【花見寺・妙隆寺跡】
富士見坂の脇に所在した旧・妙隆寺は、北隣の修性院、そのまた北隣の青雲寺とともに花見寺と呼ばれる寺院だった。現在は、マンションが立つその跡地は、映画史や学校教育史においても重要なところだ。
妙隆寺は、元禄7年(1694)、富士見坂隣接の地に移転し、寛延元年(1748)に崖下に桜やツツジを植えて庭園化、「花見寺」として名を馳せた。これを修性院や青雲寺が真似たとの説や、修性院の庭園化を妙隆寺が真似たとの説もある。六地蔵詣で、六阿弥陀詣でのルートにあることも手伝って、江戸時代かなりの名所として知られた。しかし、明治期になって経営上の行き詰まりから廃寺となっている。(檀家は隣接の「元祖・花見寺、修性院に移籍)
その跡地に明治38年(1905)移転してきたのが、東京女子体操音楽学校(現在の東京女子体育大学)である。東京女子体育大学は東京女子体操音楽学校の名前に改称した明治35年(1902)を創立年としており、平成14年(2002)に創立100周年を迎えるが、学校法人藤村学園の名に残る藤村トヨが東京女子体操音楽学校の運営に乗り出したのは、明治41年(1908)のことであった。それは、まさに日暮里・妙隆寺跡に在した時代であり、藤村学園スタートの地といえるのではないだろうか。その後、同校は、明治42年に下谷区三崎町に転出、明治43年、日暮里村1054(現・西日暮里4−29)に移転、大正11年(1911)まで所在している。
明治42年に東京女子体操音楽学校が転出した後、妙隆寺跡には芝居小屋・花見座を経て、明治43年(1910)7月、福宝堂の日暮里花見寺撮影所が開設されている。映画史にも登場する日本映画黎明期の撮影所であった。江戸時代より「日暮里の林泉」として知られたこの界隈は、ロケの場所としても最適地だったのかもしれない。福宝堂は、その後、大正元年(1912)、横田商会、吉沢商店、Mパテー社と合同し、日本活動写真株式会社(日活)を設立している。
・・・というのが、区の資料などに示されている内容である。ただ、明治44年発行の地図には、崖側に妙隆寺の名が、坂下側に花見座の名があること、大正15年(1926)発行の「日暮里町史」には、「妙隆寺・・・・現住職渡邊教通氏は大正5年・・・就職せり」という記載があることを見ると、明治期に廃寺⇒跡地に映画撮影所、ではなく、敷地を分割して共存していたと考えられるのではないだろうか。
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▲妙隆寺跡
左の東京製鋲所と右の
マンション辺りも敷地だった。
突き当たりの崖に
花々が咲いていたのだろう。
2001.7.1
▲坂下側から見た富士見坂
左手の緑に妙隆寺を偲ぶ
2000.11.5 |