【引き返せない気持ち】<2004.9.9>
夕飯を食べようと風呂に入ろうと一晩寝ようとも苛つきが治まらない。
「なんだってんだよ、くそ!」
登校途中、阿部は爪先に当たった小石を拾うと、用水路目掛けて投げ込んだ。
石はその固い体で真っ直ぐ、かなりの勢いで水中を目指す。
ぼしゃんという音と跳ね上がったしぶきに少しだけ平静になる。だけど同時にまた思い出す。
こんな風にプールにでもあいつを叩き込めたらどんなに楽だろう。このイライラもちょっとは解消されるだろうか。
そう思った時、後ろから肩を掴まれた。振り向くと麦わら帽子。
「こりゃ! なんで石を投げた!」
近所の農家のおじーさん。
石を投げたこと自体や、用水路の役目とその大切さを延々と説教されながら、阿部はまたもや「くそ」と思う。
――それもこれもアイツのせいだ。
阿部を苛つかせている原因は、西浦高校野球部投手の三橋廉。
フェンス越のグラウンドにはいつものメンバーがいた。揃う早さは志賀に百枝、篠岡、そして野郎たちと続く。
「おっはよー!」
「はよ、阿部!」
阿部の姿を見とめ、遠くから元気な声がかかる。栄口と水谷だ。嬉しそうに楽しそうにトンボを持ってグラウンド整備に精を出している。
阿部も片手を上げて挨拶を返す。
「うっーす」
「珍しい、寝坊でもしたー?」
「ちょっとな」
珍しい。そうだな、珍しい。つうか初めてだ。
自分が、この西浦高校に正式入学する前の春休み時点から通っていた野球部の集合時間に、遅れてくるなんて。
遅れてくるとはいっても正式な集合時間までは、あと10分ある。志賀がグラウンドを開放する集合受付時間に遅れたのだ。
ましてやこの時間は。
阿部が最後のボタンを留めた時、ベンチに駆け込んできた人物がいた。
「おっ、お、お、おはよう……っ」
「……うす」
三橋だ。その荒れる呼吸から、走ってきたことが伺える。
「朝メシは?」
「う? えっと、目玉焼き、と、」
「いや。別にメニューを聞いたんじゃなくて、食ってきたのかって」
「あ、うん、しっか、り」
「みたいだな」
それが終わると会話が途切れる。
三橋は三橋で着替えに一生懸命だ。なんとなくネタを探しつつその場にいると、ベンチに田島が飛び込んできた。
「おはよ、阿部、三橋!」
「おす」
「おは、よっ」
あ。
三橋が田島に向けた笑顔に、カチンと阿部の頭の中で音がする。
田島も三橋もそんな阿部には気付かずに「数学の宿題見せて!」「あ、当たってるかどうかはわからない、よ」「いーんだよ、とりあえずやってあれば」なんて会話を続行させている。
「先、行く」
阿部は短く言うとグラウンドに向かって歩き出した。
トンボは全部出払っていたため、阿部は小石を探して拾っていく。
半周したところで正面のベンチを見ると、着替えを終わらせた三橋が脱いだ服をバッグに詰め込みながら田島と話をしているのが見えた。
軽く舌を打つ。
――オレとは二、三個の会話だけで終わるくせに。
昨日の帰り道でもそうだった。一昨日の朝練の時もそうだった。いや、三橋に会ってからそうじゃなかった時を数えた方が早いだろう。それはわかっている。聞いた言葉にはだいぶ的確――阿部には意味不明な時も多いが三橋には的確なようだ。つまり、無言や嘘がなくなったといえばいいだろうか――に返ってくるようになったから、できるだけ話し掛けようと心がけてもいる。
だけど。
ちらりとベンチに目を向ける。
何か楽しい話題にでもなったのか、田島が三橋の背中を叩き、頭をぐしゃぐしゃと撫で、ついでに動作の遅い三橋からバッグを奪ってそのチャックを上げているところだった。
それは阿部にはできない行為。
『ごめっ……!』
昨日、三橋が落とした物を拾おうとして払われた左の手のひらがズキリと痛んだ。
――オレとは手が触れることすら嫌がったのに、田島なら何されてもいいのかよ。
苛々する。すっきりしない。三橋にはもちろんだが、なにより、こんな自分に。
まるでヤキモチ妬いてるみてェじゃねーか、みっともない。
再度、舌打ちを打った時、百恵の声が空に響いた。
「集合ー! 今日も頑張ろうね!」
それを合図に、今日も野球浸けの一日が始まる。
「なんか、苛々してる?」
食事時に向かい合った花井が自分の弁当箱から阿部に卵焼きを、水谷にアスパラベーコンを差し出しながら問う。
出されたそれをありがたく箸で摘みながら、阿部が気の無い返事を返す。
「そう見えんの?」
「……なあ?」
「ねえ?」
顔を見合わせた花井と水谷が頷き合うのを見て「わかる言葉で話せよ」と苦笑した。
「なんでもねェよ。強いていうなら人間について考え事っつうか」
「人間?」
「田島ってすげェよな、とか」
阿部の言葉に「ああ」と二人も頷く。
「あの天真爛漫さは無敵だよな」
「あれで野球できなきゃなんとも言えないんだけど、実力もあるから、正に天才型っていうかー」
「あー、なにより猛獣遣いなとこがな、すげェなって」
「猛獣遣い!?」
花井も水谷も阿部を振り返る。
「それはモモカンのことではなく?」
「むしろ田島本人がどーぶつっぽいと思うんだけど」
「や、そうなんだけどさ」
言葉を濁らせた阿部に花井がピンときたようだ。さすが、実力となにより人柄で選ばれたキャプテン殿。
「もしかして、三橋のことか?」
打つにも捕るにも走るにもスゴイ能力を兼ね備えた人物は、人の気持ちも汲み取るのが上手いらしく、また別な意味で上手い栄口と同じに三橋の気持ちをわかってやり、そして慕われてもいるようだ。それは日に日に強くなる。同じクラスであることも関わっているとは思うが、放課後や休日だけとはいえ、肝心のバッテリーを組む自分とは段違いに思える。
「苦労してんだ、阿部」
よくわかんねーけど、と水谷が自分が飲んでいた牛乳をそっと阿部に献上した。
サンキュ、と断ってから阿部はストローでそれを啜る、と、目の端に映ったのは目を見開いた花井と水谷。そして背中に衝撃。
阿部は飲んでいた牛乳を逆流させ、口から吐き出した――自分の名誉のために声を大にして言うが、少しだけ、だ。背中を叩かれたついでに、軽く支えていた牛乳パックのボディまで強く握ってしまい、パックに刺さったストローから阿部の顔面を目掛けて内容物が発射される。
口の端から牛乳を流し、顔にもそれを浴びた阿部の後ろで元気印の声がした。
「サッカーしようぜ、暇なら!」
それは正に噂の人物で。
「たーじーまー」
ギロリと振り返った阿部に田島が正直な一言を漏らす。
「うっわ、阿部、きたねえ!」
「誰のせいだと……!」
一気に爆発した阿部を水谷が宥め、天才というよりは天然な田島の首をガッシと掴まえた花井がそれを引き摺って廊下を目指す。
「はいはい、サッカーな。やろうやろう」
「なんか投げやりー。ところで阿部、なんで怒ってんの?」
「察しろよ、その辺は……」
そんな会話が聞こえたことで、阿部の握られた拳がわなわなと震える。まあまあまあ、と水谷が笑いかけていると、横からハンカチが出てきて阿部の口に当てられた。
びっちびっちと乱暴に拭くその行為に阿部がストップをかける。
「いて、ちょっと痛ェよ、三橋!」
「あ、え、ごめ……」
例によって田島に引き連られて来たんだろう。田島の後ろに三橋がいて、その三橋がポケットから出したハンカチで阿部の顔を拭っていたのだ。かなり力強く。
「いや、こっちこそ助かったし。ありがとな」
「う、ううん。ど、いたしまし、てっ」
そしてやっぱりそこで会話は途切れた。
下を俯いて何も言葉が出ない二人を救ったのは水谷だった。
「でもさ、さっきの阿部、ちょっとヤバかったよなァ」
が、助け舟のはずのその台詞に三橋が反応したもんだからたまらない。
みるみるうちに真っ赤になって泣きそうな表情になる。
「三橋、その反応、それこそヤバイって」
「う、あ、あ……っ」
三橋を覗き込んだ水谷が、三橋の目の縁にじわりと溜まってきたものを見つけて、うわ、と叫ぶと阿部に「タッチ」と小声で告げる。
「オレもサッカー行ってくるな! あとヨロシク!」
「よろしくって、なに……」
ダッシュで場から逃げた水谷に「あの野郎」とひとりごちると、阿部は三橋を見た。
唇をぎゅっと引き結んでフルフルと震えている。泣きが入る前のサインだ。
――わかんねェ。今のドコでいったい泣けるんだ?
しかし、わからないからといって放置することもできないだろう。
阿部は三橋に待つよう指示をすると机の上の弁当箱を素早く片付け、屋上にでも行こうと、三橋を教室の外に誘った。
暦の上では春に位置するのだろうが、桜も散り、新緑も揃い始めて風にそよぐ今日は、どちらかというと夏に近い。
少し強めの陽射し、あたたかい風を全身に浴びた阿部が、後ろを振り返って笑顔を作る。
「落ち着いた?」
言葉の代わりに三橋の首が縦に振られる。
「それなら、いいけど」
また、音が途切れる。
なにか話題を探さなくては。
内心焦りながら、阿部はなんとなく、さっき腑に落ちなかった疑問を口にした。
「水谷が変なこと言ってたよな。三橋はわかったみたいだけど、なんのこと?」
「っ」
びくっと体に緊張を走らせた三橋に阿部もびくりとする。やばい。これは聞いてはいけないことだったのか? また泣いてしまうんじゃないかと身構えた時、なんとか堪えた三橋が小さい声で、うん、と肯定の言葉を出す。
「やば、かった」
「……オレ?」
「う、ん……っ」
「なんで?」
「……」
「言えよ」
「あ、え、えっとっ」
「えっと?」
詰め寄った阿部に後ずさりしながら、三橋は視線をあちこちに飛ばす。空、地面、金網。
後ずさる。一歩二歩三歩。
――向かいに、オレがいるのに。
なぜ目を合わせないのか。
昨日からの、そして朝練時のむかつきが思い出される。
どうしてこいつは、オレに対してのオドオドがここまで徹底しているんだ。オレが何をした。
ずいっと三橋に向かって足を踏み出した瞬間、三橋が阿部を拒絶した。
――阿部君、来ない、で。
そんなの、ムカっときてイラっときて、カッときたって当たり前のことではないか。
怒りのスイッチが入り三橋に詰め寄る。三橋の胸倉を掴んで、そして。
ふわりと体が浮いたかと思ったら三橋の頭の向こうに空が見えた。
空色という表現しかないような水色と、ところどころに浮かぶ白い雲。
全身に太陽と風。唇には唇。
なにが起こっているのか、阿部には全く理解できていなかった。
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