【貴方が私を救ってくれた-3】…2005.08.03




 目を覚ますと、地下室には暗闇だけが広がっていた。
 疲れがすっきり落ちている体の状態からすると、かなりの時間、寝てしまったに違
いない。
 ネズミはそろりと起きて電気のスイッチを入れる。オレンジの光が室内を照らす。
チカチカ瞬かないながらも弱い光だ。替えが必要だろう。壁に、時計があることに気
がついた。だが、動いてはいない。電池を手に入れなくては。服だって、これ1着で
は心許ない。
 まずは家捜ししようと、ネズミは本の間を避けながら、本に邪魔されない戸棚とい
う戸棚をすべて開けて回った。
 数分後、みつけたものは、鍋とレードル、少しの皿やフォークと果物ナイフ、タオル
2枚と趣味が悪く――紫苑よりも――サイズの合わない服が数枚だった。 
「何もないに等しいな」
 こんな場所だ。期待はしていなかったが予想通り過ぎて思わず舌打ちが出る。
「欲しいものは山ほどある、か」
 むろん、食糧も。
 食糧を得るためには2つの方法がある。第1に働く。第2に盗む。
 1度や2度なら後者でもいいが、それでこの先ずっと、何かを得ていくのは難しい。
それを専門の職として行動したいならともかく。かといって、たかだか12やそこらの
人間が仕事にありつけるほど、世の中は甘くない。運よく雇ってくれたとしても、安
い賃金でくたくたになるまで働かされるのが関の山だ。となれば。
「あれしかないだろうな」
 ネズミは舌を出して唇を舐める。さまざまな生きる方法を教え込まれた。頭も体
も、どうにだって使える。
「生きてやるさ。何をしてでも」
 そのために。
 ここがどんな場所なのか、見ておく必要がある。
 外を回ろうと、ネズミは睡眠によって固まった体を、腕を伸ばすことで解した。



 母親が言った。
 街の外れにひとり増えたと。
「いまさら、めずらしいものじゃねえだろ?」
 NO.6へ入るための許可証は申請してから受理されるまで時間がかかる。いや、ほと
んどの場合、受理されることはない。それでも、他の土地から来た人間は聖都市に憧
れ、焦がれ、諦めきれずに、足元地域である西ブロックに集まり、いつ降りるかわか
らない許可のために、ここで暮らすのだ。今では、許可証のためではなく、その者た
ちを相手にするための商売人や、生きられる要素が少しでもあるならと流れ着いた者
たちもかなりいる。
 西ブロックから出たことがないから他の土地がどんなに荒れているのか知らない。
他の人間たちが求める聖都市がどんな天国なのかも知らない。ただ自分は、このゴミ
溜めのような場所でも仕事にありつき、日々を過ごすことができる。それで充分だ。
 傍らの犬が短く鳴いた。
 ――なにかが違うの。今度の人間は。
「ふうん」
 固い干し肉を歯で千切り、ゆっくり噛んで胃に収める。残りを母親に差し出すと、
イヌカシは立ち上がった。
「それじゃあひとつ、見学と行こうか」
 イヌカシと大きな犬が歩く後ろを、目立たないように散り散りになりながらも、だ
けどかなりの数の犬が、ひっそりと後を追う。



 雑多な店が雑多に立ち並ぶ、おそらく西ブロックのメインストリートと思われる場
所を足早に歩きながらも、ネズミは注意深く、まわりの様子を観察した。
 行き交う人間を観察し、店先の商品とそれにつけられた値段を見る。金がなければ
なににもならないが、稼ぐにしても、価値がわかってなければどうにもならない。パ
ンがどの程度の大きさでいくらであるとか、生肉と干し肉のの値段の違い、くたびれ
た野菜が何円か。通りを往復して、生活の主となる商品の大まかな値段を頭に入れ
る。それから路地裏に入った。
 表も整理されているとは言えないが、裏は輪をかけて込み合っていた。物も、人も。
 まだ昼だというのに、怪しげに蠢く人間がいる。ひもじそうな顔をして座り込む子
供や老人。袋叩きの最中の男たち、そしてセックス中の男女。
 ネズミはなんでもない顔で通りすぎたあと、山と積まれたゴミ袋の陰に身を潜めた。
「あん、あっ、やだ、もっとゆっく、り……っ」
「時間が、ねえんだ。時間内に戻らねえと、オヤジにどやされる」
「ん、あ、ああっ」
 男が、抱えた女の腰と太腿を引き寄せ、自分の体を奥まで入り込ませる。女は白い
喉を反らして絶頂を迎えた――振りをする。
「あああ……ッ!」
 互いに息を整えるまで密着する。そして、ゆっくりと離れた。内部に埋め込まれた
ものを引き抜かれる時、女が少し、湿った声を上げた。
 男が懐から硬貨を出す。銀色を4枚。
「まあまあだったぜ」
 女は渡された硬貨を握って髪を掻き上げた。
「気のきかない男だね。こういうときは、お世辞でも良かったっていいなよ」
「おれは正直者だからな」
「ふふっ。仕事の金をちょろまかして女を買う男のどこが正直者なのさ」
「自分に正直なんだ。また来る」
「仕事の最中にね」
「ああ、仕事の最中に」
 最後に濃厚なキスを交わすと男は足早に走り去り、女は片手を上げてその背中を見
送った。路地から見えなくなると大きく息を吐いて、下着を引き上げる。
 服装を正すと、メイン通りの近くまで行き、行き交う人の中からで脈がありそうな
のに手を振ったり手招きしたりしている。
 ネズミは陰からそっと出て足音を忍ばせると、女が立っている場所からすぐ近くの
横道に移動した。交渉する声が聞こえる。女が相手を引きずり込むまで続け、同じこ
とを数箇所の通りでもやった。条件が同じなら、銅貨の数は違っても、銀貨の数は大
抵変わらなかった。
 ――夜になると違うだろうか。違うだろうな。
 それはそれで臨機に応対しよう。
 ネズミは路地を離れ、外れに出た。廃墟が続く。倒れた柱。崩れた屋根や壁。だけどわ
かる。大きな建物だったこと。かすかに、記憶が残る。
 ネズミは踵を返し、街を大きく1周してから、廃屋に戻るための道を引き返した。



 喉が渇いた。
 部屋に戻って蛇口を捻り、水を飲んだネズミは顔をしかめる。まずい。シャワー用
ならいいが、飲食には適していない。
 ネズミは鍋を掴み、地上に戻った。裏手にあった、泉に向かう。
 食糧がなくてもある程度もたせられるが、水分がないのは体に堪える。しかも、た
だで手に入る物があるなら確保しておくべきだろう。ネズミは泉の跪くとその中に鍋
を下ろした。ひんやりした水の感触はやはり心地が良くて、つい、浸り込む。が、視
線を感じて前方の林をみつめた。
 気配がある。ひとつではない。いくつもの。
 ネズミは静かに水を汲んだ鍋を引き上げると、それを地面に置きながら、素早く小
石を拾った。同じくらい素早く投げる。投げた小石はすべて避けられ、無機物に当た
る音だけが響いた。
「血の気が多いね、おまえさん」
 声がした。
「ずいぶん乱暴な挨拶だ」
 好奇の色は伺えるが、殺気は感じない。ネズミは注意深く前方を見据えたままで立
ち上がる。
「礼には礼で、無礼には無礼で返しなさいってママに教わったんだ」
 声が笑う。楽しそうに。
「無礼! そうか、おれが無礼なのか!」
「礼儀があるように見えるやつがいたら、お目にかかりたいくらいだ」
「それは失礼」
 林の中で黒い影が動いた。のそりと進んでくる。影は、はじめまして、と告げた。
 昨日ここで見た、茶褐色の犬だった。
 ネズミは無言で、しばらく犬と対峙する。犬が口を開く。
「どうした?」
 ネズミは足元の鍋を掴んでくるりと後ろを向く。廃屋へと歩き出す。
「どこへ行く」
「おれも暇じゃないんでね。腹話術になんか、付き合っていられないんだ。他の観客
を探しな」
 泉から数歩進んだあたりで、後ろ髪が揺れた。風を感じる。なにかくる。
 ネズミは鍋の中の水を気配に向かって浴びせた。空になったそれで顔の前をガード
する。金属が固い物に当たった音と圧し掛かってくる体重。ネズミは両手でそれを弾
き返す。体重が退いたと思った瞬間、右側からも攻撃が来た。右足を振り上げ、腹を
蹴ると、衝撃にうめいたそいつの首を掴んで、手首に仕込んできた果物ナイフの刃を
首に押し当てる。
「退け」
 低い声で林の中に言った。
「じゃないと、おまえの大事なペットが、死ぬことになるぜ」
 ネズミの腕の中には、毛の短い、ぶち模様の犬がいる。
「驚いた。見かけによらないとはこの事だ」
 林の中の声は本当に驚いているようだった。
「姿を現わせ」
 次はないと暗に秘める。ガサリと、地に落ちた葉を踏みしめる音がした。茶褐色の
犬の後ろに黒が現れる。
「もう、なにもしない」
 黒は両手を上げた。手のひらから肌色が見える。
 ネズミも大きい方ではないが、黒い服を着て褐色の肌の子供はもっと小さい。
「なにがしたい?」
 ネズミは犬の首を締める腕を緩めずに問いかける。黒い子供は長く伸びた髪の間か
ら大きな目を覗かせると「挨拶しにきただけ」と笑った。
「ずいぶん、荒っぽい挨拶じゃないか」
「おれ流なんだ。いや、西ブロック流、かな。ようこそ、西ブロックへ」
「いちいち新しい住人に挨拶に回るのか。見かけによらず、律儀だな」
「意地の悪いこと言うなよ。興味がある人間だけだ。おふくろが、おまえさんは面白
そうだと言ったからな」
「おふくろ?」
 子供が茶褐色の犬の頭を撫でる。犬は子供を見上げる。
 犬が子供を見る目は優しい。
 ネズミはナイフをしまって、ぶちの犬を解放した。
「今度からは、相手の性質を見極めてから、相応の挨拶を仕掛けるんだな」
「おや。おれは親切だぜ。新しい住人に、この街での心構えを伝授したんだから」
「物は言い様だな。まっ、確かに、ぼんやりしてちゃいけないとは教わったけど」
「だろう? おれはイヌカシ」
「イヌカシ?」
「そう呼ばれている。犬を貸して、いろんな商売をしてるのさ。以後、お見知りおき
を」
 イヌカシはそう自分を紹介すると、主に情報屋だと付け加えた。犬なら、大抵、ど
こにでも行ける。
「なるほど。犬を通して、様々な情報を得、その情報によって人に恩を売るわけか」
「恩とはひどいな。立派な取引だ。それに、犬と暮らしていると、おれの嗅覚も鋭く
なるのさ。おまえさん、なにか知りたいことがあるんじゃないか?」
 少し考えて、ネズミは訊いた。
「それは……後払いでもいいわけ?」
「は? おまえさん、文無しか?」
「そう。これから稼ぐ」
 それだけ言うと、ネズミの言いたいことを理解したらしい。イヌカシはじろじろと
ネズミを眺め、まあいいか、と言った。
「ケチな肉屋の角を曲がった2本目の路地と、ビアレストランの裏手が高め。その分、
変な趣味のやつも多い。安くても数さばきたいなら、金物だの服だのなんでも売って
る店のすぐ脇の路地だ。こっちは力で押し切ろうってやつが多いって聞くけど」
「わかった」
 ネズミはさっき歩いてきたばかりの道を思い出しながら確認する。あそことあそこ
か。頭に叩き込んでイヌカシを見る。
「支払いはどこに行けばいい?」
「街を歩いたか?」
「多少」
「反対側の外れに廃墟がある」
「ああ。元ホテルだった場所だろう」
 ネズミの言葉にイヌカシが目を見開いた。
「なぜ、知っている?」
「いろいろ事情があってね」
「ふん。面白い。ほんとにおもしろいよ、おまえ。名前は?」
「ネズミ」
「ほんとの名前じゃないよな?」
「さあ?」
「食えねえやつ」
 イヌカシは肩を揺らして笑うと口笛を吹いた。ネズミの回りにいた犬も、まだ林の
中にいた犬も、スッと動いてイヌカシの傍に固まる。数えると12匹いた。
「そんなにいたのか」
「気配を殺すの、上手いだろ。だから役に立つんだ」
 それじゃあな、とイヌカシは踵を返した。犬たちに交ざって、足音も立てずに遠ざ
かっていく。
 ネズミは空になった鍋を見て、顔を顰めた。
 犬の攻撃を受けた鍋は、奇妙な形にへこんでいたのである。
「穴が開かなかっただけましだけど」
 情報料を支払うどころか、弁償してもらいたいくらいだと呟いて、ネズミは収容面積
の減った鍋に水を汲み直した。




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