【 祖父・祖母の祥月命日 】



当時(昭和35年~昭和54年)我が家は祖父母(阿部秀吉・阿部フジ)、父母(阿部孝市・阿部ナカ)、妹と私の6人家族でした。
裕福ではなかったけれど、両親や祖父母のお陰で何不自由なく育ててもらいました・・・。

昨年11月には34年前に78歳で亡くなった祖母の、今年1月には39年前に75歳で亡くなった祖父の祥月命日がありました。

これまでは母親が仏前に供えものをしていましたが、入院中なので昨年11月と今年の1月は私が代役をしました。
本来そういう状況でなくても、また代役などと言わず、普段から進んで供養をするべきなのですが、それが出来ていない私は親不孝なだけでなくご先祖不孝なのです・・・。

祖父の名前は阿部秀吉、あの「ひでよし」ではなく「ひできち」です。
酒好きで煙草もキセルで吸っていましたが、60代半ばの頃に大病をして煙草は止めました。
でも酒は止められなかった。そうは言っても、以前はどれほど飲んでいたのか分かりませんが、病気後は1日1合位だったのではないかと思います。
それなので祖父の祥月命日には仏前に酒を供えました。


叔父さん(祖父母の子)たちの話を聞くと、叔父さんたちが子供の頃は酒癖も良くなかったらしく、怖い存在だったそうです。
良く話に出るのが「父親の箸は大きくて持つところが太いものだった。ご飯を食べている時に怒ると、箸を逆さまに持ち替えてその太いところで叩くんだよ。」という日常風景です。
ただ孫の私達には優しくて、昼寝をしている時に騒いだりすると「静かにしろ」などと叱られたくらいです。


雪が残る早春の頃、野山で遊んでいて「ふきのとう」を見つけて採って帰ると「ありがとう。初物は寿命が75日伸びる。」と喜んでいました。昔の人ですし、神仏を大切にしていたし、そういう縁起的なことを大事にしていました。
また「喉の具合がよくないからキャラメルを買って来てくれ。」とお使いを頼まれることがありました。煙草なんか吸うから咳も出るし喉の具合も悪いんだろうと思いながら買いに行くわけですが、思えば孫に食べさせようと思っていたのかもしれません。


祖父母に連れられて叔母さん(祖父母の娘さん)の家に行ったことがあります。
ちなみにその時は、急行・特急料金を節約するためなのか、上越線の普通列車で上野まで行きました。今なら新幹線を使って2時間半ほどですが、6時間くらいかかったんだと思います。
すぐにトイレに行けるようにということで、ボックスシートではなくトイレの隣の横掛けのシートに座って・・・。
どこ発だったのだろう、新潟なのか長岡なのか、上野行きの普通列車があったのですね。


その時に驚いたことが2つありました。
風邪だったのでしょうか理由は覚えていませんが、私が熱を出した。病院で診てもらって薬をもらって翌日には治ったのですが、「孫にこんな思いをさせてしまって、預かってきた親にも申し訳ない・・・。」と泣いたのでした。
またこれは笑うに笑えない話なのですが、朝食の時に便意を我慢していて結局ウンチを漏らしてしまった^^;)。
その際の理由は「婿さん(娘の旦那さん)がまだご飯を食べている時にトイレに立つのは失礼だと思って我慢していた。」とのことでしたが、余計に悲惨な状況になってしまったのでした・・・。
その時の年齢は60歳を過ぎていたと思いますから、涙腺も肛門の筋肉も弱くなっていたのかもしれません。
今想えば、優しくて良いじいちゃんでした。


祖母の名前は「阿部フジ」、孫には優しいだけの人だったと思います。
自分の分のクリスマスケーキをくれたり、正月の鮭の切り身をくれたり・・・。
「鮭の皮は美味しいから、ばあちゃんは皮のほうが好きなんだよ。ばあちゃんの鮭の身と、お前の鮭の皮を取り換えよう。」と言うのです。遠慮も何もなくそのようにしてもらったのでした。
また、インスタントラーメンを食べては「うんめぇのぉ~(美味いな~)」と・・・、それさえもご馳走だった・・・。

祖父母は一緒に畑仕事に精を出していました。
毎日二人で裏山の畑に通って、鍬を振るい草を取って、野菜作りをしていました。
私も少しだけ手伝わされました。
昔のことなので肥料には人糞を使っていたのですが、それを山の畑まで運ぶのです。
肥桶(栓ができるような構造のものです)に入れて一輪車に乗せ、ロープで結わえた状態になっていて、それを山まで押していくのですが、桶の中で波打ってバランスを取るのが大変だったり、夏の盛りなどは中でガスが発生して途中で栓が飛んだりして・・・。
ちなみに当時の一輪車には持ち手の所にブレーキレバーが付いていました。一輪車も重要な運搬具で、しかも沢山の荷物を載せているので下り坂ではブレーキが必要なのでした。
現在では考えられない、懐かしい情景です。

今や新潟土産の定番になっていて、スーパーでも日常的に売られている笹団子ですが、当時は各家庭で作っていました。
川井地区の「愛染様の祭り」の頃に作っていたように思います。
今でも自宅で作るという方もいらっしゃるでしょうが、当時は笹やスゲ(縛るための紐として使う)やヨモギの調達も家でやっていたし、もちろん小豆も自家栽培です。
笹団子作りは祖母が中心になってやっていました。
もちろん家族も手伝いますので、私も笹の包み方やスゲの結び方などは覚えたのですが、もうすっかり忘れてしまいました。
笹団子と一緒に三角ちまきも沢山作って、天井からぶら下げておいて、数日間に亘って食べるのです。笹には抗菌作用があるそうですから、そんな風にしていたんだと思います。夏場の餅は、やはり笹で包んでいたように思います。
売られている笹団子も色々と何度も食べましたが、ばあちゃんの笹団子より美味いものを食べたことがありません。

妹が生まれたこともあってだと思いますが、私は一時期祖父母と一緒に寝ていました。その時祖母が新聞の4コマ漫画を読んで聞かせてくれたのですが、マンガのセリフって僅かしか書いていないのに、けっこう長く話してくれたと感じていました。孫のために、ばあちゃんなりのお話を作っていてくれたんでしょうね。
布団に入って「寝るほど楽な世の中に起きて働くバカもある」が口癖だったように思います。
今以上に重労働だった昔、実感だったのではないでしょうか・・・。


上で紹介した写真は40年ほど前のものだと思いますが、これは50年ほど前の写真です。
「佐渡弥彦国定公園 弥彦観光ロープウェー」とありますから、叔父さん(サングラスをかけている)が車で弥彦に連れて行ってくれたのだと思います。
この時のことは覚えていませんので、写真を写したのが誰なのかは分かりません・・・。



下2枚も50年ほど前の写真です。
当時東京に住んでいた、(上にも書いた)娘夫婦を訪ねて行った時のものですが、ウンチ事件があった時なのかどうかは分かりません。
写っているのは祖父母と娘(堀口キヨ)の旦那(堀口正)さん、外孫(私にとっては従姉妹)で、写真を写したのは娘だと想像します・・・。
農作業の日々である祖父が縁遠いスーツを着ていますが、堀口正さんに頂いたものなんだろうと想像します。



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