【貴方が私を救ってくれた-1】…2005.07.11
 ※紫苑とネズミが別れてから再会するまでのネズミ側を、いっそ清々しいまでの
  捏造で書き綴ります。中編ぽい長さの予定。途中、体を売って食べ物やお金を得る
  ネズミの表現も出てきますので、苦手な方はご注意ください。





 開いた窓。
 広げられた手。
 閉められなかったガラス。
 平気を装った顔と、手当てしてやるよの声。
 夥しく流れる血にも、無残な傷からも、逸らされることのなかった目。
 震える手での的確な治療。
 綺麗なシャツとあたたかいココアとやわらかいベッド。
 うまいシチューとチェリーケーキ。
 なにより、やさしい言葉と、温かい体温。
 忘れない。
 奇跡の存在を、初めて知った、あの日のことを。



 ネズミは暗闇の中で目を覚ました。自分のそばにぴったりとくっついている人間に
驚く。
 一瞬、状況が掴めずに、目を三回、パチパチと瞬かせた。
 ああ、そうだ。奇跡が起きたんだ。
 切れてしまいそうだった命を、繋いでもらった。シオンに。
 そして、少し恥ずかしくなる。しっかりと抱き込まれた自分の体に。
 紫苑の手はシャツの裾から入り込んだままで背中に回り、ネズミの肌に直に触れて
いる。
 体を動かす。抜けない。
 ――こいつ、おれを、ぬいぐるみかなんかと間違えてるんじゃ。
 ネズミは外れない腕に焦る。そして、すぐ傍で聞こえてくる静かな寝息と、耳に響
く力強い心臓の鼓動に気づいた。
 生きている体は、温かくてしなやかだ。
 ――10秒だ。
 自分の中から声が響いた。あと10秒だけ、このままで。
 10、9、8、7。
 刻み付ける。最後の休息を。
 6、5、4、3。
 初めて触れた裏のないやさしさと、ぬくもり。
 2、1、0。
 ネズミは自分の背中に手を回し、紫苑の手を掴んだ。紫苑の意識が覚めないよう、
刺激しないよう、注意深く持ち上げる。少し浮いたところで自分の体を沈ませ、腕の
中からの脱出に成功した。
 そっとベッドから抜けて布団を元通りに紫苑の上に掛けてやると、机の上の箱を手
にした。それは昨夜、紫苑がネズミのために使用した救急ケースで。
 ――悪いな、紫苑。動くために、これは持っていく。
 今のネズミに必要なものだった。
 窓に向かい、足を止める。振り向いて、再度、紫苑の眠るベッドまで忍び寄った。
 ネズミは枕もとに手を伸ばし、そこに置いたはずのやわらかいタオルを探す。着替
えろとくれたシャツと共に、紫苑が放ったタオルだった。これも、貰っていく。
 そうして、今度こそネズミは窓を静かに開けた。窓の傍まで伸びた木の枝に飛び移
る。救急セットの取っ手にタオルを通して手首に結んだ。これで、両手が使える。
 ネズミは木の幹を伝って地面に戻ると、昨夜上ってきた排水溝を目指した。もう1
度あそこに戻り、そして安全圏――そんなものがあるのかはわからないが――まで逃
げなくては。
 ネズミは地下に潜る直前に、白い家を囲む雑木林を、ちらりと見た。



 走る。とにかく走る。
 足音を殺し、監視カメラに気をつけながら、ネズミはひたすら走った。
 穴だらけの地下。きれいな地上と裏腹になんの整備もされていない地下。その地下
の端にある、ゴミ処理場からなら、この都市から出られるはずだ。盗み見た地図が正
しければ。
 そして辿り着いたところで戸惑う。おかしい。道がない。地図では確かに外に続き
そうな扉があったのに。
 ネズミの前では、巨大なロウト型の処理機械が、ごうごうと唸り声を上げながら自
分の職務を遂行していた。熱を漲らせて、最終ゴミを乾燥チップに変える。その筒口
から不要な水分が激しく流れ落ちていく。
 ――なぜ、行き止まりなんだ。どこで道を間違った?
 初めから、罠なのかもしれない。逃げることなどできないのかもしれない。そんな
考えが頭を巡る。
 ねずみは頭を振った。弱気になるのが1番いけない。
 その時、機械の後ろに影が走った。
 ネズミはびくりと身構える。
 影は小さかった。人間ではない。だが、それがなにか、わからない。
 息をつめて、影の方向を凝視する。と、聞こえてきたのはかわいらしい鳴き声。
「チチッ」
「……ネズミ……?」
 あいつに与えられた自分の名前と、同じ名の動物がいた。
 灰色の小柄なネズミは、機械の隙間からその顔を出し、ネズミに敵意がないのを見
ると、再度「チチチ」と声を上げる。
「おどかすなよ、バカ」
 ネズミは不自然に入っていた肩の力を抜く。いや、抜いている場合ではないが、ブ
ドウ色の小ネズミの瞳を見ていたら、気が緩んだのだ。落ち着いたとも言うのかもし
れない。
 ネズミは救急ケースの蓋を開けた。昨夜、紫苑に貰ったチェリーパイの皿に残った
食べかすをさらって忍ばせておいていたのだ。
 細かいそれを指先に押しつけて手を伸ばす。
「食うか?」
 なぜ、そんなことをしたのか、自分のことながら理解不能だった。この、見るから
になにもなさそうなところにいる小ネズミに自分を重ね、同情したのか。いや。
「あいつに、当てられたのかもしれないな」
 無防備だった紫苑を思い出してネズミはくすりと笑った。
 おかげで雰囲気がやわらいだのか、小ネズミがそろりと近づいてネズミの指との距
離を詰める。鼻を動かして、やがて、ネズミの指先に手を触れた。
「あ……」
 小さな手で小さなカスを懸命に掴む。そのうち、口で食いつき始める。
 命の連鎖。ふと、そんなことを思う。
 紫苑に助けられた自分。その自分から、今日の糧にありつく小ネズミ。じわりと、
胸のどこかが熱くなる。
 小ネズミはネズミの指をすべて舐めとらないうちに顔を上げた。くるりと首を回
す。
「チ」
 その声に誘われて、茶色のネズミも姿を現した。
「もう一匹、いたのか」
 ネズミは小ネズミたちにストップをかけると、救急ケースに指を突っ込み直し、新
しいかけらをつけて、差し出す。
 小ネズミたちはすべてのそれを口の中に収めると「ありがとう」とでも言うように
「チチッ」と鳴いてみせた。
 体は追い詰められているが、少しだけ、心に余裕が生まれる。
 そうだ。なるようにしかならない。
 落ち着いて、辺りを見渡せ。注意深くなれ。見落としていたことはないか? 手
は、なにかあるはずだ。
 すると、2匹の小ネズミがネズミの足元から肩まで一気に駆け上る。ネズミの顔の
近くで前足を伸ばす。下を指して、一生懸命。
「なんだ? 何が言いたい?」
 ただの、動作ではない。
 そんな気がして、ネズミは目を凝らす。小ネズミたちの行動を見る。茶褐色の方
が、するりとネズミの体から下りて、下水のプールの縁に行く。
 ネズミを見上げ、下水を見る。その動作を繰り返す。
 ネズミの背中を、ぞくりとしたものが通った。
 ――あるはずの扉。だけど見える部分に見当たらない。ということは。
「そこに、あるのか」
 思わず出た呟きに、2匹は声を揃える。チチッチチチ。
 ネズミは駆け出した。いくらなんでも、このまま入るのは危険すぎる。なにか、膜
になるようなものが欲しい。
 少し離れた水路の中に、もうなにが入っていたのかわからない、壊れたペットボト
ルがあった。中に溜まった泥のようなドロリとした液体を落とす。持ってきたタオル
で表面に付着するものも拭って、目に当てた。斜めに壊れていたおかげで両目が入
る。目だけ覆うことができれば、なんとかなるだろう。
 ネズミは救急ケースの蓋をしっかりと閉め、来た時と同じようにタオルをそれの
取っ手に通した。口と指を使って左腕にきつく繋ぎ止める。ネズミはコンクリートに
膝をつき、下水プールに左足を入れてみる。太腿まで入れてみたが、底は探せなかっ
た。結構、深いのかもしれない。
 潜るために、ネズミは息を吸い込んだ。
 途端、小ネズミたちが膝から登り寄ってくる。
「バカ、離れろ。おれは今から、」
 そこで、言葉は途切れた。
 よっつの目は「わかっているよ」と言っているみたいだったのだ。
 ネズミが口を開く。
「この中に、扉はあるか? 外に出られるのか? おまえたち、知っているのか?」
 利口な顔の小ネズミたちは、ネズミのみっつの問い、すべてに頷いて見せた。
「案内、してくれるか?」
 それには声がつく。
「チッチチ」
「――よし。頼んだぞ」
 ネズミは、大きく息を吸い込み、ペットボトルで目を覆って、汚水の中に飛び込ん
だ。 



<2>