花見寺 <六阿弥陀道あたり>

アラカワシティ・シンキング


富士見坂
 浄光寺を背に諏訪台をゆっくりと下る120mほどの坂道が富士見坂である。
富士見坂は、富士山を見ることのできる坂として各所に存在したが、建物の密集化や大型化により、本当に見ることのできるのは、都内ではここだけになってしまった。しかし、最近、前方にマンションが建設され、富士山の左側を三分の一ほど覆ってしまったのが残念である。別名「花見坂」とも「妙隆寺坂」とも言う。花見寺と呼ばれた三つのお寺の一つ、妙隆寺が、下り方向右手にあったからである。近年、荒川区の「すいろみち・さかみち景観整備事業」によって観光名所としてのお色直しが行われている。(それまでは、もっと素朴な坂道だったような・・・)

 

▲富士見坂
2001.7.7


花見寺・妙隆寺跡
 富士見坂の脇に所在した
旧・妙隆寺は、北隣の修性院、そのまた北隣の青雲寺とともに花見寺と呼ばれる寺院だった。現在は、マンションが立つその跡地は、映画史や学校教育史においても重要なところだ。
 妙隆寺は、元禄7年(1694)、富士見坂隣接の地に移転し、寛延元年(1748)に崖下に桜やツツジを植えて庭園化、「花見寺」として名を馳せた。これを修性院や青雲寺が真似たとの説や、修性院の庭園化を妙隆寺が真似たとの説もある。六地蔵詣で、六阿弥陀詣でのルートにあることも手伝って、江戸時代かなりの名所として知られた。しかし、明治期になって経営上の行き詰まりから廃寺となっている。(檀家は隣接の「元祖・花見寺、修性院に移籍) 
 その跡地に明治38年(1905)移転してきたのが、
東京女子体操音楽学校(現在の東京女子体育大学)である。東京女子体育大学は東京女子体操音楽学校の名前に改称した明治35年(1902)を創立年としており、平成14年(2002)に創立100周年を迎えるが、学校法人藤村学園の名に残る藤村トヨが東京女子体操音楽学校の運営に乗り出したのは、明治41年(1908)のことであった。それは、まさに日暮里・妙隆寺跡に在した時代であり、藤村学園スタートの地といえるのではないだろうか。その後、同校は、明治42年に下谷区三崎町に転出、明治43年、日暮里村1054(現・西日暮里4−29)に移転、大正11年(1911)まで所在している。
 明治42年に東京女子体操音楽学校が転出した後、妙隆寺跡には芝居小屋・花見座を経て、明治43年(1910)7月、
福宝堂の日暮里花見寺撮影所が開設されている。映画史にも登場する日本映画黎明期の撮影所であった。江戸時代より「日暮里の林泉」として知られたこの界隈は、ロケの場所としても最適地だったのかもしれない。福宝堂は、その後、大正元年(1912)、横田商会、吉沢商店、Mパテー社と合同し、日本活動写真株式会社(日活)を設立している。
 ・・・というのが、区の資料などに示されている内容である。ただ、明治44年発行の地図には、崖側に妙隆寺の名が、坂下側に花見座の名があること、大正15年(1926)発行の「日暮里町史」には、「妙隆寺・・・・現住職渡邊教通氏は大正5年・・・就職せり」という記載があることを見ると、明治期に廃寺⇒跡地に映画撮影所、ではなく、敷地を分割して共存していたと考えられるのではないだろうか。

 

▲妙隆寺跡
左の東京製鋲所と右の
マンション辺りも敷地だった。
突き当たりの崖に
花々が咲いていたのだろう。
2001.7.1
 


▲坂下側から見た富士見坂
左手の緑に妙隆寺を偲ぶ
2000.11.5


六阿弥陀道
 
富士見坂下に到達すると左右に続く道に出る。これを
六阿弥陀道という。左に進めば、谷中ぎんざの商店街入口に出る。右に進めば、道灌山通りの西日暮里四丁目交差点に出る。道灌山の項で示した、渡辺町の旧並木道筋へと続くのである。六阿弥陀道というのは、江戸時代に流行した六阿弥陀詣での道筋だったことにちなむ。六阿弥陀詣でとは、行基作成といわれる六体の阿弥陀像を安置した六つの寺を巡るのである。奈良時代の頃より始まり、春秋のお彼岸に、お遍路さんのような格好で巡礼したらしい。諏訪台下を沿う曲がりくねったこの道は、田端の第四番与楽寺と上野広小路の第五番常楽院を結ぶルートだった。富士見坂から南寄りの南泉寺前に石碑が建てられている。(平成4年・1992)
 ところで、(荒川区ではないが、)上野広小路の第五番常楽院にこんなエピソードを見つけた。江戸時代の川柳の元祖、柄井川柳の「誹風柳多留」の中に・・・・・・五番目は同じ作でも江戸生まれ・・・・これは、現在の足立・北・江東区(当時は江戸近郊)に第五番以外のお寺があることを指摘し、第五番常楽院の阿弥陀像だけが江戸っ子だ!といった意味合いが込められているのである。しかし、現在は、その常楽院のみが移転(調布市)し江戸から最も遠く離れてしまったことは何とも皮肉である。・・・・・と思いきや、阿弥陀様だけは、常楽院長福寺のあった上野広小路近くの池之端・東天紅裏で六阿弥陀第五番という祠に、しっかり居を構えていらっしゃった!



▲六阿弥陀道と
富士見坂(右)の交差点
2001.7.7
 
 

▲六阿弥陀道の石碑
2001.7.10


花見寺・修性院
 
さて、六阿弥陀道を道灌山通り方面(北上)に向かった。すると、右手に修性院(しゅしょういん)があった。日暮里の花見寺の一つである。寛文三年(1663)に現在地へ移転し、宝暦6年(1756)に京都の名庭師・岡扇計の手により庭園化した。ついで、隣接の妙隆寺・青雲寺も庭園化した、という説もあるが、寛延元年(1748)に妙隆寺が崖下を庭園化したのがきっかけとする説もある。
 現在の修性院には当時の面影はない。背後に第一日暮里小学校があるが、その校地を含む諏訪台の崖下あたりが、かつての花見寺・修性院の敷地であった。
 なお、修性院には
布袋尊像がある
が、これは谷中七福神の一つとなっている。
谷中七福神は、享和年間(1801−1804)から始まったとされる最も古い七福神詣でとされている。



▲花見寺の一つ修性院
2000.11.5


花見寺・青雲寺
 
修性院をあとにして、さらに、六阿弥陀道を北上すると、右手に青雲寺へ通ずる小道がある。青雲寺は日暮里花見寺三寺の一つ。かつては、現在の西日暮里公園の高台までを有していた。小ぶりながらも、こぎれいな寺院である。ちょうど背後に西日暮里公園の緑が覆い被さっており、
名所江戸百景(歌川広重)の「日暮里寺院の林泉」に登場した青雲寺の往時の雰囲気がわかるような気がする。
 宝暦年間(1751−1763)に開山。幾多の諸堂を有し、江戸庶民の遊覧の地となるほどの庭園を有していた。文化文政の頃、諸堂・庭園を失い、次第に衰退していった。明治期以降、再建するにあたって、諏訪台上の土地(現在の西日暮里公園)を手放し、その地にあった石碑等を現在地に移動している。
 数多い石碑の存在が、いかに文人たちなどによって愛されていたを知る手立てとなるだろう。まず、境内に入ると、丁寧に手入れされた植栽が目に入るが、その中に、
滝沢馬琴の硯塚が隠れている。そして、本堂の左手前に
滝沢馬琴の筆塚が、右手前に日暮里舟繋松の碑が配置されている。硯塚(寛政十年・1798)、筆塚(文化六年・1809)は、使い古した硯や筆を土中に埋めて供養した記念碑であり、旧所在地から硯・筆が発掘されている。また、舟繋松の碑は、西日暮里公園の項で述べたように、行き交う舟の目印として機能した松の記念碑だったらしい。この他にもいくつかの石碑があり、史跡めぐりをする人も多い。
 また、青雲寺は
谷中七福神の恵比須像を安置している。



▲花見寺の一つ青雲寺
2001.7.7


▲滝沢馬琴の硯塚
2001.7.7



▲滝沢馬琴の筆塚
2001.7.1



▲日暮里舟繋松の碑
2001.7.7



▲お堂
2001.7.7

【日暮里寺院の林泉に関する描写】
 日暮里の寺院が相次いで、桜やツツジなどの花や緑を植え、諸堂を配置し、茶屋を開き、まさに江戸の文人墨客が雪月花を求めに集い、風流の地、景勝地として、日暮里の名を馳せた時代があった。
 
花の名所であったことを歌ったもの・・・
    
花のころ けふもあすかも あさっても あかぬながめに 日ぐらしの里
■日野資枝の歌(文化5年の歌碑)・・・
    
たれとなく 咲きそふ花の かげとひて けふ日ぐらしの 里ぞにぎはふ
■太田南畝(蜀山人)の狂詩・・・
    
上野ト飛鳥トヲ兼ヌ 花ハ開ク日暮里 三絃茶弁当 多クハ幕ノ裏ニ有リ
■歌川(安藤)広重・・・青雲寺の諸堂・石碑を含め、往時の風景を描写した画・・・
                              名所江戸百景「日暮里寺院の林泉」
 

法光・南泉寺附近】
 
青雲寺を出て道灌山通りから右折し西日暮里駅に向かって散策を終えても良いが、再び六阿弥陀道を富士見坂下まで戻った。そのまま進めば、法光寺・南泉寺が左手に続く。また、右手前方の建物を見ると、なぜかラクダが屋上にいるのに出くわす。もちろん、作り物だが、よく取材されるアートスタジオである。さらに進むと、竹細工・翠屋があるが、これまたよく知られた存在である。そして、「夕焼けだんだん」を下ったところ(=谷中ぎんざの入口)に出る。
 しかし、今回は、再び、富士見坂を上り、諏訪台通りに戻るルートを取ってみる。
上りきったところで右折し、日暮里方面に進む。

 

▲法光寺
2001.7.10



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