Decide
「あら、それリボン?」
 不意に声をかけられて、ティファは驚いて振り返った。
 視界内に、たくさんのカルテを腕に抱えた看護婦が、優しく微笑んでティファを見下ろしていた。
「ティファさんがつけるの? 意外ねぇ」
 言われて、ティファは自分がつらつらと見るともなく眺めていたリボンに眼をやった。
「あ……いえ、これは……」
 今はもう、つける主のないリボンを大切そうに握りしめ、ティファはかすかに笑った。
「このリボン、お守りなんです」
「お守り?」
 看護婦は眼をぱちくりとさせたが、すぐに元の笑顔に戻って肩をすくめた。
「まぁたしかに、ティファさんがつけそうもない感じよね。ピンクのリボンなんて」
「ええ、まあ」
 こういった乙女チックな物とは普段縁のないティファが苦笑して頷くと、看護婦は重そうなカルテを抱え直しながら、部屋から退室しかけて肩ごしにティファを振り返った。
「でも……そうね、そのお守りが効を奏して、彼が、戻ってきてくれたらいいわね」
 ノーリアクションになったティファをそのままに、看護婦はドアを閉めて出て行った。
 残されたティファは、ゆっくりと視線を正面に戻す。
 彼女の眼の前には、ベッドに半身を起こした状態のまま、微動だにしない存在があった。
 人形のように、壊れてしまった『彼』が。

 ずっと、不安はあったのだ。
 再会した時から、漠然とした不安を抱き続けて、必死で見ない振りをしていたのだ。
 それがはっきりとした危惧へと変わったのは、あの古代種の神殿でセフィロスに会った時だった。
 突然行動がおかしくなり、黒マテリアをセフィロスに手渡してしまったクラウド。
 混乱し、眼の前にいたエアリスをいきなり殴りはじめた彼を、ティファは信じられない思いで見ていた。
 ────クラウドは私の知るクラウドじゃないのかもしれない。
 ずっと押し殺していた思いがあふれ出して、ティファの心を重く染め上げ、息すらも忘れた。
 一瞬後、我に返りあわててエアリスを殴り続けるクラウドを無理矢理引き離して止めたが、意識を手放してしまった彼の横で、ティファも座り込んでしまわずにいられなかった。
 次から次へと恐ろしい予感がわき上がってきて、自分で自分に治癒魔法をかけているエアリスを気づかう余裕すらなかった。
「……ティファ、だいじょぶ?」
 静かにエアリスにたずねられて、ようやくエアリスの存在を思い出したくらい、ティファは混乱していた。
「エアリス……」
 言ったとたんに、涙が出た。
 自分でもこぼれた涙に驚きながら、ティファはがたがたと小刻みに震え出す身体を抱きしめた。
「エアリス、私……どうしよう……」
 クラウドは自分の知るクラウドではないのかもしれない。
 ────じゃあ、もし、本当にそうだったら?
 今彼に向かっている自分のこの想いはどうなるのだろう。
「どうしよう……このままじゃクラウドが壊れちゃう。わかっているのに」
 そしてその時、今ここにいるクラウドはどうなってしまうのだろう。
 どうしてこんな、わけのわからない事態になってしまったのだろう。
「わかっているのに何もできない……どうしていいか全然わかんないよ……!」
 鍵のひとつは、自分が握っているのだろうということは、ティファにもわかる。
 たった一言、言えばいいのだ。「あなたは5年前、ニブルヘイムにはいなかった」と。
 だが、その鍵を使ってしまった後、どうなってしまうのかがわからない。
 もしかしたら、永遠にクラウドを失ってしまうかもしれない。
 それを恐怖に感じるのが、自分の為なのか、クラウドの為なのかは、ティファ自身にもわからなかったのだが。
「…………わたしも、同じだよ」
 長い沈黙の後、エアリスがゆっくりと口を開いた。
 ティファが顔を上げると、エアリスはティファと視線を合わせて花のように笑った。
「どうすればいいか、正しい答なんて、わかんない。たくさん、たくさん、不安だよ」
「…………」
 何も言えず、ティファはただエアリスを見つめていた。
 優しい笑顔からは不安など微塵も見出せなかったが、ティファにはエアリスの言う『不安』が何であるか知っていた。
 エアリスはそんなティファに、ちょっと肩をすくめて苦笑してみせた。
「でも、仕方ないよね。だってわたしたち、ただの女だもん」
 あっさりと言い放たれた意外な言葉に、ティファは虚をつかれくるんと眼を見開いた。
 エアリスはかまわず言葉を続けた。
「わたしたちは、ただの女だから、迷ったり不安になって当然なんだよ。神様じゃないんだもん。
 でもそれで、いいんじゃないかな」
 その一言に、ティファはぼんやりとセフィロスのことを思った。
 人間ではなく、セトラでもなく、『神』になりたいと望んだ男のことを。
 しかし今、眼の前にいる最後のセトラである彼女は、神になることなど少しも望まないのだと、強い笑顔で言い切るのだ。
「わたしたち、無力な女でもできることはあるし、女にしかできないこともあるよ」
「……女にしか……?」
 エアリスは、頷いた。
「そう。女である自分にしかできないこと。
 女だけじゃなくて、人はみんな、自分にしかできない役割、持って生まれてくるの。
 わたしにはわたしにしかできないこと。
 ティファには、ティファにしかできないこと。
 きっとあるよ」
 まっすぐな強い眼差しがまぶしくて、ティファは思わずうつむいてしまっていた。
「……エアリス……」
 今の自分は、こんなふうに顔を上げていられない。
 自分の行動が正しいことだと、胸を張って言い切れない。
 クラウドを失いたくなくて、また孤独に取り残されてしまうのが悲しくて、鍵を封じて真実に背を向けた。
 自分の中の真実よりクラウドを信じたと言えば聞こえはいいが、結局は自分のエゴでしかないのだ。
 エアリスだって、知らないから今こうして自分に対して優しく微笑んでくれているのだ。
 ────私が5年前会ったソルジャーは……
 言ってあげたくて、でも言えなくて。
 好きな人がいなくなってしまう苦しみは、誰よりわかってあげられるのに。
 ────なんて卑怯で、わがままな私

「だめだよ、だって……私の今してることは、結局、私の、ただのわがままなんだもん」
「わがままじゃない女なんて、いないよ」
 くすっとエアリスは笑って、自分の胸に手をあて眼を伏せた。
「……きっと、わたしが選んだことも、考えたことも、しようとしてることも、すごくわがままなことだって、知ってる」
 そこで言葉を切って、しばらく何かを考え込むようにエアリスは沈黙していたが、やがて何かを吹っ切ったように顔を上げ、きっぱりとした口調で言った。
「でもね、わかったから。それが、わたしにできる、わたしにしかできないことだって」
 そして、顔を伏せたままのティファをのぞきこんで、甘えを許さない、強さをうながす優しい言葉で言ったのだった。
「きっと、ティファにも見つかるよ。ティファにできる、ティファにしか、できないことを……」
 それはティファ自身で見つけなさいと、言外に語るエアリスの意志を、ティファは感じ取っていた。

 それからエアリスはティファたちの前から姿を消し、その会話がティファと彼女との最後の会話になった。
 エアリスの言った“エアリスにしかできないこと”とは何なのか、彼女が古代種の神殿で何を見つけ、何を決意したのか、知る術はもうなかった。
 そして、そんなティファに追いうちをかけるように、クラウドが壊れたのだ。
 自ら存在を否定して姿を消し、次に会った時にはもう、彼の心はそこにはなかった。
 何も映さない瞳、うつろな表情。呟かれるのは意味のない言葉。
 展開される様々な状況は、ティファの望みとは正反対のベクトルを指していたけれど、それでもティファには、クラウドをあきらめきれなかった。
 自分の持つ鍵が彼を壊してしまったことを痛いほどに理解しながら、それでも彼の中にいる『クラウド』を信じたかったのだ。
「クラウドは……ここにいるよね?」
 反応のない、人形のようなクラウドにそっと囁きかける。
「あなたの中に……“クラウド”は、いるんでしょう?」
 そっと、血の気の少ない精悍な頬に指先を触れさせて、ティファは涙がこぼれないようにきゅっと唇を噛みしめた。
 あの日エアリスが言っていた、自分にできる自分にしかできないことを、ティファはまだ見つけ出せていない。
 だからずっと待っているのだ。7年前のあの夜から、ずっと。
「……おかしいね」
 懸命に涙をこらえながら、ティファはクラウドの顔をのぞきこんで切なく笑った。
「あなたと駅で再会してからも、私はずっとあなたを待っていたんだよ」
 たくさんの違和感を覚える一方で、かいま見えた自分の知るクラウドの存在。
 ────再会した時、先にティファの名前を呼んだクラウド。
 ────七番街が崩壊した時、怒りに震えていたクラウド。
 ────そして、エアリスが死んだ時、涙も流せないほど哀しんでいたクラウド。
 そんなクラウドを知っているから、ティファはクラウドをあきらめられないのだ。
 だから、呼び続ける。彼の持つ、唯一の名前。
「……クラウド、帰ってきてね。私、泣かないで待ってるから」
 もう、自分に甘えて泣かないと決めたティファは、静かに眼を閉じクラウドの肩にそっと額を押し当てて、心の中で囁きかける。
 想いはきっと届くと、自分に言い聞かせて。

 ────本当は、ヒーローなんかじゃなくてもいいの
 ────あなたが、他でもないクラウドなら……
 ────本当は、それでいいのよ……