浅草観音・浅草寺
文化財ツアー

2011年7月






 
増長天(二天門) 
 二天門の増長天(17世紀後半造立)

 東京都内でいちばん歴史の古い寺院と言われる、西暦628年起源の浅草寺(せんそうじ)。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど頻繁に火災に見舞われ、更に大震災や戦災など数々の災難に遭いながらも、江戸東京の下町にあるこの寺には驚くほど数多くの貴重な仏像や建物、遺構が残されています。





持国天(二天門)
二天門の持国天(17世紀後半造立)

 そしてこれらの文化財を眺めながら境内を歩くだけで、あっという間に1日が過ぎてしまいます。そんな訳で、今日はこの浅草寺境内に的を絞って、隅々まで歩いて廻ることにしました。

 それじゃぁ早速、浅草寺文化財ツアーに出発!





地下鉄浅草駅 G19番出口
 地下鉄浅草駅 G19番出口

 浅草寺へのアクセスは様々ですが、今日は地下鉄東京メトロ銀座線の浅草駅で降車、G19番の出口に出て来ました。





雷門
 雷門

 地下鉄の出口からは、浅草寺はもう目と鼻の先。地上に出るとすぐに、寺の総門であるお馴染み雷門が目の前に現れます。





雷門の大提灯
 雷門の大提灯

 元々の雷門は942年の建立。そして現在の門は、松下電器産業(現 パナソニック)の創設者松下幸之助が、昭和35年に寄進したもの。門の中央に掲げられた大提灯には、「松下電器」の文字がしっかり入っていました。





仲見世商店街
 仲見世商店街

 雷門を抜けるとその先には、寺の表参道である仲見世商店街が続きます。この3月の東日本大震災以来、めっきり減っていた外国人観光客の姿も、この頃はまた多く見かけるようになりました。嬉しい事です。





宝蔵門
 宝蔵門

 浅草寺の山門、宝蔵門が正面に見えて来ました。現在のものはコンクリート製で昭和39年に建てられたもの。これはホテルニューオータニの創業者でもある昭和の時代の実業家、大谷米太郎の寄進によるものです。





本堂
 本堂

 宝蔵門の向こう側に控えるのは、昭和33年建立の本堂です。この本堂も宝蔵門も、どちらも大戦時の空襲で焼失した後に再建されたもの。因みに、平成22年に本堂を改装した折に葺き替えられた本堂の屋根瓦は、本邦初のオールチタン製。1枚100gと軽量の為、耐震性に優れます。





オールチタン製の屋根瓦
 オールチタン製の屋根瓦

 ところで浅草寺の宗旨は聖観音宗。だからこのお寺、浅草観音とも呼ばれて親しまれています。そして既述のようにその歴史は古く、都内でも最古刹と言われるほど。

 628年のある日、隅田川で漁をしていた檜前浜成・武成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟は、たまたま網にかかった人型の像を見つけます。この事を土地の知識人の土師中知(はじのなかとも)に話したところ観音菩薩像である事がわかり、これがきっかけで出家した中知は自宅を寺にしてこの観音像を祀るのでした。そしてこれが浅草寺の起源と伝えられています。





伝法院
 伝法院

 この伝法院は、寺の住職が住む本坊。境内の中心から少し外れた場所にあります。敷地内には、江戸時代初期に造られた廻遊式庭園がありますが、非公開。





鎮護堂
 鎮護堂

 防火、盗難除け、そして商売繁盛にご利益があるこの鎮護堂はまたの名を「おたぬきさま」と言うんですが・・・・





おたぬきさま
 おたぬきさま

 なるほど、なんか気になってはいたんですが。
 居ますねぇ、お堂の傍らに2匹のおたぬきさまが。

 元はと言えば明治の初め頃、浅草寺の境内に棲みついた狸が悪さをして困り果てていた事から、思案の末このお堂に祀った事が始まりなんだとか。





二天門
 二天門 (重文・国)

 1649年頃の建立とされるこの二天門は、浅草寺境内に現存する建築物の中でもとりわけ歴史の古い物の一つで、国の重要文化財に指定されています。





手水鉢
 手水鉢

 手水鉢とは、参拝の前に身を清めるための水を蓄える鉢の事。二天門の前に置かれているこの手水鉢の側面には、安永6年(1777年)に寄進された事が刻まれています。





浅草神社
 浅草神社 (重文・国)

 こちらは「三社様」としてお馴染みの浅草神社。あの三社祭の神社です。名前の由来はと言うと、浅草寺の創建に関わった土師中知と檜前浜成・武成兄弟の3人が祀られているから。重要文化財に指定されているこの社殿は1649年の建立で、徳川家光の再建によるものです。





旧仁王門礎石
 旧仁王門礎石

 1649年に建立された以前の山門(旧 仁王門)は、戦災のため昭和20年に焼失してしまいました。そしてその後、昭和39年の山門(現 宝蔵門)再建の時に掘り出されたのが、この旧仁王門礎石です。





地蔵菩薩と阿弥陀如来
 地蔵菩薩と阿弥陀如来

 仏像が三体並んでいました。中央に鎮座する地蔵菩薩像は1726年の建立で、左右の阿弥陀如来像はそれぞれ1677年と1672年の建立です。





二尊仏
 二尊仏

 こんどは大きな仏像が二体並んでいます。1687年建立の観音菩薩(右)勢至菩薩(左)。高さはどちらも2.36m、台座を含めると4.54mにもなります。





母子地蔵
 母子地蔵

 先の大戦の末期、旧ソ連軍参戦のために中国の旧満州で難民となって命を落とした多くの在留日本人母子への慰霊と、二度と戦争は繰り返さないという願いから、平成9年に建立されたこの母子地蔵。デザインを手掛けたのは、あの「あしたのジョー」を描いたマンガ家、ちばてつや氏です。





沙竭羅(さから)龍王像
 沙竭羅(さから)龍王像

 本堂前にあるお水舎の、手水鉢に乗っている龍神は、明治36年高村光雲作の沙竭羅龍王像





五重塔
 五重塔

 浅草寺にある現在の五重塔は昭和48年に再建されたもの。942年に最初の五重塔が建立されて以来幾度も倒壊又は焼失し、その度に再建されて来たのでした。





阿弥陀如来像
 阿弥陀如来像

 これは1693年の建立になる青銅製の阿弥陀如来像で、総高は7.5m。千人近い当時の信徒によって建立されたのだとか。下から見上げると、ちょっとした大仏様です。





宝篋印塔
 宝篋印塔

 こちらもやはり信徒およそ千人によって1761年に建立され、その後明治40年に改修再建された宝篋印塔。塔の内部には経典が納められています。





石橋
 石橋

 1618年造立のこの石橋は、現存するものでは東京都内最古のもの。





西仏板碑
 西仏板碑

 造立者の西仏という人物が、自らの妻子の後世安楽を祈念して14世紀頃に建てたと言われる板碑が、この西仏板碑ですが、詳細は不明。1742年、暴風雨によって倒壊・破損したため、1814年になって、ご覧の様な2本の柱で支えられたのでした。





金龍権現(左) ・ 九頭龍権現(右)
 金龍権現(左) ・ 九頭龍権現(右)

 ふたつ並んだ金龍権現九頭龍権現。この場所はパワースポットっていう事で、色々なところで取り上げられているのを見掛けるんですが・・・
 ホントかな

 この所ちょっと疲れ気味なんで、ここにしばらく立っててみよう。





一言不動尊
 一言不動尊

 願い事を一つだけお祈りすると必ず成就すると言われる、その名も一言不動。1725年建立。

 願い事は、欲張ってはいけません。飽くまで一つだけですヨ。





六地蔵石幢
 六地蔵石幢

 石塔の側面に六体のお地蔵さまが刻まれた六地蔵石幢。詳しい造立時期は不明ですが、室町時代頃の物と考えられています。





六角堂
 六角堂
 この六角堂は1618年に建立されたもので、浅草寺内では最も歴史の古い建造物です。





宝篋印塔
 宝篋印塔

 1775年建立になる、この仏塔の側面に彫られている文字は経文です。案内板によるとこれは、「写経して奉安し礼拝供養すれば、過去の悪行も消滅して成仏できる。」と言う意味の事が記されているらしい。





九代目市川団十郎像
 九代目市川団十郎 像

 明治の名優と謳われた九代目市川団十郎の銅像。最初のものは大正8年に作られたのですが、太平洋戦争中の金属類回収のために供出されてしまいました。昭和61年に復元されたこの銅像は、だから2代目。2代目の「九代目」と言う訳デス !#@&%$





淡島堂
 淡島堂

 この淡島堂では毎年2月8日に針供養会が行われます。多くの人たちが折れたり古くなった裁縫針を持参する他、近くの病院の看護師さんたちも、新品の注射針を持参して供養に来るんだそうです。





胎内くぐりの灯籠
 胎内くぐりの灯籠

 淡島堂境内にある胎内くぐりの灯籠。子供をこの灯籠下に通す事で夜泣きやひきつけなどの疳の虫を封じられると、江戸時代の頃から信じられて来ました。





天水桶
 天水桶

 こちらも淡島堂境内にある、1770年造立の天水桶。太平洋戦争中の昭和18年、浅草寺本尊の聖観音菩薩像をこの桶に納めて地中に埋め戦禍から守った、と言うエピソードも残っています。





新奥山
 新奥山

 江戸時代に、浅草寺本堂の北西部一帯は奥山と呼ばれて大道芸や見世物小屋、茶店などが並び、娯楽場として大いに賑わいました。現在、当時のエリアの一部は新奥山として整備され、ここに石碑や銅像などが集められています。ちょっと覗いてみましょう。





瓜生岩子像
 瓜生岩子像

 瓜生岩子(1829~1897)は幕末期に激動の会津藩領(現福島県)で生まれ育ち、その地で孤児や貧民の救済、会津戦争での負傷者の看護など、生涯を通じて社会福祉活動に尽力した女性。そしてこの銅像は没後4年経った明治34年、実業家の渋沢栄一を始めとした篤志家らによって建てられたものです。





熊遊の碑
 力石・熊遊の碑

 この熊遊(くまゆう)の碑は、境内で行われていた力くらべ大会で、熊次郎と言う男が明治7年に持ち上げた、およそ375kgもある巨石を石碑にしたもの。





芸能諸碑
 芸能諸碑

 かつて大道芸で賑わった奥山に因んでか、芸能に関わる石碑も並んでいます。手前から映画弁士塚喜劇人の碑のんきな父さんと永生の壁





三匠句碑
 三匠句碑

 1809年建立になるこの石碑には、江戸時代を生きた俳人3人の句が刻まれています。その中の一つに、次のような句が。

 花の雲 鐘は上野か 浅草か





弁天山の鐘楼
 弁天山の鐘楼

 芭蕉のこの句に出てくる「鐘」と言うのは上野の寛永寺の鐘と共に、ここ浅草寺の鐘を詠んだもの。

 という事で、新奥山をあとにして、早速それを見に行くことに。境内の東の端にある弁天山と呼ばれている小高い丘の上に、その鐘楼堂はありました。





時の鐘
 時の鐘

 江戸時代に、時刻を知らせる「時の鐘」として撞かれていたこの鐘楼の鐘は、1692年に改鋳されたものです。





久米平内堂
 久米平内堂

 昔むかし久米平内と言う侍がその臨終の時、多くの人を切り殺した償いとして自分の姿が刻まれた石を人々に踏み付けてもらう様に、浅草寺境内へ埋めさせました。その石は後にお堂へと納められ、それがこの久米平内堂の始まり。今では、「踏み付け」が「文付け(恋文・ラブレター)」へと変わり、恋愛の神様として崇拝される様になったのでした。





宝蔵門
 宝蔵門

 久米平内が自分の姿の刻まれた石を埋めたのは、仁王門(現 宝蔵門)の近くだったと伝えられています。そしてその宝蔵門まで戻って来ました。傍らに見えているのは東京スカイツリー

 境内をぐるりとひと回りした浅草寺文化財ツアーも、ここでめでたくお開きです。









★交通 東京メトロ銀座線 浅草駅下車



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