†† 夢 守 教 会 ††  第三話「輝きの先」4/(1)

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  巫和の世界/4

「今日、取りに行くよ」
 その日、朝食の席で竜志様がそう切り出した。
 一通り、私が作った朝食を褒めちぎった後のことだった。私は、料理を褒めてくれるのは嬉しかったけれど、今までの竜志様の食生活がひど過ぎたのだ。メール越しでは、相手の食生活までは分からなかった。コンビニで買える軽食や栄養剤で済ましているとはとても思わなかったのだから。などということを考えている所だった。
「巫和君にも待たせてしまったね。今日が満月の日だから、夜に、T大学に『根底理論』の論文を取りに行く」
 いよいよ始まるのだな。その言葉を聞いて、私は胸が静かに躍動するのを感じた。
 この部屋にかくまってもらっている間、竜志様とは沢山のお話をしたので、なんとなく、竜志様が行おうとしている『世界の壊し方』と、『世界の創り方』が理解できるようになっていた。
 ありていに言えば、竜志様は世界を観測する人間の内面の方を一度壊し、そこに『この世でもっとも確かなもの』を上書きしようとしているのだ。観測者のあり方が『真実』であれば、観測される世界もまったく新しい真実の世界になる。そこが、きっと私が渇望した『痛み』のない真実の世界なのだと、私は理解していた。
「根底理論」はこの計画の要だ。その真実の具現が、いよいよ竜志様の手に渡る。今日は、なんて記念すべき日なのだろう。
「あの人を救う鍵が、俺には二つ見えていた。一つは恋仇が創った『根底理論』で、もう一つは理子ちゃんの笑顔の意味だ」
 聞き慣れない名前を耳にする。
「理子ちゃん、とは?」
「うん。理子ちゃん。いつか話した、死んでしまう自分を救うために宗教を創った女の子だ。巫和君とは葉明学園の同学年のはずだ。知ってる?」
「名前を、聞いたことはあります」
 弓村理子。
 会ったことも言葉を交わしたことも無いけれど、一年のクラスの時、その存在は聞いたことがある。確か、一年の途中から、授業にほとんど出なくなったという不良生徒だ。
 学業と、その先に繋がっているはずだった未来を求道していた当時の私とはまったく接点がなかったのだけど、本人同士が知らない関係なのに、表面的に付き合っていた友人達が、よく容姿を私と彼女で比較する話題を出してきたのを覚えている。正直、少々不快に感じていた出来事だった。
 もうすぐ死んでしまう?
 宗教を創った?
 なんなのだろう、それは。
「満月を待っていたっていうのもあるんだけど、どこかで、彼女、理子ちゃんの笑顔の意味がひっかかってたっていうのもあるんだ。やがて死んでしまう彼女が笑っていられるように、あの人も笑っていられたなら、なんてね」
 竜志様はしんみりと語られたが、意味を上手く捉えられなかった私は率直な感想を述べる。
「理解しかねます。弓村理子が笑っていることの、何がそんなに重要だというのでしょうか」
 本当に、意味が分からなかった。何故、計画にとって重要な日の朝に、竜志様はこんな話をされるのだろう。
「ま、聞いてよ。巫和君が信仰する竜志様のお話というよりは、愛する女性に振り向いて貰えなかった情けない同年代のダメな男の愚痴だと思って聞いてくれ。なんだかね、他ならぬ君に聞いて欲しいんだ。
 理子ちゃんっていうのはさ、昔からこの世界の綺麗なモノを探していた。春の桜とか、夏の太陽とか、秋の紅葉とか、冬の雪景色とか、俺だったら何気なく見過ごしてしまうそんな世界の風景の中から、彼女の認識は、常人には分からない『美しさ』を見つけていた。認識の姫巫女(ひめみこ)である理子ちゃんは、そういう意味で俺なんかより世界に対する視力が断然に良いんだ。
『根底理論』の在処を知っている人に会いに行った時、その人が言ってた。そんな理子ちゃんは、やがてくる死の運命を前にしても、この世界の美しさを信じて、この世界の中から『確かなもの』を探そうとしてるって。それが彼女の宗教だって。俺があの人が生きられないなら壊そうと決めた世界の中で、今もなお、さ。
 そんな理子ちゃんだからなのかな。今、理子ちゃんの側には一人の少年がいるんだ。この前話した、たぶん理子ちゃんのことを『好き』だっていうそれだけの少年だ。そしてその少年のおかげで、理子ちゃんは今でも笑顔のままで、この世界の美しさを信じて探し物をしている。その話を聞いた俺はショックで、少年に直接会って、実際に対峙して確かめてきた。少年はいかにして理子ちゃんに笑顔をもたらしたのか、ってね。
 結果としては、俺の負けだった。確かめるまでも無かったんだ。今にして思えば、そのことを俺は、初めて少年に会った時から実は気が付いていたんだから。少年は俺にできなかった、『大事な人の笑顔を守る』っていうことを、ただ少女の側に寄り添うだけで、叶えてしまっていたんだってことをね。
 この話はそれだけなんだけど、やっぱりちょっと思っちゃうよね。もし俺が、その少年のようにあの人の笑顔を守れたのなら、この世界を壊さなくてもいいのに、なんてね」
 竜志様の長い告白を、私は一言一句聞き逃さずに、竜志様の瞳を見たまま聞き終えた。男の人から、内面に眠らせている心情を飾らずに打ち明けられたという経験ははじめてだった。その相手が他ならぬ竜志様だったというのに、私は何か大きな存在の意志のようなモノを感じた。つまりは竜志様は、自分は神でも、何らかの崇高な存在でもなく、迷いを持ち合わせたただの人間なんだと、きっとそういうことを私に伝えようとしていたからだ。
「竜志様は、間違っていません」
 私の内側から、とめどなく、形にならない、熱い言語の清流が湧き出してくる。
 ただ伝えたくて。この時、今までよりも少し小さく見えてしまったこの男の人に、あなたがその大切な人のために積み重ねてきた時間は、絶対に間違ってないと伝えたくて。
 ダイニングのテーブルの上には、長い話で少し冷めてしまったスクランブルエッグと、早朝から仕込んだポテトサラダとトースト。そして湯気を失った紅茶が並んでいる。
 私は立ち上がると、対面する位置に座っていた竜志様の眼前で、両手を胸の前で組んで瞑目し、竜志様に祈りを捧げた。
「この世界が美しいなんて。愛する人がいるだけで救われることがあるなんて。そんなのは、世界に愛されたことがある人間と、愛してくれる人がいた人間だけが抱く誤謬です。どうか、迷わないで下さい」
 あなたがただの人間だとしても、私はそのただの人間であるあなたを信仰し続けます。
 伝わったのかどうかは分からなかったけれど、少しの沈黙の後、竜志様は、
「今夜、根底理論を取りに行く」
 そう答えて下さった。
 こうして、一九九九年の五月の、ある満月の日は始まった。

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