【 「米百俵の教え」といえば 】


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 小泉首相の「米百俵の教え」発言の後、新潟県長岡市ではその語句をつけた商品が売れているようである。

 酒と落雁には、ズバリ「米百俵」という商品があるし、「米百俵○×」といった商品も目にする。観光客がタイムリーなお土産として買い求め、当地の人がかの地への土産として携えていく。
 「これが今話題の「米百俵」ですよ。」と言えば、「おー!これがそうか!」と喜んでもらえるかもしれないし、「やはり、うまいねー」とか「話題ですからね」などと・・・話も弾むかもしれない。

 ところで、「米百俵の教えの話」と「『米百俵』という名前をつけた商品」には、たまたま米百俵という言葉が共通である以外に何か係わりがあるのだろうか?。もちろん、「米百俵の精神を偲んで」とかいう理由があるんだろうけど、それは一方的なものであって、「米百俵の教えの話」側からの係わりは何も無い。

 米百俵の教えの概要は次のようであった。

 北越戊辰戦争の結果落城し、窮乏のどん底に追い込まれた長岡藩に三根山藩から見舞いの米百俵が届いた時、その米を巡って、「これで学校を建てるのだ」と主張した藩の大参事小林虎三郎に対して 「食えないというのに、学校などとは何事だ」と餓えている藩士はつめ寄った。
 小林虎三郎は 「食えないからこそ学校を建てるのだ、皆に分けてしまえば一日か二日で食いつぶしてしまう。私はこの米で学校を建て人材を養成する。そうすれば百俵はいつの日か何万俵にもなって帰ってくる。国が興るも亡びるもことごとく人にある。今苦しくても明日の長岡を考えてほしい。」と藩士を説得し、建てられたのが「国漢学校」であった。
 小林虎三郎は文政十一年(1828)越後長岡藩士の家に生まれた。 学問が好きで二十二歳になると江戸に出て佐久間象山のもとで漢学、蘭学を学んだ。象山門下の英才として、吉田松陰(寅次郎)とともに「象門の二虎」と称せられたそうである。

 さて小林虎三郎や彼につめ寄った藩士は今売られている「米百俵」という名称の商品を手にしたのだろうか?。佐久間象山はどうだったのだろうか?。
 「米百俵の教えの話」があってから、その後それにあやかってつけられた「米百俵」という名の商品を米百俵に係わった時代の人が手にすることは難しい。(ただし、当時からあって彼らが手にした商品について、その後「米百俵」の名をつけたものは別である。)

 米百俵の教えや小林虎三郎を話題にするなら「ただ米百俵という名前をつけただけの商品」ではなく「小林虎三郎が食べたお菓子とか飲んだ酒」のほうが本質的であるような気がする。

 例えば「越之雪本舗大和屋」の「越乃雪」という菓子は、小林虎三郎がその師である佐久間象山への贈り物として使用していたそうである(詳しくは「越之雪本舗大和屋」のHPを参照されたい)。贈り物に使用したということは、当然本人も口にしたであろう。

 こんなふうに、「本人にまつわるものこそ、正に話題性があるというものではないだろうか?。」と思っている。

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