残像  

     *  弐  *

 一九九七年。
 春。

 ホールの掲示板に張りだされたクラス編成表には、AからD組全部見渡しても、僕の知っている名前はひとつもなかった。当然のことだけど。僕はそれをねらって、この学園に来たんだから。
 ここには、僕を知っている者はひとりもいない。両親にも寮にいる限り顔を会わせなくていい。僕が、『愛人の子』だなんて思わずにはいられないものは何ひとつないんだ。
 僕は、やり直せるだろうか。『ひと』とかかわるのはとても怖いけど。
 少しの心もとなさは、仕方のないことだと思った。
 教室では、同じ出身校同士らしい何人かがかたまって話しているのが二グループくらいあったけれど、あとは僕と同様の身らしく、緊張した面持ちで皆居心地悪そうな様子だった。昨日入学に先だって入寮式があった。時々会話がとぎれながらぎこちなく話しているのは、きっとその時顔見知りになったひとたちなんだ。ほんの顔見知り程度の間柄でも、見ず知らずばかりのなかにみつけたら、地獄に仏の気持ちなんだろうな。きっと。
 僕自身はそんなの、全然期待していなかった。だから、
「縁があるんだね、僕たち」
 ふいに前の席から声をかけられて、僕はその人物をみるなりちょっと驚いてしまった。
 菅原圭だった。
 まさかルームメイトが、同じクラスになるなんて。
 彼の印象は悪くなかったから、波間に板っ切れをみつけた気分で正直少しほっとした。 だけど、これからの一年間、寮でもクラスでも二十四時間一緒なのかと思うと、少し憂鬱にもなった。
 なれあいされたらかなわない。
 ふいに、なんだかあたりからの突き刺さるような視線に気付いて見廻すと、僕と菅原圭はクラスじゅうから注目をあびていた。正確には、菅原圭が、だ。
 あいつが総代か。
 ひそひそ声が僕の耳に届いた。
 ああそうか。この学園はテスト成績の順位で席順が決まるんだった。中間、期末、模試。つまりは結果が一目瞭然なんだ。自分にも他人にも。
 すでに次の試験にむけて、熾烈な競争が始まっている。
 菅原圭は、とても人目をひく生徒だった。ウチのクラスにはもうひとり『ケイ』という名前の生徒がいて、この通称『Wケイ』は、あっという間に、クラスの、僕ら期生の、学園じゅうの名物生徒になった。もうひとりの『ケイ』を、神崎恵と云う。こっちもハンパじゃなく目立つ。
 とにかく対比がおもしろいんだ。
 菅原圭は、誰がみたって文句無しのハンサムだった。たとえるならモデルが十人並んだら、比べられたほうには悪いけどアヒルのなかの白鳥、それくらい菅原圭はきわだっていた。甘いマスクっていう形容があるけれど、こういうのを指すのかっていう見本にたいだ。だけど甘ったるさは全然なくて、受ける印象はちゃんと『男』だったりする。
 これで成績優秀、スポーツ万能、素行良しとそろっていたら、皆からやっかまれてもしょうがない気がする。だけど菅原圭は、クラスから全然浮くことはなかった。こっちがちょっと引いてしまうくらいの整った顔立ちで、ふわっと笑うんだ。まるで暑い盛りの夏の一陣の涼風みたいに、こっちの防御みたいなものをスルッとといてしまう。誰にでもわけへだてなく親切で、そのうえ聞き上手。
 かたや、神崎恵の印象は、くっきり、はっきり、かっちり、シャープ。伸び盛り真っ最中の圭とちがって(といってもいまだ一五〇ちょっとの僕よりはずっと高いけど)、しっかり成長しきった一八五センチは絶対難いであろう長身から、ひとり皆を見下ろしている。
 とにかく、まとっている空気がまるで違うんだ。泰然としている。同じ制服を着て同じ教室にいなかったら、ぜったい僕らと同じ中学生にはみえない。本人もそれをじゅうぶん自覚しているらしいけれど、それを鼻にかけないところがもっと怖い。
 ポーカーフェイスだし、ズドンと腹に響くような声だし。
 教師の説教より神崎恵のひとにらみ。先輩方も道譲るっていうの、わかる気がする。
 根性がまた、輪をかけて良かったりする。
 山のような書籍とビデオテープとDVDで、カオス化している神崎の部屋。そこに寮内持込禁止のTVやデッキを堂々と置いて、ジャンルオールマイティーの映画をせっせと観ている。密告されないのは、どっからどうやって手にいれているんだと疑問いっぱいの映画を、その部屋で皆御相伴に預かっているからだ。まさかアレ、談話室で公然とは観賞できないしね。僕は恥ずかしくてまだ観る勇気ないんだけど。
 とにかく、菅原圭があこがれの超自慢の兄なら、神崎恵は、背筋緊張の存在感たっぷりな先輩。そんな感じだ。
「天野。日本史のレポート誰と組むか決めた?」
 放課後、憂鬱な気分で鞄に教科書をしまっていた時だった。同じく帰り支度をしていた菅原圭がふりむいて訊いてきた。
「まだ」
 入学から二ヵ月たつのに、僕はいまだ友達らしい友達をつくれずにいた。
 だからグループ課題がでるとすごく困ってしまう。やたら多いし。誰を誘っていいのかわからないし。思いきって声をかけると、決まって、え!?って顔をされる。誰も僕と組むことなんか念頭にないんだ。あたりまえというか、仕方のないことなんだけど。そのままえいっと入っちゃえば、意外となんでもなくて、友達になるきっかけになるかもしれないと思うんだけど、僕は臆病で、
「あ、いいんだ、決まってるんなら」 なんて自分から引いてしまう。
 菅原圭は、クラス全体をみていて、そういうコトさりげなくフォローする。 「よかった。僕もまだ決まらないんだ。よかったら組まないか」
 こんなとき僕はさりげなくフォローされてることを意識してしまう。すごく情けない。
 僕もまだなんて、それは本当であって嘘なんだ。菅原圭と組みたがっているクラスメイトなんていっぱいいるし、実際授業が終わった直後から昼休みの最中だって声かけられていた。だけど菅原圭は、いつだってギリギリまで決めない。かならずクラスであぶれているひとを誘う。つまり、いまは僕なんだけど。
 なれあいされたくないなんて入学式の時思ったけれど、現実は僕のほうがおんぶしてもらってる。
 図書館は混んでいて、空いている席は…と見渡したら、窓際の一番奥で神崎と目が合った。何故だか神崎の周囲三席、そこだけきれいに空いている。
「天野、あそこ」
 菅原圭も気付いてスタスタ歩きだす。
 …。神崎とむかいあわせだなんて。歩きながら、僕の背中と肩はもう凝りだしている。
「神崎、ここ空いているかな」
 菅原圭が尋ねると
「おまえら待ちだ」
と、返事が返ってきた。…え、また? 僕はおもわず思った。
 神崎もあぶれたクチらしかった。ここ数回、僕らの常連になっている。といっても、僕とは事情が全然違うんだけど。
 神崎は自分からあぶれているのだ。近寄りがたいから敬遠されているきらいがあるのは事実だけれど、本当は皆神崎から誘われるの期待していたりする。最初の頃、神崎はああいうカンジだから、リーダーシップを発揮して自分は高みの見物的なイメージを皆持っていたんだ。だけど、実は自分の受け持ち分はしっかりやる奴なのだと判明した。それも先生をうならせるくらいのデキで。僕も初めて組んだ時は(菅原圭も一緒)、きいいてはいたけど目の当たりにして驚いた。つまり神崎のレポートは定評があって、菅原圭と同じくチーム組みたいナンバーワンだったりする。よしんば高みの見物タイプだったとしても、神崎の誘いを断る度胸のある奴はいないと思うんだけどね。
 レポートは二人から三人一組だから問題はないんだけれど、菅原圭だけでも気が重いのに『Wケイ』と組むのは…。
「天野はいいよなァ、高嶺の花ふたりも独占で」 なんて嫌味っぽいことをグサグサな視線で云われると、身のおきどころがなくていたたまれないんだ。
 だから、菅原圭の好意も素直にうけとれなくて、僕なんかに気をつかわなくていいのにと思ってしまう。やさしくされて、あとで見向きもされなくなってしまうのは怖いから。気をつかってもらっててこんなことを考えるなんて、ひどいよね。僕は、他人にやさしくない。最悪な性格なんだ。
 とにかく、僕が足をひっぱるのは申し訳ないから、僕は必死になって課題に取組む。だけど、どうしてもふたりの要求レベルまでもっていくには時間がかかってしまう。要領悪いんだ。
 今日も僕待ちになってしまってるし。やっとできた頃には、陽が落ちて、図書館内には僕らだけになってしまっていた。
「ごめん…」
「天野、謝るの、癖なんだね」
 菅原圭がいつもの笑みで云った。
「そんな。だって…」
 僕はうつむいた。迷惑かけてるのは事実だから。
「時間の差は個人差なんだから、気にしなくていいんだよ。天野、きちんとできてるじゃない。ひとに頼らず自力で取組んでる。謝る必要なんかどこにもない。そうだろ」
 僕は驚いた。僕がそんなふうに評価されているなんて思ってもいなかったから。 「天野と組むと、役割、きちんと等分できるから僕は好きだよ」
「おまえ、自分のことみえてねんだな」
 神崎が、ポーカーフェイスで僕を見下ろした。

 僕は臆病でひとにやさしくないから、友達ができなくても仕方がない。傷つけられたくないけど友達が欲しいなんて、ムシが良すぎるよね。
 そういう嫌な性格って何もしなくても、たぶん他人には伝わってしまうんだと思う。
 夏休み近くになっても、やっぱり僕には友達らしい友達がいなかった。
 クラスにひとりはいる、こういう、そこだけポツン、としてる奴。
 無視されてるわけじゃないんだ。話だってそれなりにはするんだけれど、会話が全然続かない。間が、全然もたないんだ。
 僕だってむかしはいまより積極的だったし、友達だってわりといた。
 だけど、一〇歳のあの出来事以来、自分に引け目みたいなものをもってしまって、ひとと接するのが苦手になってしまっているんだ。
 いまだにクラスに親しい友人がひとりもいないなんて、僕だけだと思っていたのに、僕はある日、突然、もうひとりいることに気がついた。
 信じられないことだけど、本当に信じられないことだけれど。
 僕の目の前の席。
 あの、菅原圭だった。
 初めは僕の勘違いかと思った。観察して、確信した。
 菅原圭のまわりにはいつもひとが集まる。だけど、菅原圭から誰かの席に会話しに行くなんてことは絶対にない、んだ。
 移動も学食も、いつもひとり。誰かが自然に寄ってくるから傍目には、クラスの全員が友人のように映るけれど。菅原圭自身からはまったく求めてはいない。
 これって、たぶん誰も気付いていない。気付くはずがない。だって、皆菅原圭が好きで、あの菅原圭にかぎって親しい友人がいないなんてありえないと思い込んでいるから。
 菅原圭は、やさしい。誰にでも。均等に。
 菅原圭は、やさしさを盾にして、皆を拒絶している。何故?
 僕は直感した。ああ、そうか。菅原圭は、僕と同類なんだ。
 傷つくのが怖い。
 僕はその理由を、夏休み明けてすぐに知ることになる。


 二学期。
 新学期の前日、僕は自宅から寮へと戻った。部屋には、菅原圭が一足先に戻っていた。




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