都立尾久の原公園


 2000.2.1/8.8 2002.3.19

(2002.3.19 年譜修正)  
 この公園は、平成5年(1993)にオープンした比較的新しい都立公園です。特に何かあるわけではありません。ちょっとした芝生と遊歩道があるだけです。あとは自然のまま。といっても古来の自然が保持されているのではありません。そもそもここの大半は20数年前までは、旭電化工業(大正6年・1917創業)という会社の化学・食品工場だったのです。(約19ヘクタールあった敷地の西半分は、都立保健科学大学となっています。) 工場の転出後、跡地利用をめぐって紛糾し何年かの月日が立ちました。その内に、雨水がたまり、ヨシなどの湿生植物が生い茂り、数多くの動植物が回帰しました。特にトンボはこれまでに希少品種を含む30種以上が発見され全国有数の生息地として注目をあびました。野鳥も60種以上が確認されているようです。跡地利用については、さまざまな施設を作る案や人工の公園を造成する計画がありましたが、自然保護団体などの努力により、自然を活かした「尾久の原公園」として開園しました。マスコミに取り上げられることも多いですね。ただ、かつてより、湿地が少なくなったような気もします。わずかな間に植生も変わっているようですし、まるで、野山の変化のダイジェスト版を見ているような気にもなります。(一度失った自然は戻らないと言いますが、自然の回復力はすごい!)
 老若男女を問わずたくさんの人が自然を満喫し、気軽に寝転がることができる原っぱ公園ですが、一つ気になることがあります。犬の放し飼いが多いのです。犬も散歩したいだろうから、禁止とは言いませんが、節度を守ってほしいです。苦情も多いようで注意を促す看板にも力が入ってきているようです。原っぱのあちこちに犬のフン(野良のかもしれないけれど、明らかに放し飼いのも多い。)じゃ、興ざめですから。

 ところで、「江戸名所花暦(文政10年・1827)」や「武江産物志(文政7年・1824)」では、「尾久原の桜草」を紹介しています。今の尾久の原と全く同じ場所かどうかはわかりませんが(2000.8.8修正・・・旧尾竹橋中学あたりの隅田川沿岸らしい。)、桜草も復活しないかなぁ。ちなみに尾久の原の上流域である浮間ケ原も桜草の名所だったということですが、こちらは、昭和37年(1962)に保存会が結成され、昭和39年(1964)より一般公開されています。その後、平成元年(1989)に、現在の浮間ケ原桜草圃場が都立浮間公園内にオープンしています。
 ぜひ、尾久の原にも桜草を復活させたいものです。(ついでに、荒木田の原のすみれも尾竹橋公園に復活させよう!・・・「江戸名所花暦」には、荒木田原のすみれのことも取り上げられています。) もっとも、私が知らないだけで、そのような試みがあるのかもしれませんが。flower2.gif (3431 バイト)
  なお、尾久の原公園は現在も造成中です。最終的には運動施設や多目的広場
などもある大規模な公園(10ヘクタール)となる予定です。今後拡張されるエリアは
都の下水施設を建設してから造成される予定のため、完成まで10年以上かかるよ
うです。

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概要
 公園はバス通り側に芝生広場が広がる。幼児用の徒歩池もあり、夏の真っ盛りには水浴びをするチビっ子達で賑わう。木立の中のベンチやテーブルで日陰に出会えれば、まるで高原にいるような錯覚も感じる。
 公園の北側西寄り半分は湿地帯で湿性植物が繁茂している。大人でも埋もれてしまうほどの深い密集地帯である。虫や小鳥の鳴き声があちらこちらから聞こえる。このあたりの歩道を真夜中に通ると(24時間立ち入りOK)、都会の中とは思えないほどの無気味ささえ感じる。ホタルが飛んでいても不思議でないような闇である。
 北側東寄りは草原地帯のようである。犬がほんとうにうれしそうに走り回っている姿をよく見かける。
<管理事務所・トイレあり>    下記地図内の記号は、次項の[風景]の撮影方角を示す。
開園 平成5年6月1日
面積 60,010.93m2
樹木数 高木:512本、低木:1,986株、
芝生:8,550m2
主なトンボ ギンヤンマ、アキアカネ、シオカラトンボ
主な植物 カワヤナギ、シラン、ススキ、ノカンゾウ、バーベナ、ヒガンバナ、ミソハギ、ヤマブキ
所在地 荒川区東尾久七丁目・町屋五丁目
TEL  
尾久の原公園
・管理事務所
アクセス 都電荒川線「東尾久三丁目」下車徒歩10分
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[風景]右上のマップ記号からの撮影。  【平成11年(1999)10.10】
:芝生広場と木立 :すすきの密集地帯 :湿地帯にかかる橋 :少々干からびた池
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年譜  (★旭電化工業総務・法務部 法務・広報G様のアドバイス<2001.12.27>により修正しました。)
大正6年(1917) 旭電化工業創業。
昭和17年(1942) アメリカ軍による史上初の日本本土空襲の目標として旭電化が狙われる。
昭和40年(1965) 旭電化工業 鹿島への転出を決定。★
昭和48年(1973) 東京都が旭電化工業に尾久工場の土地譲渡申し入れ。★
昭和51年(1976) 旭電化工業 東京都に尾久工場の土地売却を決定。★
昭和52年(1977) 東京都が清掃工場・汚水処理場用地として旭電化工場用地を買収。
旭電化工業 東京都と尾久工場土地の売買契約を締結★)
昭和53年(1978) 旭電化跡地利用計画協議会発足。
昭和54年(1979) 旭電化工業尾久工場の操業完全停止及び解体工事開始。★
昭和56年(1981) 旭電化跡地利用構想について、区と都の合意成立。
東京都に尾久工場の土地引き渡し。★
昭和58年(1983) 汚染土壌対策委員会の答申に従い土壌処理開始。★
昭和60年(1985) 尾久工場の解体・撤去及び土壌処理完了。★ 
昭和61年(1986) 跡地西半分に都立医療技術短大が開設。(平成10年より保健科学大学)
平成元年(1989) 東京都が運動公園とすることを決定。WWWF(世界自然保護基金)日本委員会が都知事宛に「湿地環境保全の要望書」提出。
平成2年(1990) 尾久の原公園基本計画図ができる。
平成5年(1993) 都立尾久の原公園が部分開園。
 
付記:戦争の爪あと
 旭電化の工場跡地として名高いが、公園北部の一部は、東京電力火力発電所の跡地である。(旧・隅田火力発電所) 一帯は、今でこそのどかな風景であるが、戦時中は旭電化・発電所とも、城北の産業基幹施設として存在したためか、昭和17年(1942)4月18日の初空襲で、アメリカ軍B25爆撃機の標的となっている。当時、東京では尾久の他、5ヶ所において空襲の被害を受けているが、死者39名のうち、10名(資料によっては9名)が尾久地区の空襲での犠牲者であった。(爆弾は工場ではなく、民家に落ちたようだ。=保健科学大の西側付近か? 2000.8.8修正・・・尾久町9丁目2795番地付近で、現在の東尾久8丁目の尾久橋のたもとである。
 この空襲の様子を一部始終目撃した尾久警察の技官が敵襲の緊急報告を中央へ連絡したが(12:15)、予想もしなかった敵襲に、事実確認が遅れるほど混乱し、敵機が尾久から去ったあとに、全都に空襲警報が鳴り渡ったと言うことである。(12:28) 開戦からわずか数ヶ月、東京大空襲の3年前のことである。その後、この付近は空襲が相次ぐことになるが、ここで遊んでいる人の中でこの史実を知る人は、かなり少ないのではないだろうか。
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