駒込・染井 お墓ツアー
2010年4月
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JR駒込駅北口 |
JR山手線の駒込駅北口すぐそばには、染井吉野桜記念公園という小さな駅前公園があります。なぜ染井吉野桜を記念するのかと言うと、ここ駒込こそがソメイヨシノの発祥の地だからです。折しも四月に入ったばかりの今日、春爛漫。公園の桜も気持ちがいいほど見事に満開です! |
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染井吉野桜記念公園 |
かつてここ駒込の一部は染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べて一大園芸農園を形成していました。そして諸説はあるものの、ソメイヨシノは江戸時代にこの地の植木職人によって作出され、売り出されたと考えられています。 |
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ソメイヨシノ |
エドヒガンとオオシマザクラを交配させて誕生したと言われるソメイヨシノは、数ある桜の品種の中でも今や名実ともにナンバーワン。誕生して売り出された場所がこの染井村であった事から、その名前にソメイの文字が冠されたのでした。 |
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駅前の本郷通りを渡る |
しかしながら、今日のお目当ては桜ではありません・・・ お墓です。駒込界隈は寺町で、今は亡き著名人たちがたくさん眠っているんです。と言う訳で、著名人のお墓ツアースタート!
まずは駒込駅北口前の横断歩道で、駅前を走る本郷通りを渡りましょう。 |
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JR線に沿って進む |
通りの向こう側へ渡ったらJR山手線の線路を左手下方に見ながら、そのまま真っすぐ山手線沿いを進みます。 |
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突き当りを右折 |
間もなく突き当る通りは染井通り。この突き当りを右折して染井通りに入りましょう。
染井通りは駒込のメインストリート。街をほぼ東西に横断する、全長およそ1km程の小さな通りです。今日はまず、この染井通りの終点となる都営染井霊園を目指します。 |
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染井通り |
江戸時代には、通りの南側(写真左側)一帯は伊勢津藩藤堂家の広大な下屋敷が控え、そして通りの北側(写真右側)一帯には、記述の様に多くの植木屋が軒を並べた一大農園が広がっていました。幕末に2度来日した事がある英国人植物学者のロバート・フォーチュンは、自身の著書に染井村の事をこう記しています。「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。」
しかし残念ながら、今となっては当時の面影は全く残っていません。 |
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小さな自然公園でひと休み |
染井通りの右側に、入口の門が目を引く小さな公園を発見。ちょっとひと休みして行きましょう。 |
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小さいながらも自然がいっぱい |
広さ50~60坪くらいの小さな公園ですが、敷地内には自然がいっぱい。田畑や井戸や小川もあって癒されます。入口の掲示板に掲げられた案内に依ると、地元有志のボランティアで運営されているらしい。 |
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オタマジャクシもたくさん |
澄んだ水がきれいな小川には、たくさんのオタマジャクシが泳いでいました。ザリガニ釣りもできるとか。 |
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染井通りを外れて右へ |
染井通りを400m程歩いてきました。このまま通りを進んで行けば、間もなく正面にはお目当ての染井霊園が見えてくるのですが、ここでちょっと寄り道です。通りから右へ分かれる道に入りましょう。目印は小さな横断歩道と、通りの右側にある住宅の、ブロック塀に埋め込まれた古い道標。 |
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塀に埋め込まれた道標 |
これがその道標。見掛けはかなり古そうですが、確かな事は不明。何らかの理由で移動できなかった為に、道標をそのまま残してブロック塀を築いたという感じです。 |
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藤堂家下屋敷の門 |
染井通りを外れて100m程歩いて来ると、立派な切り妻屋根の腕木門が右側に見えてきます。案内板に依るとこの門は、近くにあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したものだとか。 |
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公園は桜満開? |
大名屋敷の門をくぐるとその向こうは、満開の桜が咲き乱れる公園になっています。この写真のどこに桜が咲き乱れてるのかって? スイマセン・・・ 咲き乱れた桜を背にして撮影したので、咲き乱れているところは写ってまセン・・・(苦笑) |
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公園内に蔵がありました |
そもそもこの公園の土地は、ここ染井村で明治後期まで大きな植木屋を営んでいた旧家が所有していたもの。公園内に残されている蔵も、昭和11年にその旧家が建てたものです。
という事で、この公園の名前は門と蔵のある広場と言うんだそうです。 |
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小学校の校門前を左折 |
藤堂家の門を過ぎてそのまま進むと、右手に駒込小学校が見えてきます。校門前を左折。 |
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桜のアーチ |
目の前に飛び込んでくるのはソメイヨシノのアーチ。さすが元祖・本家本元! 街全体が桜の園です。 |
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西福寺 |
桜のアーチの中を歩いて行くと、右手に現れた寺は西福寺。ではそろそろこの辺で、今日最初のお墓見物と行きましょう。江戸随一の種苗商伊藤家の四代目、伊藤政武の墓です。 |
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伊藤伊兵衛政武の墓 |
西福寺内にある案内板によると、津藩藤堂家下屋敷に植木職として勤めていた染井村の伊藤家は代々伊兵衛を名乗りましたが、特に四代目の伊藤伊兵衛政武(1676~1757)は将軍徳川吉宗のお抱えとなり、江戸城内の植木の管理をも任されていたほどの著名な植木師でした。 |
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ここにも桜の公園が |
西福寺を後にして先へと歩いて行くと又またありました、桜満開の公園。その名も染井よしの桜の里公園です。公園沿いを道なりに進み、左へ大きくカーブしましょう。 |
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前方の通りは染井通り |
前方に十字路が見えて来ました。目の前を横切る通りは染井通り。ちょっと寄り道しましたが、右折して再び染井通りに入りましょう。 |
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東京スイミングセンター |
少し歩いた先の左手には名門スイミングクラブの東京スイミングセンターがあります。あの北島康介や中村礼子などのオリンピック代表選手を始め、数多くの優秀な水泳選手を輩出しています。 |
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天理教東京教務支庁 |
東京スイミングセンターの向かい側にある和風の建物は天理教の施設ですが、この敷地内には意外な建物が移築されています。戦前に首相を務めた近衛文麿の荻窪にあった私邸の一部がそれで、近衛と当時の天理教の代表者が親しかった事からこの地に移されたのでした。 |
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荻外荘(てきがいそう) |
荻外荘と呼ばれたこの邸宅内では国の行方が決まる重要な会議が、開戦直前に度々行われました。現在、一般への公開はされていない為、なるべく建物に近寄らず施設の門の外から望遠でこの写真を撮影したので、荻外荘の一部しか写せなかったのが残念。 (追記参照) |
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十二地蔵 |
その先染井通り沿いの右側、染井霊園入口のすぐ手前で、12体のお地蔵さまが彫られた石碑を見つけました。古めかしい感じで、ちょっと曰くありげです。 |
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炎の図柄 |
石碑の上部に炎とみられる図柄が彫り込まれている事から、江戸時代にあった大火の犠牲者を供養するために建立したものではないかと考えられています。 |
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染井霊園入口と染井通り |
いよいよ今日の目的地、都営染井霊園に到着。そしてここまで歩いて来た染井通りは、更に霊園内を貫きます。 |
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染井霊園 花吹雪広場 |
ソメイヨシノザクラの故郷に作られたこの染井霊園には沢山の著名人が眠っているほか、桜の名所でもあります。そして今、敷地2万坪余りの霊園内は満開のソメイヨシノで埋め尽くされています。
それではそろそろ本日のメインイベント、著名人のお墓ツアーを始めましょう。なお、霊園入口の案内板には著名人のお墓の場所が分かるように、一覧と地図が掲示されています。親切だぁ! |
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二葉亭四迷 (1864~1909) |
この長谷川辰之助さんは子供の頃よく父親から、こう怒られていました。「お前のような奴は早くくたばってしまえ!」「くたばってしめぇ」「ふたばていしめぇ」・・・。という事でこれがペンネームになった、小説家二葉亭四迷の墓でした。 |
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高村光太郎 (1883~1956) |
こちら「高村氏」と刻まれた墓には詩人高村光太郎と妻智恵子、父親で彫刻家の高村光雲が眠っています。 |
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岡倉天心 (1863~1913) |
この画像は、美術家岡倉天心の墓。右側の墓石に刻まれた墓碑銘は「永久の平和」。 |
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藤堂高潔 (1837~1889) |
巨大な墓石がありました。染井の地に下屋敷を構えていた津藩藤堂家第十二代最後の藩主、藤堂高潔の墓です。それにしても、さすがにお殿様の墓はでかいッ。 |
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水戸徳川家 |
こちらは御三家、水戸徳川家の墓所です。霊園内の見晴らしの良い一画を陣取って、たくさんのお墓が並んでいます。 |
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若槻禮次郎 (1866~1949) |
戦前に2度内閣総理大臣を務めた、若槻禮次郎の墓です。権力の頂点に立った人物の墓にしては意外に質素、素朴です。 |
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幣原喜重郎 (1872~1951) |
若槻禮次郎の第2次内閣で外相を務め、戦後首相も務めた幣原喜重郎。左側の墓に眠る妻は、あの三菱財閥岩崎彌太郎の令嬢です。因みにこの写真背後に写っている石塀の向こうには、父親である岩崎彌太郎が眠っています。 |
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岩崎家墓所との境界 |
この石塀の向こう側に岩崎彌太郎の墓があるのですが、そこは染井霊園の敷地ではなく個人のプライベートな墓所のために、一般の立ち入りは出来ません。 |
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岩崎家墓所の門 |
ちょっとワープして飛んできました。これが岩崎家墓所の正門です。が、しかし、ご覧のように門は常にかたく閉ざされています。実は、この写真は別の機会に撮影したもので、実際には染井霊園内からこちらの墓所正門側に廻るには、敷地が隣接しているとは言え少しだけ時間が掛ります。 |
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岩崎家分家の墓 |
再び染井霊園内に目を向けましょう。こちらの墓は岩崎彌太郎の養子となった岩崎豊彌夫妻の墓。という事で、岩崎家の分家の墓はこちらにありました。 |
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霊園内の染井通り |
ところで、今日ずっと歩いて来た染井通りは、霊園の中を貫いてまだ続いていました。 |
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染井霊園出口と慈眼寺の門 |
そしてここが染井通りの終点となる、染井霊園の出口です。霊園を出てそのまま、正面突き当りに見える石門を抜けると慈眼寺になりますが、ここにも著名人が眠っているのでちょっと入ってみましょう。 |
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芥川龍之介 (1892~1927) |
左側の座布団のような形をした墓は、小説家の芥川龍之介の墓。そして右側には俳優で演出家の長男芥川比呂志をはじめ、芥川家の人々が眠っています。 |
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谷崎潤一郎 (1886~1965) |
芥川龍之介の墓のすぐ近くには、小説家としての活動期間の長さの違いはあるものの、同時代の小説家で共に東京の中央区(現)で生まれ、それぞれ三中、一中という名門の旧制府立中学を経て、お互いに一高から帝大へと進んだ谷崎潤一郎の墓もあります。写真奥が谷崎家の墓、手前の墓が谷崎潤一郎自身の墓。因みに彼の墓は京都にもあります。 |
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司馬江漢 (1747~1818) |
司馬江漢は、江戸時代でありながら既に西洋風の様式を作品に取り入れていた画家、そして蘭学者。墓石に刻まれた墓標によると、文化7年(1810年)に建立された事になっているので、どうも生前に建てられたものらしい。 |
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慈眼寺の門を出たら右へ |
そろそろこの辺で慈眼寺を後にして、次の寺へと移りましょう。寺の石門のところへ戻り、正面に染井通りと染井霊園を置いて右へ。 |
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墓地に挟まれた道を進む |
右は慈眼寺の墓地、左は染井霊園に挟まれた狭い道を、そのまま進んで行きましょう。 |
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十字路を右折 |
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本妙寺に入る |
150m程先の右側に見えて来た寺は本妙寺です。1572年創建のこの寺、元は本郷丸山町にあったものが、明治43年にこの地へ移転されました。 |
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本妙寺本堂 |
1657年、死者10万人余りとも言われる明暦の大火いわゆる「振袖火事」が発生し、江戸中が焼き尽くされてしまうのですが、この未曽有の大惨事の火元が本郷丸山町のこの寺であったとされ、これがポピュラーな説となっています。 |
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明暦の大火供養塔 |
今となっては確かな事は分りません。しかし大火の火元となった筈の寺がお取り潰しにならず現在まで残っている事自体非常に不自然であることは確かで、江戸幕府の当時の思惑からこの本妙寺に罪をかぶせたとの説もあって、とてもミステリアスです。 |
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遠山左衛門尉景元 (1793~1855) |
おう おう おうっ とぼけるのもたいがいにしろよぉ、この遠山桜を見忘れたたぁ言わせねーぜぇ。
ご存じ名奉行、遠山の金さんの墓でした。 |
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千葉周作 (1793~1856) |
遠山の金さんと同時代の江戸末期を生きた剣豪、北辰一刀流創始者の千葉周作もこの本妙寺に眠っています。 |
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正面は国道17号線 |
この界隈にはまだまだ沢山の著名人が眠っているのですが、もうキリがありません。残りはまた別の機会にという事で、今日のゴールへ。
本妙寺を背にして真っすぐに歩いて来ると国道17号線の広い通りに突き当ります。ここは左折。 |
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国道沿いに歩く |
そのまま国道沿いに進みましょう。国道を隔てた向こう側に見えている瓦屋根の建物は高岩寺、巣鴨のとげぬき地蔵です。 |
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JR巣鴨駅 |
国道沿いを歩くことおよそ600m。ゴールのJR巣鴨駅が見えて来ました。 |
記事中の荻外荘は、元の場所である荻窪の地、東京都杉並区荻窪の荻外荘公園内へ2019年に再移築されたため、現在、染井通り沿いの天理教東京教務支庁の敷地内には存在しません。(2020年11月追記) |
★交通 |
JR山手線駒込駅北口 下車 |
★歩行距離 |
約3.5km |
周辺地図
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