【突然の雨】<2004.10.6>
雨が降っていた。
昼休みから怪しい灰色の雲を出現させた空は、たちまち全体もグレーに染まり、暗くなる。
五時間目の授業が終わる頃には『バケツをひっくり返したような雨』という表現がぴったりくるような見事な降りになった。
授業終了の礼をし、席に座ろうとした花井と阿部と水谷は、教卓前の教師に呼ばれる。
「止みそうもないからさ、この雨」
志賀――数学教師で野球部顧問でもある――が言った。
「視聴覚室を使えるようにしとくから、今日はそっちに集合って全員に伝えてくれないかな」
「視聴覚室スか」
体育館でも道場でも廊下でもないことに花井が疑問符をつけて問うと、ビデオを見るからと返ってくる。
「イロイロ揃えてあるからね。たまには違う練習もしよう」
じゃあ頼んだよと志賀は七組の教室を後にした。
「ビデオ?」
「春の選抜の各学校の試合とかか?」
顔を見合わせた花井と阿部に、ちっちっちっと水谷が指を振る。
「いやいや、シガポのことだから、なんかメンタル系の参考になるもんとかじゃないの?」
有り得るなと頷いて、そんじゃ、と花井が言った。
「伝令に行ってくるか」
「オレ、前のクラス行ってくるよ。栄口に辞書返すついでだし」
「また借りたのかよ」
チームのエースと四番のように、初めから全部を教室に置きっ放しにするのもどうかと思うが、水谷のように忘れすぎるのもどうかと思う。
「だって重いじゃんか」
「確信犯か……」
その答えから、教科書を貰い、家に持ち帰ったその日から一度も学校に持ってきていないのであろうことが判明する。同じクラスではなくなったら、自分のところにも毎時間来そうだと思いながらも、花井は水谷を送り出した。
「6組まではいいんだな。じゃあ後は9組か」
「あそこは固まってるから楽だな」
「あ、やべ!」
「なにが?」
「あいつら、次、美術だから移動しちまう!」
叫んだ瞬間、慌しく駆け出した花井を見送りながら「へぇ」と阿部は呟く。
「他クラスの時間割を把握してるってすげェな」
多分、田島あたりからの情報だろう。
移動する前に間に合ったらしい花井が、田島・泉・三橋と並んで教室前まで歩いてきたのが見えた。
また放課後、という声がして花井が教室に戻ってくる。
花井の後ろから顔を覗かせた田島がニィと笑って手を振ってくる。泉も軽く手をあげる。阿部も右手でそれに応えながら三橋を見ると、なかなかにキモチワルイ笑顔を作って阿部に笑いかけた後、すぐに顔を伏せた。
「……早くなんとかしねェとな」
三橋の告白を保留にして以来、中途半端な立場の自分たちは、中途半端な仲しか保てない。
だけど、なんとかするということは、覚悟を決めるということで。
どこまで、そして何よりどんな覚悟を決めたらいいのかが、今ひとつわからない。
予鈴の音に自分の席に戻りながら、阿部はどんよりした空を見上げた。まるで、自分の心の中のようだと思った。
いつもながら、思わず引き込まれてしまう志賀の講話を聞きつつ、それを証明するようなビデオを観賞し、実践してみる。
また新しさを覚える。やる気を強くする。
相変わらず鮮やかな、と思いながら阿部も熱中してしまう。
新設ではあるが、志賀や百枝の指導力や牽引力、そして集まった部員の質――腕、性質も含め――に感謝する。
もう少し悪いものを予想していたから、この裏切りは、喜びの方にかなり大きく傾く。
最後に軽く柔軟をして今日の部活は終了した。
まだ雨は降っている。
「オレん家来る?」
田島の声に泉や水谷が食いつく。
「行っていーの?」
「行きてェ!」
家中のカサ探せば九人分くらいあるんじゃねーかな、という田島に全員で甘えることにする。だって、今朝学校に来る時は晴天だったのだ。誰ひとりとして雨に対抗する手段を持っていない。
濡れることに変わりはないからジャージで田島の家までダッシュし、そこで濡れたジャージから学ランに着替えればいいんじゃないかとの案が出て、みんなで頷く。
「いいエロ本あるぜ、水谷!」
「なんでオレを指名するんだよ、田島ァ」
「イラネェの?」
「イルけどさ」
「だろー?」
百枝と篠岡の姿が見えなくなった後のいつもの話題に笑いながら、それぞれ荷物を肩に担ぐ。
電気を消し、鍵を閉めた志賀に「ありがとうございました」と挨拶をして昇降口に向かった。
阿部が靴を履いたところで向かいの下駄箱を開けた三橋の動きが止まる。
「三橋?」
「オ、オ、オ、オレ、オレッ」
「どうした?」
「わ、わす、」
「忘れ物?」
阿部の言葉に三橋がコクンと頷く。
阿部は既に外に出ている田島に向かって声を張り上げた。
「田島! 三橋、忘れもんだって」
「おう、待ってるー!」
「いや、先行っといて」
「いーのー?」
「曲がり角ンとこまではわかるし」
いつも帰り道で別れる場所のことを言うと「そっからふたつめの細道に入って真っ直ぐ」と返される。
「おう。わかんなかったら電話する」
「あいよー!」
「っつーわけだから」
阿部は三橋に向き合った。
「取ってこいよ。待ってるから」
「う、うん……っ!」
バタバタと走っていく後姿に「転ぶなよ」と声を掛けた。もう何回、三橋が転ぶ姿を見てきただろう。体幹だけの問題じゃねェよなと苦笑する。
そして考える。
ウザイと思う反面、こうして待ってやるくらいに放っておけないのはなぜだろう。
三橋がピッチャーで自分がキャッチャーであることが大元にあるのはわかっている。
この高校での唯一の投手だし、ということは自分にはコイツが必要で、しかも自分が会いたいと待ち望んでいたタイプの投手だったのだから尚更だ。
自分は確かに面倒見が悪いタイプではないかもしれないが、かといって特別いい方でもないような気がする。
「野球を通して会ってるからわかんねェのかな」
――でも野球を通してなけりゃ知り合ってねェよな。
思わず自分で自分に突っ込んでしまう。
この、もやもやした感じ。
どうすれば晴れるだろうか。
木の下駄箱に両側を囲まれた閉鎖空間で、阿部はこっそり、ため息をついた。
早く戻らなくちゃと三橋は廊下も階段も全力疾走した。息を切らせて阿部の待つ昇降口に辿り着く。
「ごめ、んね、ありがとう、阿部君」
「いーよ。課題?」
「あ、月曜日に提出なんだ」
「そっか。つうか、カバンの中に入れなよ。濡れたらイミねェだろ」
「あ、う、うんっ」
阿部は、忘れたプリントをしっかり右手に持ったままの三橋にそう言って、カバンを指差す。三橋は慌ててカバンのチャックを開けてそこにプリントを押し込んだ。すると阿部が噴き出す。
「あ、あべくん?」
「普通ならさァ」
ゲラゲラ笑いながら「普通、折らないように気をつけて入れるだろ」と阿部は言った。
「三橋って細かいんだか雑なんだかわかんねェよなァ」
「う、あ、え、そ、そう……?」
「そうそう。なんかおかしー」
阿部につられたように「うえっへ」と奇妙に笑った三橋は今度こそ靴を履く。昇降口から出て田島の家に向かおうと校門に向かったところで、阿部が声を上げた。
「三橋、前っ」
「う?」
足元でバッシャという音がする。大きな水溜りがあり、そこに右足が入り込んでいた。右足の裏には固くて不安定な感触があり――多分、石だ――三橋の体がぐらつく。
阿部が咄嗟に三橋の腕を掴むが、その甲斐もなく、三橋は水溜りの入り口に尻餅をついた。
「悪ィ。間に合わなかった……」
「う、ううんっ」
オレがぼーっとしてたのが悪いんだし、と言って三橋が阿部の足を見て目を大きくする。
倒れたはずみに水を跳ねてしまったんだろう。阿部は両足ともに結構な量の水を浴びていた。
「ご、ごめ、ごめ」
「オレはいいから早く立てよ。お前こそ、ケツ、ぐっしょりになるだろ」
掴まれた腕を強く引かれて勢いで立ち上がる。
勢いは立つだけでは治まらなかった。
よろけて、阿部の肩に顎が乗る。抱きつくような、格好になる。
「ごめ……」
離れようとした三橋の目の端に、阿部の唇が映った。
少し赤い、そして柔らかかった、それ。
三橋の鼓動が早くなる。
どうしよう。
触れたい。
あれに。
もう一度。
「三橋?」
それが自分の名前の形に動いた時、アタマがカラダを止めることができなくなった。
それでも、なけなしの理性を振り絞る。言う。
「ヤ、だったら、殴って逃げて、ね」
「は、」
三橋は自分よりも弱冠背の高い阿部に、下から押し付けるようにして唇を重ねた。
やっぱりやわらかい、以前、一度触れたそれ。
「みは……っ」
阿部の動揺も自分の口内に入れてしまう。
あべくん、あべくん、あべくん、あべくん。
湧き上がる衝動が止まらない。
驚きで閉めることを忘れた阿部の唇の間に舌を入れ込む。阿部の同じものを探して深く口づけた。
「ん……っ」
それが絡んでも、三橋の前から阿部は離れなかった。前のように胸を押されない。叩かれない。
三橋のキスも深くなる。
阿部の舌に自分の舌を添わせて、裏も表も舐めて、先にべったりと触れる。吸い上げる。
上顎も頬の内側も、触れない場所がないくらいに舌を伸ばす。
あべくんあべくんあべくんあべくん。
頬を右手で固定して、ただ夢中で貪った。
瞬間、三橋の目の色が少し変わった。
なにか、見たことのない色に。
そして小さな声が聞こえた。
嫌だったら殴って逃げろと。
なんの話だと思った途端、息ができなくなる。唇を塞がれる。
みはし、と呼ぼうとしたら、途中で飲み込まれた。声を。三橋の口の中に。
唇を重ねたままで何度も角度が変わる。唇が触れ合う感触に鳥肌が立った。
すぐに舌が入り込んでくる。
――ヤバイ。
いつかの昼休みを思い出す。
あの時も、なぜかこうなって、三橋の舌が自分の舌先に触れて、そこから全身に走った感覚が怖くなって三橋の胸を叩いた。
回避しようと思った。だけど、今度は遅かった。
三橋の舌が阿部の舌を求めて絡む。
唇よりもやわらかい同士がくっつく。
表面を舐められ、付け根を探られて、意識が飛び始めた。
ヤバイ。やばい。ヤバイ。やばい。
頬に温かいものが触れる。三橋の手だった。いつもは冷たいその手が、温かさを持ち、阿部の顔を固定する。動けない。動けないでいると三橋の舌が阿部の口内を好きに動き回る。
「ん……っ」
鼻か、それとも喉の奥か。信じられないような甘い声が出た。
それに呼応するように、三橋のキスも深さを増していく。
「……っ……」
やべェ。
だって、キモチイイ。
背骨を通って全身に行き渡る快感が確かにある。
頭が真っ白になる。膝の力が抜けてくる。
ちゅく、と三橋と自分の口の間から水音が洩れ始める。唇の端からどっちのものかわからない唾液が流れた。それが顎を伝い、喉を伝って鎖骨を濡らす。
体の中心が疼き始める。
まともに動かない思考をそれでも動かそうと試みる。
出した判断は「もういいや」だった。
もういい。
ごちゃごちゃ考えんのは面倒くさい。
このまま流されるのも有じゃねェか?
「三橋」
三橋の唇が浮いた隙に声を掛ける。
三橋が全身を硬直させる。
そのあまりのびくつきように、覚悟がねーならやるなよなと心の中で笑ってしまいながら、阿部は言った。
「ここじゃ、マズイだろ。濡れついでだ。オレん家に来ねーか? 明日、学校ねェし」
「阿部、君……!」
マズイって言ったそばから強く抱きしめられて、ああもう、人の言うことを聞きやがれと思う。
阿部は誰かに見られていないことを祈りながらも、しばらく、その体温を楽んだ。
そうだ。田島に、行けなくなったと連絡しなくては。
あとは野となれ山となれ。
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