【 また似非宗教 】


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似非(えせ)とは、名詞につく接頭語。「似てはいるが本物ではない、見せ掛けだけの、」の意を表す。

この数日の報道によれば、宗教団体の牧師が信者の12歳の少女に対して婦女暴行を行ったという。
しかも、数年前から犯行は繰り返されていた。
被害者の関係者らしい人による「聖職者の立場にある人がそんなことをするなんて許せない。」というコメントがあったが、捉え方が間違っている。
宗教云々などではなく、「詐欺師が当初の目的の一つを遂げ、欲望の赴くままに乱暴をはたらいた。」ということなのだ。

宗教なのか詐欺なのか?。教祖なのか詐欺師なのか?。
似非宗教であることを見破るのはは難しいのかなぁ・・・。
まあ、浸ってしまうと無理だろうな。

季節柄、ある番組では、花見の宴会を取り上げていた。
私は以前から「酔いと宗教は似たところがある。」と考えているのだが、それを見ていて、やはりなんか宗教に似ていると思った。
断っておくが、酔いと宗教が似ているとは、悪い意味で言っているのではない。

花見の宴会では、それぞれのグループが酔っている。
理性を残して酔っている個人やグループは、他人から見ても良い宗教に例えられる。

しかし、酒に飲まれる人がいて、グループ全体が酒に飲まれている集団が出てくる。
酔っぱらいが、周囲の迷惑を省みずに集団で騒ぐ。
グループ同士のけんかが始まる。
一気飲みで急性アルコール中毒になり救急車を呼ぶ。
こういった集団は、中で酔っている人間にとっては居心地の良い場所なのかもしれないが、はた迷惑である。
しかもはた迷惑なだけでなく、個人へのダメージもある。
酔いがさめて冷静になってみれば喧嘩の傷の痛みに気づくし、急性アルコール中毒は命を落としかねないのだ。

今回のことに限らず、オウムの事件を始めとして、宗教がらみの事件が後を絶たない。
事件沙汰にはならないものの、同じようなことやもっとひどいことは他でもあるんだろうな・・・・。
ナゼなんだろう?。
第三者が見ていると「詐欺師に踊らされている集団」にしか見えないのだが、気の毒なことに、浸っている者にとってはそれでも信仰なんだろうか。
事件になるような似非宗教でなくても、無宗教の者から見ると疑問に感じることは少なくない。

「ナゼなんだろうと疑問を持つこと」を止めてしまうからなんじゃないかな?。
自分で悩まずに他人の上手い話に乗っかってしまうからなんじゃないかな?。
人生における疑問や不安なんてそう簡単に解決など出来ないのが当たり前なのに、どこかで「この世で一番素晴らしい解決策」などというものを見せられて信じ込む。
親しい人の死を経験したり、大きな不安に襲われた時などはそうなりがちなのかもしれない。

2004年10月23日、新潟県中越地震が起こった。
その後も2004年11月には「釧路沖地震(M7.1)」、12月には「根室半島南東沖地震(M7.0)」と「スマトラ沖地震(M9.0)」、2005年3月には「福岡県西方沖地震(M7.0)」と「スマトラ沖地震(M8.7)」が発生している。
中越地震からから4ヶ月以上経つが、当地区でもまだ時々揺れが起こる。
そういった状況にあると「この世の終わりが近づいているのかな・・」などという不安が頭をよぎることがある。

そうだ、私もこれで人の不安をあおって「Aべ教」を始めようかな。
「全ての財産をお布施して、Aべの名を唱えると、この世の終わりが来ても活き続けることができる」というものなのだが、どう?。(笑)
似非宗教の説明のためとはいえ、冗談が過ぎたようだ。

地震の不安、しかし見方を変えれば、地球が誕生してから今日まで火山活動と地震はその宿命というか、地球の成長そのものであろう。
アルプス・ヒマラヤ山脈を始め日本の山脈なども褶曲作用による隆起でできあがったといわれている。
今回の中越地震では私の家も被害を受けた。
大地震も、たまたまその時に生きた人間にとっては、人生を左右するほどの重要なことだが、地球にとっては日常のことなのだ。

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