【貴方が私を救ってくれた-2】…2005.07.20




 吐き気がくるほどの汚臭に気づかないふりをして、速い流れに身を任せた。頭に焼
きつけた地図を思い出す。扉はまだか。息が、苦しい。ほとんどなにも見えない泥の
ような水の中で指先が固いものに触れた。鉄。扉だ。片手では動かない。ネズミは、
固く目を閉じると、持っていたペットボトルを捨てた。下手をすればこの汚水は視力
に影響を及ぼすかもしれない。だけど、生きること。命を失わないことがなによりも
優先したいことだった。
 ネズミは一心にハンドルを回し、ひっぱる。暗い中にぽっかりと黒い穴が浮かぶ。
その中に体をすべりこませた。
 さっきまでよりも強い流れがネズミの体を押し流す。泳ぐどころじゃない。ただ流
され、そして何かに体が強く打ちつけられる。
 痛みに喉の奥で悲鳴を上げる。少し開いた口に汚水が入ったが、その気持ち悪さが
なければ気を失っていたかもしれない。ネズミはチチッという声に、聴覚が戻っている
ことに気づいた。息ができることにも。
 身長の何倍の深さがあったのかわからない汚水のプールは今や立てるほどの高さに
なっていて、小ネズミたちの声が聞こえるということは、慣れているらしいあいつら
は、下水から抜け出したということだろう。
 ネズミは汚水にまみれたであろう自分の右手を左手で拭う。少しでも汚水を払う
と、払った指先で目の周辺のそれも拭った。汚水を目の中に入れてしまわないように
注意しながら、静かに瞼を開いていく。だいじょうぶ。障害は、ない。
 そこは、さっきより、明るかった。いや、非常灯としての明かりがない分、今の方
が暗い。だけど、明るく感じた。
「チッ」
 ネズミのすぐ横のコンクリートの上で小ネズミが鳴く。
「わかってる。まだだよな」
 慢心は危険を連れてくる。ここは安全な場所じゃない。ネズミは立ち上がった。2
匹のネズミは走り出し、ネズミはその後を追いかける。
 安全な場所。
 そんなものがあるのかどうか、わからないけれど。
 しばらく走った先の壁にかなり錆びれた鉄製のはしごがあった。小ネズミたちが数
段登ったところでネズミを振り返る。
「そこか」
 ネズミは小ネズミたちに手を差し伸べた。おれの体にのぼれ。ネズミの意志を察し
た小ネズミたちはネズミの手のひらを伝って肩や首の後ろによじ登る。
 ネズミは触れるたびに錆びがざりざりするはしごを進んだ。目の先には丸い空があ
る。太陽の光で満ちている。それを目指して、疲れた手足を動かし続ける。
 地上に近づくにつれ、空気が変わる。ねっとりした重い空気なんかじゃなく爽やか
で、まぶしさと同じくらい、暖かい。
 用心深く辺りを窺った。気配はない。
 ネズミは穴から飛び出し、地面に足をつける。足の裏の地面の感触が、とても嬉し
かった。
 振り向くと、遥か後方に、太陽の光を受けて輝くNO.6を囲む外壁が見えた。



 しばらく黙ってNO.6を睨んでいると、ネズミの肩から小ネズミが飛び降りる。葡萄
色の目でネズミを見上げる。また、ついてこい、と呼びかける。
 ネズミは、2匹のネズミを信頼していたから――直感で――おとなしくついてい
く。自分に有害なことを、この小ネズミたちはしないだろう。そんな確信めいたもの
があった。相手が、自分のどこをお気に召したのかは、わからないが。
 ネズミは歩きながら、手首に括った救急ケースを外す。蓋を開けると赤い消毒反応
の光が仄かにつき、壊れていないことを知る。
 ――よかった。
 安心して、もう1度丁寧にそれを閉めた。これは、大事な、これからも役立つも
の。
 雑木林を抜け、廃屋やバロック小屋がまばらに立つ場所を過ぎ、連れていかれたと
ころは水場だった。
 きれいな水が湧いている、泉。
 小ネズミたちはトプリとかわいらしい音を立てて泉の中に飛び込む。
 一瞬迷い、だが、泉が流れていることを確認してネズミも、救急ケースを地面に置
いて服のまま泉に潜った。大丈夫。自分についた泥を落としたくらいでは、きっとこ
の泉の綺麗さは失われない。すぐに流れてしまうだろう。
 水は、かなり冷たかった。
 だが、その冷たさが気持ちいい。きれいな水が心地良い。
 ネズミは水の中で顔を洗い、手足を洗い、服を脱いで服ごと体を洗う。ふと思い出
し、淵に戻ってシャツで救急ケースの表面の泥も拭い取る。ばしゃばしゃと音を立て
ながらまたシャツを洗い、絞って、救急ケースの上に置いた。そして小ネズミたちを
探し、念入りに、その毛皮についた泥を落としてやる。
「ありがとう。おかげで、助かった」
 小ネズミたちはネズミの手の中で気持ち良さそうに首を伸ばして頭を空に向けた。



 泉から上がって服を広げる。少し汚れが染みついてしまったものの、なんとか綺麗
になった。
 赤いチェックを見つめる。これの持ち主のことを考える。
 あいつは、だいじょうぶだろうか。おれのことで何か困ったことになってはいない
だろうか。
 考えてもどうしようもないことだ。例え困ったことになっていても、助ける術を、
自分は持たない。
 ネズミは唇を噛み締める。今は、自分が生き続けることを優先するべきだ。他人の
ことに構っていられる余裕なんて、ない。
 陸に上がり、体を振るって水気を払っていた小ネズミがピクリと何かに反応した。
 ――なにかいる。
 ネズミもその方向に視線を凝らす。木の陰だ。人ではない。人ではない位置に目が
見える。それが唸った。ウウ、と一声。
 四足歩行の動物が少しだけ顔を出す。
 ――狼? いや、犬か。
 茶褐色の大きな体をしていた。しばらく対峙していたが、襲ってくる気配はない。
ネズミは素早く衣服を身につけると小ネズミたちを呼んだ。
「行こう」
 縄張りに勝手に入ってきた輩が悪さをしないよう、見張っているのかもしれない。
だったら、さっさと退散するべきだ。
 ネズミは小ネズミたちを足元に懐かせながら、今来た道をゆっくりと戻った。



 生き長らえるためには、休める場所と食べる物、まず、このふたつを探さなくては
ならない。
 立ち並ぶバロック小屋を見ながら思う。空家はなさそうだ。まともな家の形をした
ものを手に入れるのは困難だろう。そうすると、洞窟か木の洞穴か。とりあえず、な
んでもいい。とにかく、休める場所が欲しかった。
「あれは?」
 なんとなく、小道から離れた廃屋が気になって近寄ってみる。
「なにかの、倉庫みたいだな」
 正しくは倉庫みたいだったもので、コンクリートでできたそれは、半分が朽ちて
崩れ落ちていた。
「雨避けくらいにはなりそうだけど」
 ネズミは鉄筋が飛び出たり、コンクリートの欠片がゴロゴロと散らばる足元に注意
しながら壁を伝って歩く。と、指先に違和感を覚える。
「なんだ?」
 壁の温度が違った気がするのだ。
 ぺたぺたとその辺に触れる。握ったこぶしで壁を叩いてみる。すると、鈍い音を立
てるコンクリートの中に、音が反響する場所があった。手で、押してみる。
「あっ」
 壁は音もなく横に開いた。まるで、ネズミを歓迎するかのように。
「これは……」
 壁の中には剥き出しのコンクリートで作った階段があり、階段の終着地点には1枚
のドアがあった。
 誰かの家だろうか。だが、人間の気配も、人が暮らしている気配も、感じない。
 ネズミは階段に片足を下ろした。崩れそうな感覚はない。それどころかやたらと
しっかりしている。
 そろそろと階段を進むと、小ネズミたちも追ってきて、そしてネズミよりも早くド
アの前に行き着いた。
 木製のドアに耳を近づける。やはり、生き物の気配はない。
 ネズミはそれをノックしてみた。軽く。まず1回。続けて2回。返事はない。ドアノ
ブに手をかける。それは、回らなかった。鍵が掛かっている。ネズミは鍵穴を覗き込
む。多分、簡易な鍵だ。これなら道具があれば開けられる。
 1度地上に戻り、崩れたコンクリートを動かしながら、固いものを探す。針金のよ
うなものがないだろうか。
 20分も経った頃だろうか。ヘアピンが落ちているのを見つけた。指で数度押してみ
る。壊れない。これは使える。
 地下のドアの鍵穴にそれを差して、上や下に動かしてみる。重い手ごたえの箇所に
力を入れて押し上げた。カチン、という音がする。
「よし、開いた」
 注意深くドアを開ける。カビと埃の強い匂いが鼻をつく。
 ネズミは暗闇に目を凝らした。凝らして、驚く。
 暗さに慣れてきたネズミの目に写ったのは、部屋の全体を占める本だった。
 本棚にたくさん。収めきれないそれらは床にも溢れている。
「図書館、だったのか?」
 手で壁を探ると電気のスイッチらしいものに触れた。押してみる。すると、弱々し
いながらも光がつき、部屋の全体が浮かびあがった。
 部屋の壁をぐるりと取り囲む本と、そして部屋の隅にはベッドがある。誰かが暮ら
していたらしいことは間違いがないらしい。ネズミは本の山の間に続く道があること
に気づいた。足を向けると脱衣所らしきものがあり、開いた扉からそこがバスルーム
だとわかるタイルが見える。そして、脱衣所とバスルームの間にはひとりの人間が倒
れていた。
 正確には『人間だったもの』だ。ネズミは木乃伊と化したそれに近づいた。
 男、だと思うが、もしかしたら女だったのかもしれない。
 脳卒中か心臓発作か。なににしろ、急死してしまったのだろう。こんなところで、
ひとりで、今まで誰にみつかることもなく。
 ネズミは跪いたまま黙祷を捧げる。
 そして崩れる体を腕に抱えて外に出た。雑木林の中の比較的やわらかい土を探して
穴を掘る。木乃伊がそこに埋まる分だけの穴を作り、静かにそこに埋葬した。正直、
とてもホッとしていた。
 だって、あそこは、この息をしなくなった人の家で、木乃伊になってしまうほどに
誰とも交流もなく、また見つからずに暮らしていたのだろう。ということは、自分が
貰い受けてもいい場所だということでもある。
「ありがたい」
 ネズミは呟いて、地下に戻ると内鍵を閉め、バスルームの蛇口を捻った。水が出
る。それも、ありがたい。土で汚れた手を洗い、埃まみれのベッドを叩いてそれなり
に綺麗にすると、その上に倒れ込む。
 考えなければならないこともしなければならないことはたくさんあるが、今は、た
だ眠りにつきたい。
 眠って、疲れた体も頭も休めたい。すべてははその後だ。
 ――昨夜のベッドとは天地だな。
 意識を手放す少し前に、お坊ちゃま仕様の、気持ちがよかったベッドのやわらかさ
を思い出して、ネズミは少し、微笑んだ。




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