【 「君君たり 臣臣たり」と「君君たらずとも 臣臣たれ」 】


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 論語には「君君たり、父父たり」という一文がある。その概要は次の通りである(鎌田正著「論語・孟子」)

 斉(さい)の景公(けいこう)、政を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、「君(きみ)君(きみ)たり、臣(しん)臣(しん)たり、父父たり、子子たり。」と・・・・
<通訳>
 斉の景公が政治の要道を孔子にお尋ねになると、孔子は、「君たる者は君としてなすべきことをやり、臣たる者は臣としてなすべきことをやり、父たる者は父としてなすべきことをやり、子たる者は子としてなすべきことををやるのがよい。」とお答えした・・・・

 家臣は主君に対して忠誠を尽くし、同時に主君も家臣に対して愛情と威厳を持つ。
 構成員それぞれが自らの立場でやるべきことをやるというのは、国を納める要道であるばかりか会社経営にも通じるものである。「君君たり臣臣たり」である会社は信頼関係に裏打ちされた素晴らしい会社であろう。

 一方、日本には論語の曲解とでも言うべき訓えとして、「君君たらずとも、臣臣たれ」という考え方が育ったという。家臣が主君のために一身をささげて尽くす滅私奉公が美徳とされた封建時代、そのことを訓えるためのには重宝な考え方であったろう。
 しかし現実問題としては「君君たらずとも、臣臣たれ」では国も会社も守れない。

 徳川家光は徳川幕府の将軍の中では、愚かな類に入るというが、父の秀忠はこれを憂慮し、取り巻きたちを厳選、彼らに『君、君たらずとも、臣、臣たれ』と諭したそうである。

 不幸にして君たらざる主君を奉ずることとなった時、その組織を守るためには家臣がしっかりしなければならないということは、心構えとしては良いだろう。
 その際大きな組織なら、補佐する人材に期待できるし、「組織」と「君」のウエイトを考えた時組織自体にウエイトがあるので、家光が取り巻きに支えられて、後世名君の仲間入りすることが出来たというケースも可能だろう。

 しかし、そうはいかないケースは多いだろう。
 その1は、組織の中に補佐するものがいない時だが、この場合は「君君たらざる 臣臣たらざる」ということになって、その組織は危うい。
 その2として、組織の中に補佐できる者がいる時だが、「その者が君に諫言(かんげん)しない場合」と「臣たるものに諌(いさ)められても、君が聞く耳を持たない場合」がある。もっとも、この場合、諫言も臣たる行動だとすれば「諫言しない臣は臣たらざる」ことになるから、結果的にその1に入ってしまうが、いずれのケースでもどんでん返しが起きない限りその組織に明日は無いのである。

 「君君たらずとも 臣臣たれ」が成り立つのは君が臣の諫言と向き合うことで出来た場合のみある。この点で言えば、諌められて言うことを聞いた家光は偉かった。
 逆説的だが、君たらざる君は臣の諫言を聞く耳を持った時、君たるのかもしれない。そうすると結局は「君君たり 臣臣たり」なのであって、「君君たらずとも、臣臣たれ」ではやはり国も会社も守れないのである。

 
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