交錯する思惑

 

 空渡る黒き鳥は群れを連ね、鳴いている。

 穂の月から霊の月に移り、日が暮れるのは早くなっていた。

 夕日は既に街道の地面を紅く染めあげ、街道の脇に広がる丈高な草々の海に異なる色あいを与え、

 コントラストによる美を静かに示している。

 名うての吟遊詩人が見れば、歌心をそそられるような野趣あふれる情景だ。

 だが、そのような情景とは裏腹に、国王直属の街道衛士隊の警備の及ばぬ街道は、危険と常に隣り

 合わせであった。

 野盗はもちろん、人外の力持つ存在の襲撃は旅人に容易に死を招く。 

 それらを避けるためある街道沿いに宿屋とて信用ならず、枕探しなど常識、身ぐるみ剥がされ追い

 出されるのもまだまだ幸運、入る客より出る客が少ないことなどもざらであり、朝食のス−プに入っ

 ている肉があやしいこともしばしばだ。

 だが、そんな街道でも旅する者は常にあり、遍歴の傭兵、旅芸人、隊商など様々である。 

 今、この街道をいる長身の男もそんな旅人達の一人に見えた。

 着てるものは厚手の黒い革服に防寒用のマント、そして腰にはサ−ベルと片刃の短剣を下げ、背には

 麻の背負い袋。

 一つとして新しい代物はなく、どれもが傷つき、色あせ、男が過ごした過酷な日々を想像させるに足

 りる。

 だが、歩みを進める洗練された男の容貌には、そのようなかけらすらなく、落日を趣き深そうに眺め

 口元には穏やかな微笑すら浮かべていた。  

 だが突如、男は危険を察知し、歩みを止めた。

 数瞬遅れ、男の足元に数本の短剣が突き刺さる。

 それらの刃には深緑色のどろりした液体―――毒が塗られていた。

「……賢者」

 丈高な草の中から押し殺した声がかかる。

「貴様の首をもらう」

「またか‥‥‥」

 うんざりしながら、男は呟いた。

 賢者―――少し前までそう呼ばれる暗殺者がいた。

 王都サルデスの暗殺者ギルド一だった暗殺者だ。

 それが終わったのは、賢者がある暗殺で友人でもあった相棒を見殺しにしまい、その責任を感じ、ギ

 ルドを脱退したからだ。

 脱退に際し、ギルドともめたが、ギルドの長カイデルは賢者の脱退を不本意ながらも認め、ギルドと

 賢者との間の抗争は回避された。

 しかし、賢者を狙う者はギルドだけではなく、殺して、名をあげようとする暗殺者は後をたたなかっ

 た。

 再び、草むらから短剣が放たれる。

 賢者は抜きざまの一刀でそれを弾くと、丈高な草の中へとダッシュした。

 再び、飛来する二本の短剣。

 今度はそれをサ−ベルで切り上げる。

 それはいかなる技だったのか、短剣は放たれた方向へとそのまま返っていった。

「馬鹿なっ!?」

 驚きの声があがった、続いて、短剣が何かにささる音が響き、短い悲鳴が賢者の耳に届く。

 それきり、その場からは短剣は飛んでこなくなる。 

「屍肉は狼か怪物が片づけてくれるだろうよ」

 憮然として言い放ち、賢者はサ−ベルを鞘に収めた。

 その時、落雷の音が鳴り響く。   

 ふと、空を見ると、夕日は雨雲で隠れ、周囲は暗くなっている。

「荒れそうだな‥‥‥」

 賢者は、街道に戻ると、ゆっくりと歩き始めた。 

 

 

「騎士警察、いや、せめて、近くの街道衛士隊の詰所に行ければ‥‥‥」

 腰に小剣を佩しただけの娘は、そのような言葉を口にしながら、降りしきる雨の中を馬を駆り、荒

 い息をついていた。 

 疲れはてて、意識は朦朧とし、自分の肉体は自分のものでないように感じている。

 それでも、娘は馬を走らせていた。

 既に追手がかかり、休息している暇などはない。

 だが、馬の体力にも限界があり、一昼夜休みなしで走らせた疲労の為か、馬はやがて倒れ伏すと、

 そのまま動かなくなってしまった。

 疲労は極に達し、既に辺りは暗くなり、危険であったが、使命感に燃える娘はそれを確認すると、

 ふらつく足取りながらも、徒歩で街道を進み始める。

 百歩ほども歩いたか、背後から迫る足音に気づき、娘は思わず振り向いた。

 振り返った視線の先にいたのは漆黒の巨漢だった。

 娘の表情がサッと曇る。

「よう、お嬢さん」

 巨漢はのんきそうに娘へ声をかけた。

「伯爵さんより奪った物を返してくれないかな?」

「断るわ」

 気丈に答える娘。

「それは困った」

 巨漢は手を背中へ伸ばす。

「嬲り殺してから、探すのは面倒なんだがな」

 背にまわっていた手を前へと戻す。

 その手に握られているのは巨大な戦斧。

 それを目にした娘は背後に跳びのくと、腰にある小剣を抜いた。

「無駄なことを」

 娘をあざ笑うと、巨漢は戦斧を激しく振り回した。

 その一撃ごとに空気がうなる。

 娘はそれを何とか回避していた。

 巨漢の攻撃を小剣で受けようなら、破壊されかねない。

 やがて、疲れの為か、巨漢の動きが遅くなった。

 娘は隙を逃さず、間髪を入れずに巨漢の懐に潜りこむ。

「はあっ!」

 気合いの声とともに、小剣は巨漢が突き立てられた。 

 いや……それは、巨漢の筋肉に阻まれ、小剣の剣尖は肌の表面で止まっていた。

 娘は驚きで目を大きく見開き、思わず息を飲む。

「残念だな」

 巨漢は拳を娘のみぞおちに叩きこむ。

 衝撃を感じながら、娘の気を失った。

「ふむ‥‥‥遊んでからでも遅くないだろ」

 娘をじろじろと見た後、体を担ぎ上げ、巨漢は辺りを見回した。

 近くには、旅人の為に街道沿いに設置されている小屋があった。

 巨漢はその中に入ると、娘を床へと下ろし、娘の肢体を味わうことにした。

 舌が娘の肌を這い、手が胸を揉みしだく。

 娘は声にならない吐息を洩らす。

「ううっ‥‥うんっ」

 娘の目が開く。

 その瞬間、巨漢の大きな手は娘のほっそりとした首をつかんでいた。

「こほっ‥‥‥」

「静かにしていれば、殺さんでもすむ。抵抗しても構わんがな‥‥‥死んだ女とは、まだやったことが

 ないが面白そうだ」

 淡々と語りかける巨漢の言葉に娘は従うように 顔を横向け、体から力を抜いた。

「それでいい」

 巨漢はニヤリと笑い、娘の首から手を離し、行為を再開した。

 娘はなすがままにされながら、ひそかに右袖口をさぐった。

 隠しておいた小振りな短剣が手に触れる。

 その時、娘は小屋の隅に人影がいるのに気づいた。

 娘の様子から察したのか、気配を感じたのか、巨漢も小屋の隅に目を向ける。

 そこには、一人の男がいた。

 壁にもたれかかり、深く目を閉じている。

「死にたくなければ、失せろ」

 巨漢は低く言い放つ。

 その言葉で男はのっそりと立ち上がった。

 巨漢はそれを確認すると、行為を再開しようとする。

「どうも道に迷ったらしいんだが、アジュ−トの街はどっちだか教えてくれないか?」

 男はいつの間にか巨漢と娘の近くに来ていた。

「失せろといった!」

 男は背後に跳び退いた。

 巨漢の戦斧が男のいた位置を薙ぎ払う。

「やってくれる」

 男が着地した時、マントの一部がザックリと裂ける。 

 その瞬間、娘は袖口から出した短剣で巨漢に突きかかっていた。

 しかしながら、再び、筋肉の壁に阻まれ、短剣の刃は肌の表面で止まる。

「あの男を始末したら、お前の相手はたっぷりとしてやるよ」

 巨漢は娘を押し退けると、ゆらりと立ち上がった。

「後悔してるのか?」

 巨漢と対峙する男はサ−ベルどころか、短剣すらも抜いていなかった。

 だが、男の顔には、自信すら感じられる穏やかな微笑のみ。

「いや、少し考えたんだが‥‥‥」

 錆のある声が小屋に響く。

「あんたの体の全てが筋肉って訳じゃないよな!」

 男の手から一筋の銀光がはしる。

 羽飾りのついた長い銀の針だった。

 それは、一瞬の内に、巨漢の右目をえぐり、脳をも貫いていた。

「あっ‥‥‥?」

 理解できぬ表情のまま、巨漢は崩れ落ちる。

 娘はその光景を、意識が遠くなっていくのを感じながら見ていた。

 

 

 娘が目を覚ますと、朝になっていた。

 かけられていたマントを取り去り、辺りを見回す。

 昨日、巨漢に犯されかけた小屋だった。

 巨漢の姿はなく、小屋の隅で男が座っていた。

「起きたのか?」

 問いかけは男からだった。

 うなずいて、娘は立ち上がると、マントを手に男に近づく。

「礼をいうわ」

「気にするな、寝床をとられたくなかっただけさ」

 男は娘が手渡すマントを受け取った。

「傭兵なの?」

「前は違ったが、今は似たような者さ」

 娘の真剣な声と対称的に、男の声はのんびりとしていた。

「金貨十枚で雇われる気はない?」

「悪いが安売りはしない」

「二倍なら?」

 そう告げて、娘は金貨の入った皮袋を男へほおった。

 受け取った男は確認し、思わず低い口笛を吹く。

 金貨一枚あれば、五人家族が半年食うに困らない。

 要求する方も、払う方も尋常でなかった。

「護衛か‥‥‥どこまでだ?」

「アジュ−トの街の街道衛士隊詰所」

「いいだろう。しかし、何に追われているんだ?」

「ま、おいおい、話すわ。とりあえず、早くここを離れないとまずいの」

「分かった」

 男はマントを羽織り、背負い袋を負うと、きびすを返した娘に続いた。

「名を聞いてなかったわね。私はティントレット」

「ル−ジングだ」

 つまらなそうに男は、名乗り返した。

 

 

「失態ですね、最高幹部殿」

 名工の手による細工がなされた椅子に腰かける薄い服を着た肉感的な赤毛の美女は、率直な感想を述

 べていた。

「伯爵と呼んでほしいものだな、イライザ」

 窓から外を見ながら、貴族らしい立派な服装をした老人は威厳を示そうとしてする。

 美女はクスリと笑った。

 その反応が虚勢であることを見抜いたからだ。

「それで、用件は?」

 老人―――伯爵は、笑い声にムッしたが、そのことに触れず、話をするように促した。

「では、総主様からの通達をお知らせいたします。今回の情報漏洩の失態をどのように償うかを聞いて

 くるようにとのことです。つまり、二階級降格と引き換えに組合に解決を委ねるか、御自分で解決な

 さるかをです」

「自分でやるに決まっておる!」

 怒鳴り散らし、伯爵は振り返った。

「すでに、ワシが最も信用する暗殺者達を差し向けておる。一両日中には取り返してくるはずだ」

「それは、結構。では、良い結果を、失敗なされば総主様直属の暗殺者が派遣されることをお忘れなく」

 美女は優雅に椅子から離れた。

 その時、皮肉っぽい光が目に宿っていたのに、伯爵は気づいたかどうか。

 美女はおもむろに呪文を唱えると、その場から姿を消した。

「チェルクの牝犬めが‥‥‥」

 伯爵は憎々しげに言葉をはき、再び外を見た。

「ここまで登りつめたんだ。必ずや、ガイア−ナの総主の座を‥‥‥取る!」

 

 

「気づいていたか?」

「いいえ、ぜんぜん」

 伯爵への使者として赴いていた美女イライザは、直接の上司チェルクの問いに答えた。

「そうか」

 チェルクは重々しくうなづいた。

「煙たい最高幹部を蹴落とす為の策、上手くいくといいけどね‥‥‥」

「とはいえ、情報を奪った娘を助ける訳にはいかぬ。私達の介入があったことが発覚すれば、最高幹部

 を蹴落とす策など失敗、俺達こそ裏切り者という題目で抹殺されかねない」

「賭けね」

 イライザはポツリと呟く。

「だが、成功する確率はかなり高いな。追われる娘が第一の刺客を倒し、アジュ−トへ向かっていると

 いう情報が入った」

「それは期待できるわね」

 イライザは悪戯っぽい笑みを思わず浮かべていた。

「さて、それじゃ、成功しだい連絡をお願い」

「ああ」 

 無愛想にうなずくチェルクを見ながら、イライザは姿を消した。

 

 

 その頃、二人は、雨上がりの歩きにくい街道を進んでいた。

「ガイア−ナ・ユニオンの各拠点の位置が記された情報を手に入れたのよ」

「ガイア−ナ・ユニオンって、あのガイア−ナか?」

 あの、という部分に、ル−ジングの感情がこもった。

「そのガイア−ナ組合よ」

 ティントレットにぬかるみに顔をしかめながら、大声で答えた。

 ガイア−ナ・ユニオン―――非合法商人のネットワ−クを形成したガイア−ナの名をとって作られた

 組織は、闇でその名を知らない者はいないであろうという最大級闇組織で、闇の売買で得た莫大な富

 により軍隊や暗殺者達をも擁す闇の巨魁だ。

 元暗殺者のル−ジングとて関わりを持ちたくない組織だった。

「そんな組織に潜入していたとは、そういう関係組織のメンバ−なのか?」

「違うわ、司法府の者よ」

「司法府?あそこは裁断を下すのが仕事だろう」

「全部がそうという訳じゃあないわ」

 含みをこめ、ティントレットは言葉を続けた。

「司法府特別捜査隊ってご存じ?」

「ああ、知っている」

 答えてから、思い当たり、ル−ジングは急にティントレットの方を振り向いた。

 ティントレットは得意そうな笑みを浮かべている。

「そう、私は司法府特別捜査隊の捜査官」

「なるほどね」

 ル−ジングは大きくうなずいた。

 司法府特別捜査隊は、騎士警察、街道衛士隊、巡回警備隊といった警察機関の管轄を越えて、犯罪を

 摘発する司法府の実働組織で、各組織から抜擢された腕利きのエリ−ト集団だった。

「それより、いいのか?」

「何が?」

 不思議そうにティントレットは反問した。

「素性も知れぬ俺なんかにそこまで話していいのか?もしかしたら、あんたを始末して、その情報を

 どっかに売り飛ばすかもしれないんだぜ」

「見る目はあるつもりよ」

「そうか‥‥‥」

 ティントレットの陽気な返事に、ル−ジングは内心の憂いを隠し、苦い声をはきだした。

 内心の憂いとは、元暗殺者としての意識だった。

 暗殺に際して、人に信用されねばならない場合、暗殺者は信用を得られるよな行動をする。

 ギルドを脱退してからも、ル−ジングは無意識的に信用を得られるよう振舞っていた。

 それゆえに、心の底から信用しているようなティントレットの言葉を聞いた時、内心でだましてい

 るような意識に捕われ、憤り、罪悪感、嫌悪と様々な負の感情が自らを苛んでいた。

「どうしたの?」

 不思議そうにティントレットが声をかける。

「い、いや、何でも‥‥‥」

 不意にル−ジングは殺気を察知し、足を止めた。

「どうした‥‥‥」

 数瞬遅れて、ティントレットも悟り、足をとめる。

「どこなの?」 

「分からない‥‥‥」

 武器を構え、背を合わせつつ、二人は言葉をかわした。

 殺気は感じるのだが、敵は気配を読ませない。

 二人は身を硬くしながら、敵の反応を待つ。

 やがて、霧が出てきた。

 それは二人を覆い隠し、見えないほどの濃さとなる。

 お互いの背中に触れる感触だけが二人を位置を知らせていた。

「離されたら厄介だな」

 ル−ジングの言葉がむなしく響いた。

 振り返ると、背にあるのは一本の巨木になっている。

「ちっ‥‥‥」

 いまいましげに呟き、ル−ジングは周囲の見回し、ティントレットの気配をさぐった。

 しかし、深い霧で視界は効かなく、誰の気配も感じられなかった。

 だが、不意に気配が動いた。

 ル−ジングに向かって小剣が突き出される。

 血飛沫が舞い、絶叫が霧の中に響く

「殺ったか!」

 歓喜の声があがった。

 同時に、声の方向に幾十もの銀光が閃いた。

 次の瞬間、断末魔の叫びが周囲を震わせ、霧は存在しなかったかのように消え失せる。

「手がこんでいるな」

 ル−ジングは苦痛をに耐えつつ、呻く。

 ティントレットの小剣はル−ジングの左腕を刺し貫いていた。

 小剣が繰り出された瞬間、敵の位置を知る為にル−ジングはあえて左腕で剣を受け、苦痛の叫びを発

 した。

 敵が己を死んだと誤認すれば、何らかの反応を見せるかと思っての捨身の行動だった。

「御免なさい。あなたが怪物に見えたの‥‥‥」

「奴の術が凄かったんだ、気にするな。それより、剣を抜いて欲しい」

 詫びるティントレットをなだめるように、ル−ジングはゆっくりと聞かせた。

「はい」

 小剣が左腕から抜かれると、血がどくどくと流れ落ちる。

 ル−ジングはそれを気にせず、右手に持った針を左腕の上腕に突き立てた。

 たちまち、流れ出ていた血が嘘のように止まる。

「済まないが、背負い袋の中にある霧露草の軟膏を俺の腕に塗ってくれないか?」 

 背負い袋をおろし、ル−ジングは頼みを告げた。

 ティントレットはこくりとうなづくと、ル−ジングの頼みどおりにした。

 治療を受けながら、ル−ジングはふと倒した敵のいる方を見る。

 無数の羽飾りのついた長い銀の針が、ロ−ブ姿の老婆の全身に突き刺さっていた。

 よく見れば、それはル−ジングが大木と認知した場所と一致している。

 この老婆が用いたのは、恐るべき幻術と隠行の法だった。

「まったく、あと何人いるのやら‥‥‥」

 疲れたようにル−ジングは呟いた。

 

 

「奴らが失敗‥‥‥」

 呆然した声が部屋に響く

「まことか?」

 伯爵は暗殺者につく監視者に問いただした。

「はい」

「馬鹿な、あんな小娘がやつらを倒しただと!!」

 伯爵は怒りを露にし、叫ぶ。

「いえ、正確に申しますと、娘の雇った傭兵が手練れでして、その者に巨人と魔女は倒されましてござ

 います」

「傭兵だと、どのような武器を使う?」

「サ−ベルを下げていましたが、二人を倒したのは羽飾りついた長い針でした?」

 その答えに伯爵は思いあたることがあったのか、顔色を変えた。

「確かに羽飾りがついた長い針だったか?」

「はっ」

「分かった、さがるがいい」

 その声で監視者は一礼し、その場を辞した。

「賢者だと‥‥‥」

 動揺が心を支配していた。

 そんな伯爵の様子を部屋の隅にいる蜘蛛が見ていた。

 

 

「左腕は大丈夫?」

 怪我の原因が自分にあると思っているティントレットは、深く心配しながら訊いた。

「霧露草の軟膏が効いてる。多少は痛むが、動かすにはほとんど支障ない」

「本当?」

「ああ、大丈夫だ」

 答えて、ル−ジングは左腕を勢いよく回した。

 確かに、ティントレットの目に痛みなどないように見える。

「それより‥‥‥」

 腕を回すのを止め、ル−ジングは話題を転じた。

「アジュ−トまで、あと少しか?」

「そうね」

 使命を果たせそうなティントレットの声はどことなく弾んでいた。 

「でも、少なくとも、もう一回は来そうな気がするわ」

「心配するな」

 力強くル−ジングは励まし、不敵な笑みをティントレットに見せた。

「金貨二十枚分の仕事は最後までする」

「させませんよ」 

 ル−ジングの声に別の声が重なった。

 二人は思わず、声の方を振り向く。

 そこにいるは、一人の男。 

 鋭利な刃持つレイピアを手に立っていた。

「第三の刺客か?」

「虐殺者のジヴァ」

 男は口の端を吊り上げ、にいっと笑い、一礼した。

 その笑みにティントレットはおぞけを感じる。

 ル−ジングもその笑みから男の本質を読みとっていた。

 整った顔の中にある眼差しと冷ややかな笑みに隠された本性は、戦いを欲し、血を見ることに喜びを

 感じる者。

「さて、短いおつきあいになりそうですが、よろしく」

「同感だ」

 男が進み出るに従い、ル−ジングはティントレットの前に出た。

 すでに背負い袋を地面へほおり投げ、サ−ベルは抜き放っている。

 ティントレットも小剣を抜いたものの、レベルの違いを察して、二人から距離をとった。

「いいんですか、そんな獲物で?」

 ジヴァが声をかける。

「充分だ」

 ル−ジングは答えた。

 同時に二人は交錯した。

 剣撃が鳴り響き、一方から鮮血が噴いた。

 ティントレットの顔が悲痛なものになる。

 二人が離れた。

「くっ‥‥‥」

「忠告はしましたよ」

 ジヴァはル−ジングをせせら笑った。

 レイピアをル−ジングの左腕を鮮やかかつ鋭利に切り裂いていた。

 しかも、小剣の怪我を負っていた位置と寸分の狂いもない同じ箇所を。

「本気で来てください、賢者。あなたの力は噂で聞いている」

 ジヴァはレイピアの刀身から血を指ですくうと、それをペロリと舐める。

「いいだろう」

 ル−ジングはサ−ベルを放り捨てると、続いてマントを外した。

 ついでに剣帯にも手をかける。

 カシャリという音をたて、サ−ベルの鞘と片刃の短剣は剣帯ごと地面へ落ちた。

「捨てたはずの賢者の名だ、代価は安くないぞ」

 ゆらりと見えて、ル−ジングは迅速に動いた。

 一瞬、姿がかき消え、ジヴァの背後に現われる。

「さすが‥‥‥こうでなくては」

 驚嘆の声をあげるジヴァ。

 羽飾りのついた長い銀の針は彼の左手を貫いていた。

「まだまだだ、これからが本当の‥‥‥」

 首を小さく左右に振りながら、ル−ジングは告げた。

「賢者だ」

「上等!!」

 叫びをあげ、ジヴァは無数とも思える突きを繰り出す。

 しかし、突きは霞むル−ジングの残像を貫くのみ。

「ちっ‥‥‥」

 ジヴァは背後から飛ぶ十本近い針を見事に弾き飛ばすと、ル−ジングとの距離を跳躍してつめた。

 レイピアが一閃する。

 刃はル−ジングを捕え、脇腹を薙いでいた。

 苦痛に耐えながら、ル−ジングは背後にさがり、ジヴァも間合いをとった。

 しばし、静寂が続く。

「……なんて凄い」

 ティントレットは二人に気圧されながら、その戦いを見守っていた。

「そろそろ、終わりにしましょう」

 ジヴァが静寂を破る。

「ああ、いいだろう」

 言葉を返すル−ジングの手に、羽飾りのついた長い銀の針が再び握られた。

「行きますよ!」

 かけ声とともにジヴァが疾走した。

「こいつで‥‥‥終わりだ!」

 ル−ジングの手が閃く。

 陽光を跳ね返しつつ、幾十もの銀光がジヴァに迫った。

「無駄!」

 ジヴァのレイピアが飛来する針を弾き落としていく。

 だが‥‥‥。

「うぐっ‥‥‥」

 呻きとともに、ジヴァは地面へ膝をついた。

 その体には、羽飾りのついた長く黒い針が無数に突き刺さっている。

「針の影だと思ったのが、黒い針とは‥‥‥さすがは賢者」

 ジヴァはレイピアにもたれるようにして満足げに、自分を倒した男を見る。

 針は的確に急所を貫き、顔には死の影が現われていた。

「滅多に使わぬ切り札だ」

 荒い息をつくル−ジングの額にはびっしりと汗が浮かんでいた。

 その言葉を誉め言葉とったのか、ジヴァは無邪気に微笑し、口を開く。

「追手は私で最後です。最後に、あなたとやれて本望ですよ」 

 憧れのような眼差しをル−ジングに向けたまま、ジヴァはこときれる。

 かつては同じ立場だった者を哀れむかのような目でル−ジングがジヴァの亡骸を凝視するのをティ

 ントレットは、黙って見つめていた。

 

「虐殺者までもが‥‥‥」

 暗殺者の監視者から報告を受けた伯爵は 呆然としながら、ささやいた。 

「まさに失態ですね、伯爵」

 その声は部屋の隅から響いた。

 それは、いかにして保身するかを考えようとしていた伯爵を脅かすには充分だった。

 驚きながら、振り返る伯爵の目に一匹の蜘蛛が目に入る。

 さらに、伯爵を驚かせたのは、それがたちまち蜘蛛より人へと変化し、それが見覚えのある暗殺者

 だったことだ。

「イ、イライザ‥‥‥」

 恐怖におののきながら、伯爵は現われた者の名を呼ぶ。

「先日、お伝えしたこと、覚えていらっしゃいますか」

 イライザは冷たい笑みを浮かべたまま、優雅な足取りで伯爵に近づいていく。

「な……なに、もう、ワシを殺し来たのか?」

「ええ、組合の鉄則は絶対、そして迅速にというやつですわ」

 笑みを崩さず、腰にある短剣を抜いた。

「ま、待ってくれ。まだ、アジュ−トにもワシの手下がいる」

「いえ、もう、遅いですわ」

 言葉とともに、イライザは短剣で伯爵の首筋を切り裂く。

 伯爵の血が勢いよく噴き出て、イライザの赤毛を紅く鮮やかに染めた。

 

 

 ル−ジングとティントレットは数日後、アジュ−トに到達していた。

「世話になったわね」

 街道衛士隊詰所の前で、ティントレットはル−ジングに右手を差し出した。

「また、いつか会いたいわ」

「生きていたらな」

 ル−ジングも右手を出し、優しく握った。

「じゃあな」

 少しの後、ル−ジングは手を離すと、背を向けて、去っていく。

「賢者、いえ、ル−ジング、暗殺者としての性から離れられること私は期待しているわ」

 ポツリと洩らした後、ティントレットは街道衛士隊詰所へと入っていった。

 

 

「終わったのか?」

 血塗れのイライザにチェルクは尋ねる。

「ええ」

 皮肉っぽく答え、イライザは話を続けた。

「偽の情報漏洩の責任を取って死んでもらったわ」

「後は偽情報による騎士警察、街道衛士隊の攪乱に成功すれば完璧か、まったく、こんな、計画をたて

 るとは恐い女だ」

「でも、そんな女を寵愛する、あなたは?」

 その声にチェルクは忍び笑いをあげ、それにつられてイライザも笑った。

END

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