とか「はやや」と言ったモダが好みそうなホワホワとした口癖に、エセ(本人曰く)関西弁で喋るというちょっと変わった娘なんだけど、総じて外見も性格も大和撫子といった風情なもので、出会って二、三言葉を交わしただけで芙毬のツボに入った。これはもう、積極的にお近づきになってお友達になった。
「はやや。香源司さんはウチみたいなバカな娘のことは鼻で笑ってるような人なのかと思っとったわ。実はめっちゃイイ人だったん? お近づきになったら、定期テスト助けてくれるやろうか?」
 なんだか自分のことを下に置きがちで、セルフイメージが低い娘なんだけど、芙毬的にはセッチャンはバカなのではなくユニークなだけだと思ってる。案外、こういう娘がもの凄いビジネスオーナーになったりするのだ。今の時代というものは。
「えーと、ですね、昨日帰りに鞄を保健室まで届けに行って……」
 芙毬が事の次第を二人に説明する。まあ、あれだけのことでこんなお礼までしてくれるとは芙毬も思っていなかったので、それこそ、芙毬自身驚きながらの説明になってしまった訳だけれど。
「ふーん。なんや思う所があったんやろな。芙毬ちゃん、きっと香源司さんに気に入られたんやで」
「そして芙毬With取り巻きにまで手作りお菓子を御馳走してくれる訳か。クールビューティーがチラっと見せるそういう優しさにはグっと来るね」
 と、二人が勝手な感想を述べた所で、まあ、放課後も限られてる訳ですし。
「食べますか」
 三人で目を合わせてちょっとにやけ合ってみる。
 女の子が甘い物が好きだというのはまあ通説ということでセッチャンは分かるけど、その様子だとモダの方も甘い物を美味しく頂くことには何の異論も無いらしい。むしろ積極的に食べたいくらいの勢いらしい。
「じゃあ……」
 と、芙毬がバームクーヘンを包んでいるラップに手をかけた所、ここで想定外の事態が起こった。
 喋ったのだ。
 ラップが。
 香源司さんの声で。
「ちなみに、職員室の冷蔵庫を借りて保管しておいたから、鮮度は気にせずに食べてくれたまえ」
 ちょっとトーンが落ちてるというかテンションが低い感じだけど、間違いなく香源司さんの声だ。
「来た、来たよコレ!」
「ほわわ。これが噂の……」
 芙毬も思わず呟く。
「リンガーラップ……」
 そう、その存在こそはリディで知らないものはいないほどの知名度だが、まだ市場に出回って間もないため、実物を拝見したことがある者はまだ少数なはずである。
 これぞ喋る保存用ラップ。リディの誇るパープルタイ、香源司由咲さんが発明し、特許を持っている「リンガーラップ」である。
 日持ちするお料理なんかを包むときに、「○月○日のお昼です」なんて音声を吹き込んでおくわけですよ。それを数日後に冷蔵庫から取り出す時にこのリンガーラップのある部分を押すと、録音しておいた音声そのままに作った日にちを報告してくれて、ああ、○月○日のお昼に作ったものだったっけ……と思い出せるという代物なわけです。ただそれだけなんだけど、これが面白くてツボに入った人多数ということで、目下売れてる商品なわけです。
「これ、どういう仕組みなん?」
「さすがに分からん。だが、確かに天才の所業だなこれは! どことなくバカっぽい所がまた熱いぜ、これ」
 芙毬も軽い感動を覚えて何回かリンガーラップの青い丸の部分を触ってみる。多分、この青い丸が再生ボタン? のような部分なのだろう。
「ちなみに、職員室の……」
 再びしゃべり出す香源司さんの声。おお。複数回は再生可能なんだ。
 連打してみる。
「ちな…」「ちな…」「ちな…」「ちなみに……」
 おお、やっぱりこうなった。
「凄いね、これ」
 手を合わせて素直に感動を表現する。黙々と昼食を食べながら遠巻きに芙毬達を眺めていた、教室に残っていたクラスメイトの面々も興味津々という視線を遠くから送ってくる。
「うちらも返事を録音して返さな。どこが録音ボタンなん?」
「分からん。この赤い丸の部分が怪しいが、そもそも上書き録音が可能なのかが分からん。ていうか、どっちみち食べてからじゃね? 『ありがとう、美味しかったです』……とか、録音するとしてもそういう言葉だろ?」
 まだ余韻覚めやらぬほど芙毬は感激していたけれど、確かにまずはバームクーヘンを頂かねば。
「でも録音できたとして、ラップだけプラプラと香源司さんに返すのも変だよね?」
 同時にわいた疑問も口にしてみる。
「確かに、お礼は相手の目を見て直接伝えた方がいいよな」
 同意するモダ。
 それはそうだ。そもそも、冷蔵庫に云々という情報を伝えるためだけに、こんなステキなギミックを使ってくる方が、芙毬が想定する所の標準的なコミュニケーションの斜め上を行っている。
「香源司さんて……」
 セッチャンが皆の気持ちを代弁する。
 芙毬も同意だ。それも心の底から明るい気持ちになれてる、清々しい同意。
  香源司さんは、面白い人なのかもしれない。

2/






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