【切なくて、苦しくて】<2005.5.17>




 バッテリーがトクベツ、と言われる意味を、三橋は阿部に会うまで理解できなかった。だって、小学生の時も中学生の時も家でも学校でも、常に1人でボールを投げ続けていたから――自分の性格やわがままのせいだけど。
 それが、西浦に入り、監督や捕手やチームメイトたちに受け入れて貰って、勝利して、久し振りに野球の楽しさを思い出した。
 そうだ。この雰囲気。初めてやったヤキュウと同じ。幼い頃、ハマちゃんたちとやったヤキュウと同じ嬉しさと楽しさ。
 オレはここで野球ができる。ホントのエースになれる。
 ――阿部君と一緒なら。
 そう思ったのに、どうして失念していたんだろう。
 自分は投手だし、阿部は捕手だ。互いに互いがいなければ成り立たない。そして高校に入ってから野球を始めたわけじゃない。イコール、組んでいた相手がいるということだ。
 そんな当たり前のことに思考が及んでいなかったから、練習に向かう前の道すがら栄口と偶然会い、なにげなく振った話から阿部のシニアチームの話になって更に阿部と同じチームに「スゴイ投手がいた」ことを聞いた時は、自分でも驚くほどに動揺した。
 そう、阿部は捕手なのだ。
 組んでいたのは当然投手。
 しかも『スゴイ』がつくらしい。
 全身の血が凍っていくような錯覚に陥る。
 陽射しはやわらかいのに、自分の周りだけ冷えたみたいだった。
 栄口の言葉は続く。
 ――あの人、どこ行ったんだっけな。たしかあんま強いトコ行かなかったんだよな。阿部は2年時からその人とバッテリー組んでて、一回、関東でベスト16になったりしたから、同じ高校行くと思ったんだけどね。
 関東ベスト16。2年時から年上の人と組んでいた阿部。スゴイ投手。
 関東ベスト16だなんて、本当にスゴイ。練習試合さえ勝利したことがない自分とは雲泥の差で、別ブロック所属の栄口までその噂が届くという事は、阿部の相手が噂になるほどの力を持った人だということだ。もっとも、阿部個人から栄口に伝わった可能性もあるけども。
 三橋の頭は『スゴイ投手』のことでいっぱいになる。
 ――ス、ス。
 フェンスを潜ってグラウンドに入ると栄口の姿を見とめた泉が体を伸ばしながら挨拶を返す。栄口と三橋が集合のラストらしかった。皆すでに着替えも終了して、思い思いに動いている。
 ――スゴイ投手。
 トンボを持ってグランド整備に励んでいた阿部が栄口とその後ろの三橋に気づいて「うっす」と笑いかけた。
 嬉しいはずのその挨拶に、今は視線をやることも声を出すこともできなくて、三橋は軽く頭を下げた。
 ――…とオレは、比べられてる、ハズだ。
 一度気になってしまったことを自分の外に出すことができない。
 スゴイ投手。スゴイ投手。
 ぐるぐる世界が回る。悩む頭が止まらない。
 ――阿部君は、どんな投手と組んでたんだ?
 ていうか。
 スゴイ投手ってどんな投手なんだ!?
 黒い影が見える。
 はっきりはしない。マウンドに堂々と立つ、顔の見えない、姿もはっきりしない、モヤのような大きな影。



 気がついた時には目の前――と言ってもフェンス越しだが――にいた知らない人は、今にも登ってきそうな勢いで金網を掴みながら大きな声を出した。
「タカヤ!」
 続けて。
「隆也!」
 とても、大事な名前に聞こえた。
「タカヤ! ちょっと来いよ!」
 みんなが「誰?」とか「呼んでますよー」と問い掛けても誰もその人に近づかない。だけどその人は人違いなんてことはありえないようにまっすぐこっちだけを見ていて、三橋は誰を呼んでいるんだろうと気になった。
 すると、おずおずと近寄ってきたマネージャーが阿部に声を掛ける。
 ――阿部君、あの人、呼んでるんじゃ……。
「!」
 阿部君、の、こと? だからあの人はこっちに向かって叫んでた?
 阿部は立ち上がりその人に向かったことでマネージャーの言葉を肯定した。
 阿部君、タカヤっていうんだ。
 そんなことすら知らなかった。
 隣に座っていた栄口が動いて、ポンと手を叩く。
「榛名さんだ」
「へ」
「朝言ってた人だ。ホラ、シニアで阿部が組んでた、スゴイ投手!」



 榛名の速球も、阿部が話してくれた過去の出来事も、阿部が未だに持っている榛名へのわだかまりも、そしてなにより今の榛名の全力投球とそれを見た時の阿部の見えない表情の、それらすべてが胸に痛かった。
 そしてそれは一年前のことで。
 抽選会の会場に着いて、わずかに固まった目の前の肩に三橋が気づくのと同時くらいに、自分たちの前に並んでいた学校の人が振り向いた。
「お、タカヤじゃん」
 向日葵とか太陽みたいな笑顔だった。
 帰る間際に後ろから肩を捕まれる。
 振り向くと榛名で、コイツちょっと借りていいか、と三橋に訊ねた。
「え、あ」
 言葉に詰まっていると当の阿部が榛名を睨む。
「オレに用はありません」
「オレにはあんだよ。いーからちょっと来い」
 少しの間黙っていた阿部は、やがて大きなため息をつくと、三橋に「先帰っとけ」と言った。
「花井に、待たなくていーからって言っといて」
「う」
「よろしく」
 阿部に右手を上げられて、三橋はどこかに歩いていく2人の背中を見送ることしかできない。
 何も、言えなかった。
 榛名サンは阿部君に何を言うんだろう。
 心臓の動きが速い。そして痛い。
 それは針が数本刺さっているような痛みにも、強い力で握り潰されているような痛みにも感じる。
 阿部君と、榛名サン。
 榛名サンと阿部君。
 間に見えた気がする2人を繋ぐ糸に涙腺が壊れそうになり、三橋は唇を引き結ぶことで懸命にそれを堪えた。

 


 <>