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概要 |
公園はバス通り側に芝生広場が広がる。幼児用の徒歩池もあり、夏の真っ盛りには水浴びをするチビっ子達で賑わう。木立の中のベンチやテーブルで日陰に出会えれば、まるで高原にいるような錯覚も感じる。
公園の北側西寄り半分は湿地帯で湿性植物が繁茂している。大人でも埋もれてしまうほどの深い密集地帯である。虫や小鳥の鳴き声があちらこちらから聞こえる。このあたりの歩道を真夜中に通ると(24時間立ち入りOK)、都会の中とは思えないほどの無気味ささえ感じる。ホタルが飛んでいても不思議でないような闇である。
北側東寄りは草原地帯のようである。犬がほんとうにうれしそうに走り回っている姿をよく見かける。
<管理事務所・トイレあり> 下記地図内の記号は、次項の[風景]の撮影方角を示す。
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開園 |
平成5年6月1日 |
面積 |
60,010.93m2 |
樹木数 |
高木:512本、低木:1,986株、
芝生:8,550m2 |
主なトンボ |
ギンヤンマ、アキアカネ、シオカラトンボ |
主な植物 |
カワヤナギ、シラン、ススキ、ノカンゾウ、バーベナ、ヒガンバナ、ミソハギ、ヤマブキ |
所在地 |
荒川区東尾久七丁目・町屋五丁目
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TEL |
尾久の原公園・管理事務所 |
アクセス |
都電荒川線「東尾久三丁目」下車徒歩10分
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[風景]右上のマップ記号からの撮影。
【平成11年(1999)10.10】
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●A:芝生広場と木立 |
●B:すすきの密集地帯 |
●C:湿地帯にかかる橋 |
●D:少々干からびた池 |
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年譜 (★旭電化工業総務・法務部 法務・広報G様のアドバイス<2001.12.27>により修正しました。) |
大正6年(1917) |
旭電化工業創業。 |
昭和17年(1942) |
アメリカ軍による史上初の日本本土空襲の目標として旭電化が狙われる。 |
昭和40年(1965) |
旭電化工業 鹿島への転出を決定。★ |
昭和48年(1973) |
東京都が旭電化工業に尾久工場の土地譲渡申し入れ。★ |
昭和51年(1976) |
旭電化工業 東京都に尾久工場の土地売却を決定。★ |
昭和52年(1977) |
東京都が清掃工場・汚水処理場用地として旭電化工場用地を買収。
(旭電化工業 東京都と尾久工場土地の売買契約を締結★) |
昭和53年(1978) |
旭電化跡地利用計画協議会発足。 |
昭和54年(1979) |
旭電化工業尾久工場の操業完全停止及び解体工事開始。★ |
昭和56年(1981) |
旭電化跡地利用構想について、区と都の合意成立。
東京都に尾久工場の土地引き渡し。★ |
昭和58年(1983) |
汚染土壌対策委員会の答申に従い土壌処理開始。★ |
昭和60年(1985) |
尾久工場の解体・撤去及び土壌処理完了。★ |
昭和61年(1986) |
跡地西半分に都立医療技術短大が開設。(平成10年より保健科学大学) |
平成元年(1989) |
東京都が運動公園とすることを決定。WWWF(世界自然保護基金)日本委員会が都知事宛に「湿地環境保全の要望書」提出。 |
平成2年(1990) |
尾久の原公園基本計画図ができる。 |
平成5年(1993) |
都立尾久の原公園が部分開園。 |
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付記:戦争の爪あと |
旭電化の工場跡地として名高いが、公園北部の一部は、東京電力火力発電所の跡地である。(旧・隅田火力発電所) 一帯は、今でこそのどかな風景であるが、戦時中は旭電化・発電所とも、城北の産業基幹施設として存在したためか、昭和17年(1942)4月18日の初空襲で、アメリカ軍B25爆撃機の標的となっている。当時、東京では尾久の他、5ヶ所において空襲の被害を受けているが、死者39名のうち、10名(資料によっては9名)が尾久地区の空襲での犠牲者であった。(爆弾は工場ではなく、民家に落ちたようだ。=保健科学大の西側付近か? 2000.8.8修正・・・尾久町9丁目2795番地付近で、現在の東尾久8丁目の尾久橋のたもとである。)
この空襲の様子を一部始終目撃した尾久警察の技官が敵襲の緊急報告を中央へ連絡したが(12:15)、予想もしなかった敵襲に、事実確認が遅れるほど混乱し、敵機が尾久から去ったあとに、全都に空襲警報が鳴り渡ったと言うことである。(12:28) 開戦からわずか数ヶ月、東京大空襲の3年前のことである。その後、この付近は空襲が相次ぐことになるが、ここで遊んでいる人の中でこの史実を知る人は、かなり少ないのではないだろうか。 |
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