【3回目の涙】<2004.10.3>




 呆然とする阿部の唇に、さっきよりも強く三橋のそれが押し当てられる。
 固く目を瞑り、何度も角度を変えてくる。
 ――ええと。
 顔に触れる三橋の睫を感じながら、阿部の頭は妙に冷静になっていく。
 ええと。
 これはいわゆるキスってやつで、こんなに止まらねェんなら事故とか間違いとかじゃあ、ねーよな。相手をオレだとわかっている上でコイツはこれを仕掛けているってわけで、それはつまり、こいつはオレのことを嫌いじゃないってことだ。
 昨日とさっきの拒絶の意味もようやく理解する。
 ――オレを意識し過ぎて、触りたくなかっただけなのか。
 そのことに安堵を覚えながらも、さて、と思う。
 三橋の唇は離れない。どころか、押し倒され、転がった阿部の体の上に跨る三橋の足が、阿部の両足の間に入り込んでいて、もう少し上に膝が来たとしたなら、それはちょっとヤバイ状況だ。
 息をつこうとした阿部が口を少しだけ開いた時、阿部の唇を舐めていた三橋の舌先と触れた。
 走る、衝撃。
 唇以上にやわらかいそれが触った瞬間、一気に鳥肌が立った。
 思わず、ドン、と、握った拳で三橋の胸を叩く。
「あ……」
 そこで三橋も自分の行動に気付いたようだった。
 うあ、と叫びながら阿部の上から退く。
 音を発することのできない唇が『ごめん』の形に動き――実際には『ご、ごご、ごめ、ごめっ』だったが――そして三橋はそれを引き結んだ。阿部をまっすぐに見る。
「オ、オレ、」
 あ、と思った。
 だめだ、それを言わせたら。
 阿部は笑顔を作る。
 そして三橋よりも先に言葉を告げた。
「牛乳、まだ付いてたんだ? 取ってくれてサンキュー」
 う、という音が三橋の喉の奥で聞こえた。
 同時に、昼休みの終わりを知らせる電子音も空に鳴り響く。



 無理矢理すぎる理由付けに、自分もかなりおかしかったんだとは思ったが、それで引き下がった三橋も相当気が弱いと言うことを改めて実感する。

 一瞬、大きく目を見開いて阿部をみつめた三橋は、すぐに俯き、いつものあちこちを彷徨う視線に戻った。
「そ、そう、ぎゅうにゅう、くちのはし、に……」
「まったく。困るよなァ、田島の奴」
「そ、だ、ね……っ」
 今度こそ、本当に泣きそうになっている三橋を見ない振りで、阿部は立ち上がった。
 学ランについた土埃を払いながら「次の時間なに」と訊ねる。
「え、と、体育」
「移動じゃねェか。大丈夫かよ、時間!」
「う、う、うん、だいじょ」
 立ち尽くす三橋の手を掴んで走った。
「あべくんっ?」
「着替えもあるだろ、早く戻るぞ!」
 階段を駆け下りて、廊下を走ると、自分のクラスを二つ通り過ぎたクラスのドアから泉が顔を出しているのが見えた。泉が叫ぶ。
「遅いよ、三橋!」
「ごめっ」
「悪ィ。オレが引き止めてたから」
「早く着替えてグラウンド行くぞ」
「う、うん」
「田島、戻ってきたのか?」
 阿部はドアと泉の隙間から中を覗くと、元気印な四番の姿を探す。
「田島はジャージも持って外行った。多分もう、あっちではしゃいでるんじゃねーかな」
「用意いいな」
 だから外でサッカーだったんだ、めずらしく。
 苦笑する阿部に、泉も返す・
「自分の都合に周り巻き込む天才だから」
「確かに」
「阿部もそろそろ行った方がいいんじゃね?」
「ああ」
 じゃあ後よろしくと右手を上げると「あいよ」と返事をした泉がキシシと笑った。
「阿部、三橋のオカーサンみてェ」
「じゃあ泉は、三橋と田島のオネーサンだな」
「あははは! そー返されっと思わなかった!」
 また放課後と言って振り返った時、阿部はちらりと三橋を見た。丁度、ジャージから首を出したところで。
 暗く沈んだ顔で、深いため息をついていた。

 ――落ち込んでる、よな。
 窓から見えるグラウンド上では9組と10組に分かれてのサッカーが始まっている。
 DFの位置にぼんやりと立ったままの三橋を見ながら、阿部も小さなため息をついた。
 この先を、どうしよう?



 予想通りではあったが、その日の三橋の投球はひどいものだった。
 上の空だから、指示した球種とは違う球が飛んでくる。
 三橋の制球はずば抜けていて、大抵は構えたところに来るからまだいいにしても、それでもカーブだと思っていた球が落ちると、結構、焦る。
 いつもなら「コラ」と怒るシーンだが、原因が自分にある以上、強くも言えない。
 いつにもまして球威のない球をミットに納め、その格好でしばらく静止した阿部は、キャッチャーマスクを外して、三橋に向かって軽く球を投げた。
「今日はキャッチボールだけにしておこう」
「え……」
「無理して怪我したら、元も子もねェからな」
「……」
 投げると強固に言い張るかと思った三橋だったが、阿部の言葉に微かに頷いて、緩いボールを投げ返した。
 ダメージはデカそうだと阿部は思う。
 それはそうだろう。
 いくら鈍かったとしても、昼休みのアノ状況でのアレに他意がなかったと思う人間なんて、多分、ほとんど居ない。
 ゴメンナサイ、と言われたも同然だ。
 それはわかる。わかるけど、阿部だって、男同士の恋愛も、自分がその対象になることも考えたことがないのだ。
 三橋が本気なのはキスを受ければわかった。
 堪えようのない強い思い、みたいなものを感じた。
 意志を言葉で伝えるのが苦手な三橋のそれは、明らかに、コトバよりもストレートに伝わってきた。
 かといって。
 そんな三橋に自分が何を答えられるというのだろう。
 『投手としての三橋』だったら、誰よりも欲している自分は知っている。
 そう思わせた『努力をする三橋』が好きなことも。
 だけど、野球を離れた三橋本人をどう思っているかなんて、会って一ヶ月やそこらではわからない。
 こんなことでギクシャクをするのは嫌だが、捩れた関係を取り戻す手段も思い浮かばずに、阿部は黙ってキャッチボールを続けた。
 無言で続けられる山なりのキャッチボールは、徐々にその山を崩していく。速度も速まる。
 ミットの鳴らす『パシ』という音が『パン』に変わっていく。
 そして三橋が口を開いた。
「あ、あべ、あべ君っ」
 投げたいんだと、三橋は言った。
「ゴメン、ネ。ちゃんと、投げる、から」
「……OK」
 阿部はマスクをつけて、その場に座る。叫ぶ。
「六球!」
 さっきまでとは全然違う球だった。
 指示通りのシュートが、気合のこもった状態で投げられる。
 ボールを投げる三橋の目から、弱気な光は消えていた。ただ、阿部と、阿部のミットだけを見ている。
「ナイスボール!」
 三橋の球を受けながら自分の気分も昂揚してくるのがわかった。
 そうだ。この球がキモチイイ。
 構えたところにまっすぐに伸びてくるボール。
 練習すら気を抜かない、この姿勢。
 何があっても投げたいんだという、三橋のピッチャーとしての思い。
 ――支えてやりたいのは、本当だ。
 打ち解けたいと思う心も。
「五球!」
 全力投球を要求しながら、逃げるのだけはやめようと思った。
 昼みたいな逃げはナシだ。
 真剣な相手には真剣に応対しなくてはならない。
「ラスト!」
 ど真ん中に構えた阿部のミットの中に、スピードの乗った球が投げられた。
 
 

 帰り道で「トモダチじゃなく阿部君がスキだ」という告白を受けた時、ひどく動揺している自分がいた。
 わかっていたことなのに。
 言われると予想していたことなのに、なぜか全身が熱くなる。多分、顔はその中でも一番だ。
 自分の心臓の音に邪魔されて思考がまとまらず、言葉を返せない阿部から、三橋が視線を外した。
「ごめん、ね、いきなり、変なコト、言って」
 ワスレテ、と掠れた声で言った三橋の目から、そこに溜まっていた涙が零れた。
 ぎゅ、と胸が締め付けられる。
 そして見たことがあるな、と思った。いや、三橋の泣いているところなんて山ほど見ているが、大抵は呆れが入り混じる。それが入らなかったのは。
 ――しばらく考えていいかな。
 阿部はぽつりとそう言った。
 相手が考え過ぎないように、プラスの部分をたっぷりと含めて。
「イロイロ、覚悟、入りそうだから」
「阿部、君……!」
「ダメ?」
 ぶんぶんと頭を横に振った三橋がその勢いのあまりに、体のバランスを失って尻餅をつく。
「なにやってんだよ」
 阿部は手を貸すついでに、三橋の頬を伝った涙の跡を指で拭ってやる。
 考エラレナイと思った自分が、こんなにあっさりと考エル方に転がったのは、コレのせいだ。
「三回目だな」
「なに、が?」
「ちょっとしたこと」
 問われて、笑いながらそう答えた。
 そう。
 サンカイメ。
 それは自分が三橋を泣かせた回数。
 三星戦で、三塁打と続けてホームランを打たれた時。ベンチに入れなかった三橋に自分の胸も痛んだ――だってオレのリードのせいなのに。
 二回目は組んでいた投手との話をした後だ。突然泣き出した三橋のイミは今でもわからないけれど、あの流れで自分が関係していないはずはないだろう。
 そして今日。
 弱ェな、と阿部は肩を揺らす。
「阿部君……?」
 くっくっと笑う阿部にハテナをたくさん飛ばしながらきょとんとする三橋に、負けたと思った。
 お前の涙に弱いみてェ。
 同情でも庇護欲でも独占欲でも、とにかく自分が三橋に対して何かを持っているのは確かだから。
 突き詰めて、ちゃんと考えてみようと思った。
 そしてそう思った時点で、かなり、恋の方向に自分の心が傾いたと自覚したことは、もう少しだけ、秘密にしておこう。




ミハベなんだかアベミなんだかわからない話に。う、うう。ミハベです(気弱に主張)。



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