†† 夢 守 教 会 ††  第三話「輝きの先」1/(4)

  ブレインの憂鬱/4

「とりあえず、目的を教えてくれないかな?」
 ブレイン教会の本拠地になっている町の中心部から少し離れたビルディングの九階に訪れてきた少女に、俺は「俺」のままの自分で声をかけた。
 メールの向こう側にいる末端の信者と接する時は俺は「私」であり、ブレイン教会の教祖であるブレインだ。だけど、この少女はそういった末端と本拠地との間にある壁を超えてきてここにいる訳だから、彼女は最早末端の信者ではなく、「こちら」側の人間だ。シルヴィウスとも共有していない俺の場所に唐突に踏み込んできたこの少女に対してどう接するか、正直戸惑ってもいた。紺のスカートにピシャリとしたワイシャツ。上からベージュのベストを着ているという彼女は、なんだか学校の制服を着ているような格好だけれど、あいにくこの辺りにこのような制服を指定している学校は無い。彼女の私服ということだと判断できるのだが、普段からスーツを着用している自分としては、そんな彼女のフォーマルな服装に好感を抱かなくも無い。
「ですから、メールでお伝えしました通り、松果体(しょうかたい)の先の答えを聞きにまいりました」
 肩までの長さのよく梳かれた絹を連想させる黒髪に、憂いを秘めたような瞳でじっと俺を見つめて彼女が語り出した。
「あなたは私の恩人です。ここ半年あまりあなたから送られてきたメールの内容で私は救われました。何故なら、ずっと昔から私が知っていたはずなのに考えることから逃げていた事柄を、本当に鮮やかに、解きほぐして私に伝えてくれたからです。つまりは、私達が認識しているこの世界とは模造の世界に過ぎず、真実の世界ではないと」
「うん、その通り。こっちもそれを目的としてメールを送っていた訳だしね。だけど、それだけなら、君はその他大勢の他のブレイン教会の信者と変わらないんだ。君は、そこからこちら側にもう一歩踏み込んで来たよね? つまり君は俺、というかブレインの信者ではないんだ」
「いえ、逆です。私はあなたの信者です。むしろ、その他大勢の教会の信者様達よりも、重度の信者なのです。重度にあなたを信仰してしまったからこそ、教会の教祖として仮面をかぶっているあなたではなく、その下にあるあなた本来の『個』に対して私は信仰を持ってしまいました。だからこそ、既存の世界の代案として松果体を提案したあなたのメールを読んだ時、あなたが抱いていた迷いに気付いてしまったのです」
「うん。さすがに驚いた。信者さん達からメールは沢山来るけどね。君だけは、ブレイン教会の教祖ブレインという記号に対してではなく、ダイレクトに『俺』に語りかけてくるメールをよこした訳だから。思わず、面会も承諾してしまったよ」
「ありがとうございます」
 接客用のソファに腰を下ろしている彼女は、背筋を伸ばして足を閉じ、両膝に掌を乗せてかしこまっている。自分の内側に突然踏み込んできた彼女に対して、かしこまってしまいたいのは内心こちらの方なのだが、彼女は俺が上で彼女が下という姿勢を崩さない。この状況だけを客観的に見るのなら、企業の採用面接のようだな、などと平和なことを考える。
「紅茶を煎れよう」
 そう言って立ち上がった俺に、彼女は訝しげな視線を向ける。
「いやさ。もう少しリラックスして話そうじゃない」
「話をはぐらかされますか。私は、真剣に、退路を断って松果体の先にある本当の答えを聞きにここにやってきました」
 ソファから離れてデスクの位置まで移動して、俺はパックを入れた二つのティーカップを用意する。ポットで湯を注ぐコポコポとした音が、静かな空間に響き渡る。
「はぐらかそうなんて思ってないよ。ただね、俺としてもこの話を他人にするのはとても大きい意味を持っているんだ。確かに、松果体だなんていう祭り上げた記号ではない、俺が本当の意味で拠り所とする、『この世でもっとも確かなもの』のアテはある。君が察知した俺の『迷い』はその点にあるんだろう。だけどこれは人に話す類のものかどうかと思ってね。少し、リラックスして考えたいのは俺の方って訳さ」
 彼女はゆっくりと立ち上がると、雑然としたデスクの上のティーポットで紅茶を煎れていた俺の背後に向かって、静かに歩を進めてくる。
 彼女のベストの内側には、二振りのナイフが秘められていることを俺は既に察知している。ただ、仮にも俺は「甲剣」だから、万が一にも遅れを取ることはない。そう分かっていたから、放っておいただけのことだ。彼女にここで襲われたとして、たぶん俺に残るのは、自分が行ってきた洗脳行為の甘さを自戒する気持ち、ただそれだけのことに思われた。モトムラくんや彼女のような、イレギュラーなノイズが起こらないように、もっと精進しよう。きっと、そんな決意を俺に新たに抱かせるだけ。
 あと一歩で恐らく彼女の間合いに入るという所で、彼女の歩みが止まる。
 コンクリートの壁面に覆われた、殺風景な箱の中に、わずかな生活の臭いを残した事務所の部屋は、もう五月になるというのにひんやりとした空気に満ちている。
 ティーカップから上る湯気だけが温かいな。そんなことを思いながら振り返った俺の眼前で、彼女はその所作をとった。
 片膝を床につき、ゆっくりとベストから二振りのナイフを取り出して、俺に献上するかのように無機質な床の上に揃える。
 九階の窓から差し込む陽の光が眩しくて、上手く彼女の表情が見えない。けれど、何かを懇願するように頭(こうべ)を垂れて美しい黒髪を流した姿が、いつか見た宗教画の中の少女の姿に重なる。
「夜伽(よとぎ)をさせて頂きます」
 片膝をついたまま西洋の騎士が忠節の礼をとるような姿勢で、彼女が語り出す。
「この髪の一本から、愛液の一滴まで、全てをあなたに捧げます。それでも足りなければ、どうかここで私を殺して下さい」
 たぶんそれは、この年齢の少女が差し出せる全てなのだと理解した時、ある二つの風景が俺の目の前を過ぎった。
 脳裏に過ぎった一つは、俺を規定している氷雪の刀の心象イメージ。
 そしてもう一つは、あの人の笑顔。
 この少女の全てを差し出すしかないというどうしようもない懇願を、俺は知っている。
 つまり彼女は、あの日あの人に出会った、俺なんだ、と。自分でも不思議なほど、この時俺は彼女の本質を理解した。
 だから俺も片膝をついて、そっと彼女の濃い漆黒の髪を指で梳いてやった。
「ごめんね。やっぱりはぐらかしちゃってたのかも。でも分かったよ。うん、分かった」
 長い間躊躇していたある事柄に関して、この日まで何の関係も無かったこの少女の行為が、決断を促した。つまりは今日が、その日だったというだけのことなのかもしれない。
「『根底理論(こんていりろん)』」
 ゆっくりと、恋仇(こいがたき)の男が導き出し、あの人が追ったその言葉を口にする。
「これが松果体に代わる、俺が本当に信じている『この世でもっとも確かなもの』の名前だ。
 西條巫和君と言ったね、俺と一緒に、新しい世界を創ってくれるかい?」
 顔をあげた彼女は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
 潤った両の瞳で彼女が俺を観測し、「はい」とか細い声で返答した時、たぶん、俺もはじめて彼女を「見」た。

――綺麗なヒトだな。

 心象に位置づく氷の刃が、怪しく煌めきだす。
 これが、彼女、西條巫和と俺との最初の出会いだった。

       /ブレインの憂鬱4・了
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