†† 夢 守 教 会 ††  第三話「輝きの先」3/(2)

  ◇

「例えばあのまあるい雲が、優希には何に見える?」
「ええと、あんパン、とか」
「そう、だったら今、ただの水蒸気に過ぎないあの雲は優希にそう観測されることで『あんパン』としてこの世界に出現した。あいつ、シーモアグラス。っていうか蔦森瑠璃子(つたもりるりこ)はそういう存在の女だよ」
 そんなやりとりで菖蒲さんの話は始まった。

 菖蒲さんの部屋でシーモアさんの存在と「多元時空理論」という名前を出した途端、菖蒲さんは話を部屋の外ですることを申し出た。菖蒲さん自身は日中は葉明学園の教職もこなしているので外に出ること自体は珍しいことではないのだけれど、私や優希といった少し変わった生徒と話をする時は、一般的な人間との接触を切り離すためか菖蒲さんの部屋に籠もることが多かったので、外に出るという申し出は少し意外にも感じられた。
 葉明学園の運動場周辺に位置するベンチの上に三人で腰掛けて、空に浮かぶ雲を見上げる。
 この辺りは春先こそ桜並木が綺麗だが、五月も後半になり、桜は既に散ってしまっている。運動場の遠くで野球部らしき集団が発する低い声の号令と、カーンという甲高い打撃音だけが響いてくる。優希と並んで桜並木を歩いたのももう随分前なんだなと、そんなことを考えながら私は菖蒲さんの話に耳を傾けた。
「シーモアさん。いえ、瑠璃子さんですか。その言い方だと菖蒲さんのお知り合いなんですか?」
「つい最近まで存在を忘れていたけど、まあ、昔の学友にして親友かな。今二人から聞いた『多元時空理論』を展開できる人間はこの世界に瑠璃子しか存在しないから、まず間違いないと思う。忘れてたのに親友って呼べるかは微妙だけれど、あいつは存在自体が世界定立(せかいていりつ)の外にいるヤツだから、こればっかりはしょうがない。
 いや、しかしね。まさかこの時間、今この時にあいつを観測できたのが他ならぬ私と関係性が深いあなたたちだって言うのに運命のようなものを感じるよ。ああ、一九九九年の七の月に世界が滅びるっていうノストラダムスの大予言は、本当に当たるのかもね。その場合、恐怖の大王は他ならぬ瑠璃子ってことになるけど、それだと大王じゃなくて女王になっちゃうね」
「菖蒲さん、さすがに話が見えないわ」
 遠くを回想するような目で空を見つめたまま話し出した菖蒲さんに、優希と顔を見合わせながら突っ込みを入れる。菖蒲さんの話が難解なのはいつものことだけれど、今日のはいつにも増して度が過ぎている。
「ああ、ゴメンゴメン。順番を追って話すね。まずはそう、瑠璃子が世界を殺した女だって話からかな。『多元時空理論』の話からしよう。機会を逃すと、またいつあいつが私の認識から逃れてできなくなるか分からないから。
『多元時空理論』って言うのは、ようはこういうこと。私達が今過ごしている世界っていうのは、大本となる『既存』の世界から発生した、何番目かの『模造』の世界だっていうこと。それを数学と言語学の言葉で瑠璃子が学術的に論証したものだよ。ほら、こんな感じかな」
 そう言うと菖蒲さんは部屋から持ち出してきた大学ノートに、サインペンで次のような図を書いた。



「ここが最初の『既存』の世界で、今私達が生きているこの世界は、まあ何番目なのかは分からないけど、そこから複製された沢山の『模造』の世界のうちの一つに過ぎないってこと」
 菖蒲さんがサインペンのキャップでノートに書かれた図を指しながら解説を続ける。
「いわゆるSFなんかにある平行世界(パラレルワールド)が存在するってお話ですか? でもそんなバカな。パラレルワールドの存在が学術的に証明されたら、さすがに新聞の科学欄にも載るでしょうし、世界はもっと大騒ぎをしたはずですよ。だけど僕は今の今までそんな話を聞いたことがない」
 優希の意見に私も心の中で同調する。
「それはさっきも言ったけど、瑠璃子ってやつは世界定立の外にいる存在だから、その瑠璃子が生み出した『多元時空理論』も、瑠璃子を観測できる人にしか伝えられないし、理解もできないんだ。私ですら、つい最近まで忘れていたくらいだからね。メディアに『多元時空理論』があがるなんてことはあり得ない。そうだね、瑠璃子を観測できるやつって、数人しか心当たりがない。だから、他ならぬあなたたちが観測できたっていうのに、さっきは感慨深いものを感じたんだ」
 模造の塔の屋上で出会った、シーモアグラスと名乗った女性の姿を思い出した。夕日の眩さに隠れて顔が見えづらかったけど、確かにあったその姿と、交わした会話を私は覚えている。だと言うのに、あの時、あのヒトを観測することができた私達は特別で、あのヒトは誰からも認識されない場所にいるのが無標だと言うのだろうか。
「さて続いて、どうしてこの『多元時空理論』が世界を殺すことになるかの説明だけど、これにはアダム・スミス以来の古典経済学の『価値』の概念が有用だね。理子、ダイヤモンドに価値があるのはどうしてかな?」
 私は菖蒲さんが言わんとしていることを即座に理解した。
「それは、稀少だからだわ」
「その通り、稀少なものは価値が高い。ダイヤモンドの価値が高いのは、圧倒的にこの世界に数が少なく、貴重だから。
 そして、この稀少ってことを突き詰めていくと、『この世界にたった一つ』になる。たった一つのものは価値が高い。というより、たった一つだからこそ意味があるんだ。『私』という存在はこの世界に一人しかいないからこそ意味がある。生命は、人生は一度きりしかないから意味がある。生涯の伴侶となる異性は一人だけだから意味がある。そして、世界は一つだけだから、意味がある。
 ね? 瑠璃子の『多元時空理論』は世界を殺しているでしょう? 世界がいくつもあるのなら、今、私達が生きているこの世界には価値も意味も無くなってしまうんだ」
 私と優希は押し黙ったまま菖蒲さんの話を聞いている。特に私に関してだけど、「生涯の伴侶となる異性は一人」という部分で、私は知らずに拳を握りしめていた。
「だけど、この話をあなた達にできたってことは、私はもう一つの話もあなた達にできるということになる。世界を殺した蔦森瑠璃子という女がいたとしたら、世界を救ったもう一人の男がいたという話だね。いやまさか、あなた達にこの話をする日が来るとは本当に私は思っていなかった。思っていなかったというか、本当に忘れていたんだけど。瑠璃子も、あいつも、本当にたちが悪いね」
 語り続ける菖蒲さんの横顔を私は見ていたのだけど、その部分で、少しだけ菖蒲さんは嬉しそうな微笑を見せた。
「世界を救った男の名前は、王城豊(おうじょうゆたか)。こいつも私の知古にして学友にして、世界定立の外にいたやっかいなヤツだ。
 その王城豊が導き出し、証明した理論を、『多元時空理論』に対して『根底理論』と呼ぶ」
 菖蒲さんが、再び大学ノートの図にサインペンで書き込みを加える。
「つまりは、こういうことだね」
 複数存在した「模造」の世界を表す縦長のまるを一気に横断するように、ぐいと横長のまるを菖蒲さんは書き加えた。



「大本の『既存』の世界にも、そこから生まれた幾つもの『模造』の世界にも、こんな風に根底に流れている、共通普遍的な『確かなもの』があることを王城は証明したんだ。この『根底理論』の証明によって、『多元時空理論』によって破壊された世界の価値は回復されることになった。分かる? 世界が幾ら模造されようと、その根底に流れている『確かなもの』は一つなんだから、私達はそれに救いを求めることができる。世界が『模造』の繰り返しで意味を失っても、根底にあるそれだけは『確か』なんだから、私達はこの世界にも意味を見いだせる。何故なら、王城の理論からいけば、その『確かなもの』は何番目かの模造かも知れないこの世界にも『ある』ってことだからね」
「菖蒲さん、もしかして」
 そこまで聞いた所で、優希が真剣な眼差しを菖蒲さんに向けた。
「その王城豊さんが証明した『根底理論』と言うのが……」
 私も唇をかみ締めて、じっと菖蒲さんを見つめる。

「「『この世でもっとも確かなもの』」」

 優希と私が共通の見解に到達する。
 優希を精神の病から解き放ち、私を死から救いあげる、私達二人が共有する探し物。
 『夢守教会』の、教義となるべき物。
「その可能性はある」
 菖蒲さんは虚空を見つめたまま、何かを回想するかのように目を細める。あるいは、友人だったという、瑠璃子さんと王城さんのことを思い出しているのかもしれない。
「私が瑠璃子と王城を再び観測し、あなた達に二人の理論を伝えられたということには、おそらく偶然じゃない、世界の必然としての意味がある。だとするならば、王城の『根底理論』こそがあなた達を救う『この世でもっとも確かなもの』である可能性はあると思う」
「いずれにしても確かめてみるわ。どうすれば、私達はその王城さんの『根底理論』の内容を知ることができるの?」
「T大学の言語学研究室の書庫に、王城が書いた論文がある。ただ、王城も瑠璃子と同じ世界定立の外の存在だったから、王城が残した論文も観測できるのは本当に希有な一部の人間だけだ。こうして二人の存在と二人の理論を思い出している今の私でさえ、論文までは手にすることができるかどうか分からない。
 それでも取りに行くなら、満月の夜にしておくんだ。実に霊的な話だけど、経験上、満月の夜はあいつらに関する事柄を観測できる確率が高まるんだ」
 少し思考を働かせて計算する。満月の夜、明日だ。
「だけど」
 そう前置きした菖蒲さんは、文字通り仰ぎ見るように、人間には理解が及ばない『何か』に救いを求めるかのように空を見上げた。
「明日行くなら、満月が上ってできるだけすぐがいい。ブレイン教会も、王城の『根底理論』を狙っているから」
 その言葉に私と優希が驚いて顔を見合わせる。ブレイン教会。菖蒲さんが現在起こっている連続殺人事件との関連を探っていて、モトムラ君事件では間接的に私達も巻き込まれたその教団の名が、何故今の話から。いやそれ以前に……。
「どうして菖蒲さんがそのことを?」
「運命のようなものがあるのだとしたら、感謝が半分。もう半分は、呪ってしまいたい気持ちもある。だけど彼が私のもとにやってきて私が瑠璃子と王城を思い出し、そしてあなた達も瑠璃子に出会ったというのなら、やはりこれも何か意味があるんだ。だから告げるよ。私やあなた達の他に瑠璃子を観測できる希有な人間の一人が、ブレイン教会の教祖ブレインだ。この前、私に王城の論文の在処を尋ねに会いに来たんだよ」

 その事実を知った時から、私達の一九九九年の物語は結末に向かって加速し始める。

「理子、ブレイン教会の教祖ブレインの正体は君の友人、甲剣竜志だ」
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