大西と呼ばれた男―――眼鏡をかけた年の瀬20代前半の青年であろう。その眼には、類希なる『知』を秘めていることを示す、鋭い眼光が灯っていた―――が布団に寝ている男に微笑みながら言う。
何気ない会話を交わすこの二人が、今や世界進出を果たすほどの大重工業会社、神崎重工の中枢的存在などと、誰が信じられよう?
だが、それはまぎれも無い事実であった。
トゥリィと呼ばれた男は、現神崎重工開発部主任。見かけ上20代後半で、実際の年齢もそのくらいだ。
まさに神崎重工の中枢中の中枢と言うべき人物で、会社設立者神崎忠義の信任も自分の息子である重樹に匹敵するくらいに厚い。
大西と呼ばれた男は、現神崎重工開発部主任補佐。
トゥリィに比べれば役職としてはワンランク落ちるが、二人の間に数歳の年齢差があることを考慮すれば、その間に実力差があるとも思えない。
「そういう訳にもいかんだろ。新型ジェネレーターの排気処理機構のテストがまだすべて片付いてないのに、そうのうのうと寝てはいられないさ。今日だって、この程度の風邪で大事な定期点検を・・・」
「今回ばかりは自重して下さい。先輩は放っておくと際限無く無理をする人ですからね。たまには病気でもして休んで頂かないと。特殊防御機構の回路設計なんて、何徹でやってたんですか?」
大西の声には呆れが含まれていながらも、視線には敬意が宿っていた。
「あれか?そうだなぁ、一週間で二時間寝た記憶はないな。でも、それを言えばお前だってお互い様だろうが。防御フィールドジェネレーターのコンパクト化に没頭してた時、どのくらいの無茶をやったか忘れたとは言わせないぞ」
光武には、外敵からの攻撃を緩衝、中和する防御フィールドを発生させる機関がある。
このフィールドが展開している間は、光武の内部装甲に直接ダメージが行くことはなく、操縦者の安全は保証される。
常に張り続けていられれば、向かうところ敵なしと行けるのだが、フィールドを発生させるのに必要なジェネレーター機構も大きさがフィールドの強さに比例してしまうので、自然ある程度で抑制される。
それでもこの防御機構が果たす役割は大きく、この防御フィールドが無ければいくら光武とて、黒之巣会が次々と送り込んでくる魔操機兵に対してなす術も無く討たれてしまうであろう。
ちなみに、似たような汎用防御フィールド機構が魔操機兵にも施されている。
門外不出であるはずの、これらの特殊技術が何処から漏洩したのか、あるいは黒之巣会で魔操機兵を開発した者にそれだけの技術力があるのか、どちらにしろ真相は闇の中である。
「うく、それを言われると返す言葉が・・・い、いいですか、とにかく今は休んで下さいね!それじゃ、行ってきます!」
形勢不利を悟った大西は、語勢強く一気にまくし立てると踵を返して歩き出した。
「あははは、行ってこい行ってこい・・・おっとそうだ、真宮寺さんに粗相のないようにな!」
布団に伏せるトゥリィの視界の隅で、大西が『がくっ』と体を崩したのは言うまでもない・・・
「ここが帝国劇場か。さすがに誇らしげで威厳あるなぁ・・・」
銀座でひときわ威容を誇る洋式の建物を前にして、大西は感嘆のため息を混ぜながら呟いた。
あるいは、その呟きの真の意味は別なところにあったのかもしれない。
そう、このどうしようもない胸の高鳴りを少しでも抑えるための物だったのかも。
『ここに真宮寺さんがいるんだ・・・』
そう考えると、口から心臓が飛び出してくるほどの緊張を感じるのだ。
すぅ、はー。
大きく一呼吸。
気休め程度であるが、多少気持ちの高揚が落ち着いたところで玄関先の階段へ足を踏む出す大西。
歩数に比例して、脈拍数が増えていくのが自分でも分かる。
玄関の大扉の前に立った時には、既に心臓は早鐘のように小刻みに脈動を打っていた。
らしくないな。
自分でもそう思えるくらい、今の彼はガチガチに緊張しまくっていた。
『期待の新鋭』と呼ばれ、今や神崎重工開発部において飛ぶ鳥を落とす勢いである彼が、唯一人の少女と直に会えるかと思うだけで不覚にも己を見失いそうになっているのだ。
(ええぃ、ためらっててもしょうがない、どうにでもなれ、だ)
次の一歩が踏み出せないまま立ち止まっていた大西は、意を決して扉口をくぐる一歩を踏み出した。
休演日を選んできたので、広いロビーに人は見当たらない。
左手の奥の方にある売店で、髪をうなじで切り揃えたおかっぱ頭の少女が、甲斐甲斐しく作業に集中している光景が見られた。
「あれが売り子の椿ちゃん、かな?」
予め仕入れておいた、帝劇の人物知識と照らし合わせてみる。
帝劇に来たのは初めてだが、予備知識の仕入れは万端だった。
コツコツコツ。
軽い靴音を鳴らして売店へと足を向ける。
作業に熱中しているのか、売店との距離が無くなっても椿が気づく様子は無い。
「あのー、申し訳ないのですが、米田中将にお取り次ぎをお願いしたいのですが」
「はい?えーと、どちら様ですか?」
「サーミィ・トゥリィの代理、と言えば分かってもらえると伺っているのですが」
「あ、トゥリィさんの代理の方ですね。お話は伺ってます。ちょっと今係の者を呼びますので、お待ち下さいね」
「はい、宜しくお願いします」
椿はそう言って後ろを振り返ると、カウンタの後ろに設置されているボタンを押した。
事務室直通の来客報告ボタンだ。
椿自身がカウンターを離れるわけにはいかないので、大西のように案内が必要な来客がある時はこのボタンを通じて、事務室の由里やかすみを呼び出すようにしたのだ。
そして待つこと、2、3分。
奥の食堂の出入り口から、ぱたぱたと靴音を鳴らせてやってくる人物がいた。
長い髪を赤紫のリボンでまとめあげた、楚々とした雰囲気を持つ女性―――藤井かすみだ。
「すみません、どうもおまたせしました」
かすみの口から紡ぎ出される、涼やかな声。
神秘的とさえ噂される彼女の雰囲気に飲まれつつある大西の状態では、頬に薄紅が差したのもやむを得ないところだろう。
「い、いえ、こちらこそ、ご、ご迷惑をお掛けいたします」
返す返事も思わずどもる。
「仕事ですから、どうぞお気になさらないで下さい。米田長官から話は受けてますから、さっそく地下格納庫へご案内いたしますわ。私の後に付いてきて下さい、っと・・・」
そこまで言って、かすみはある事実に気づいた。
自分は大西の名前を知らない。
「あの、失礼ですが、お名前は?」
「お、大西です。大西隆之と申します。ほ、ほほ、本日はサーミィ・トゥリィの代理として、神崎重工から出向いてきました」
「大西さん、ですね。了解しました。では参りましょう、大西さん」
営業スマイルではあったが、かすみの微笑みを向けられた大西は内心にドキッっとしたものを覚えた。
心の乱れが、そのまま口調に出る。
それだけ彼は純情な青年だった。
幼き頃からひたすらに技術者を目指してきた彼にとって、妙齢の、それも麗しき女性の笑顔を真に受ける機会など殆どなかったのだ。
(こ、これが帝劇を訪れる男達の間で密かに人気の高い、事務員の藤井かすみさんの笑顔か)
正確といえば正確だが、帝劇の人間に関する知識の仕入先に若干の問題があるような気もするが、それは筆者の気の所為か。
静々と歩くかすみの後ろ姿を、どこか焦点の定まらない眼で見詰めながら追う大西。
緩やかに波を描きながら、穏やかにゆれる長い髪から、そこはとなく漂うさわかな香りが大西の心を揺さ振る。
24を過ぎてまともに女性の手を握ったことも無い彼にとっては、女性を間近に感じる機会は皆無だっただけに、舞い上がってしまうのも無理はない。
一歩歩くごとに、重要な工学知識が耳の穴から抜け出るような感じだった。
そんな彼が足元に気を配る余裕が無かったことを責めるのは、酷であろう。
そう、事故は突然やってきた。
床の微かな凹凸につまずいた大西は、ぐらりと身体のバランスを崩す。
「うわっとと」
不意の出来事に、素っ頓狂な声を出す。
「えっ!?」
何事かと出し抜けに振り向くかすみ。だが、大西にとってはそれが決定打となった。
期せずしてかすみとまともに目を合わせた大西は、決定的に身体のバランスを崩した。
・・・溺れるものは藁をも掴むというが、倒れる者は、とっさに何かにしがみ付こうとしてしまうのは仕方の無いことなのか。
そう、倒れる拍子に大西はとっさにかすみにしがみ付いてしまったのだ。
だが、倒れ込もうとする勢いはかすみにしがみ付こうとしても止まらなかった。
それどころか、かすみをも巻き込んで倒れることになってしまった。
いきなりしがみ付かれたかすみに非はないのだが。
全くの不幸な事故としか言いようが無かった。
「きゃっ!!」
「うわぁぁ!!」
ばたん。
縺れ込むようにして床に倒れ込む二人。
気が付くと状況は極限だった。
床に尻餅をつくかすみと前のめりで倒れた大西。で、二人がどうなったかというと。
床に座り込んだかすみの両足の太股の間に、大西が上体を埋め込んでいると言うとてつもなく危険な状態になっていた。
そして。
こういう状況において、誰かに発見されなかったと言う例は少ない。
大西の運は、その少ない例になれるほど強い物ではなかった。
とんとんとん。
すぐ側の、1階と2階を繋ぐ階段から下りてくる者の姿があったのだ。
長い黒髪を赤いリボンで束ねた袴姿の少女。
くりっとした、勝ち気そうで、それでいてとても澄んだ瞳を持つ、見るからにまっすぐそうな娘。
「か、かすみさん!?!?」
目の前の光景を見て、息を飲む少女。
そりゃそうだ。
この状況を見て、『もっとやれ!!』と煽る少女はおるまいて。
「え、あ、さ、ささ、さくらさん!?こ、これはね、えーと、あの、そのあの・・・」
すっかり取り乱すかすみ。
日ごろが淑女然としているだけに、さくらと呼ばれた少女が感じたギャップも大きい物であった。
だが、かすみよりもヒドイ状況な人物がいた。
大西だ。
「え?さくらさんって・・・・・・し、しし、ししん、しん、真宮寺さくらさん!?!?!?!?!?」
後に大西自身、これだけの大声が出せるのかと我を疑ったと言う。
それほどの大音量で叫ぶ大西。
驚きと狼狽が入り交じり、ショック状態さえ催させていた。
「え、ええ、私、真宮寺さくらですけど・・・」
さすがによそよそしさは隠せないさくら。
真宮寺さくら。
彼にとって憧れの君、永遠のスター。
初めて帝劇の舞台『愛ゆえに』を鑑賞した時に、新人でありながら主演に抜擢されたこの舞台で光り輝いていた彼女を見た時から、大西の心の中に常駐している女性。
その憧れの人に今、出会えたのだ。
ただし、状況は最低だが。
そして大西は確信した。
こんな時に真宮寺さんに引き合わせる運命の神様は、外道で意地が悪いのだ、と。
これ以上醜態は見せられないと、慌てて立ち上がる大西。
その足元は酔っ払っいの千鳥足のようで、危なっかしいことこの上ないがどうにか体を起こす。
続けてかすみも慌てて身体を起こして、どうにかその場を取り繕うとする二人。
「ど、どど、どうもはじめまして、じ、じ、自分、お、おお、大西隆之ともうします。ほ、ほほ、ほほん、本日は神崎重工のサーミィ・トゥリィの代理として、こ、ここ、こちらに参りました」
憧れの女性の前、しかも醜態をさらしたばかりとあって、大西の声にぎこちなさと言ったら、端から聞いていれば爆笑物であった。
神崎重工にいる彼の部下達が聞いたら、威厳形無しなのは疑いの余地が無い。
「あ、トゥリィさんの代理の方ですか。はじめまして、真宮寺さくらです。どうぞ、宜しくお願いしますね」
『トゥリィ』の一言で、さくらの警戒はほぼ完全に氷解した。
さくらもトゥリィの名前と人物は紅蘭から聞いたことがあるので知っていた。
紅蘭が言うには、光武の整備責任者たる彼女と肩を並べるほどの技術者だそうだ。
大神機の光武に搭載されている特殊防御機構は、彼の手によって作られたと言う話もあるくらいなのだ。
大西に対し、ぺこりと頭を下げるさくら。
その際につやつやとしたさくらの黒髪が、すぅっと宙を舞う様が彼の眼には眩しい。
実に情けない後日談になるのだが、大西本人はこの時の事を殆ど憶えていなかった。
かすみと倒れ込んだ時点で、どうやら彼の記憶回路はショートを起こしてしまったらしい。
彼の舞い上がりと緊張具合は、そこまで激しい物であった。
(うわぁうわぁ、ほ、ほほ、本物の真宮寺さんが、お、おお、俺に頭を下げてるぅ・・・ゆ、ゆゆ、夢じゃないだろうな・・・)
無意識のうちに、唇をぎょっとかみ締める大西。
痛い。かなり強く噛んだために、激痛がした。鉄の味すらする。
だが、その痛みが現実だということを認識させてくれた。
「こ、ここ、こちらこそ、よ、よよ、宜しくお願いします」
さくらにつられるようにして、慌てて頭を下げる大西。
もはや心ここにあらず、と言ったていたらくだ。
「どうもご丁寧に、有り難うございます。トゥリィさんの代理と言うことは、光武の定期点検ですか?」
屈託のない微笑みを浮かべながら、大西を見ながらさくら。
舞台上で迫真の演技で輝いている彼女も良いが、こうして何気ない日常に身を置くさくらの姿も年相応の可愛らしさがあった。
「え、ええ。トゥリィの方が急に風邪を引きまして急遽私が代理と言う事で参りました」
「そうだったんですか。光武の事、宜しくお願いしますね。あたし、舞台の稽古が有りますから、これで失礼します」
もう一度頭を下げてから、大西の脇をさくらが通り抜けていった。
その後ろ姿を名残惜しそうに見詰める大西だが、さくらに直に「宜しく」と言われた以上たとえそれが社交辞令であったとしても、気持ちを切り替えなければならなかった。
真宮寺さくらの一ファンから、光武の整備を預かる技術者へと。
表情にも、鋭い知の光が灯る。
「では、参りましょうか」
絶妙の間を置いて、かすみが大西に声をかけた。
「はい」
舞い上がりとは違う高揚感が大西の中に湧き起こる。
その足取りは、しっかりとしていた。
大帝国劇場の地下二階にある、地下格納庫。
ここは光武の整備場も兼ねていた。
(さすがに花やしき支部には劣るが、それでも凄い設備だな)
それが、その格納庫を目にした時の最初に大西が感じた事だ。
大がかりな運搬用クレーンから極細のスパナにいたるまでの様々な工具、各種測定器、何百何千と言う補充部品の数々。
辺り一面、何処を見てもあるのは自分にとっては見慣れた物ばかりだ。故に、より一層気持ちも引き締まる。
「おっ、きーはったな。お久しぶりやな、大西はん」
突如大西の後ろから快活な声がかかった。
特徴ある関西弁とこの声に、大西は以前面識があった。
「お久しぶりです、紅蘭さん」
後ろを振り向きながら、大西が言う。
「紅蘭さん、米田長官の言いつけでトゥリィさんの代理に来られたこちら、大西隆之さんをこちらにご案内して来ました」
生真面目なかすみは、紅蘭と大西が顔見知りだと分かりつつも自分の任務を忠実にこなす。
「ごくろうはん、かすみはん。ホントはウチが出迎えせなあかんところやったんだけど、前準備がいそがしゅーて。えろうすんまへん」
「構いませんわ。光武の整備は私たちに出来ない事ですけど、大西さんの案内だったら、私でも代って差し上げられるんですから」
「おかげはんで大西はんが来る前にどうにか前準備も終わりましたわ。ほんじゃ大西はん、さっそくやけど、作業を始めよか」
「ええ」
交わす言葉の調子は軽かったが、これから先は真剣勝負の世界だ。
二人の眼に灯る光は鋭かった。
光武の定期点検が始まった。
まずは動力炉のチェック。
一番肝要な箇所の一つなだけに、念の入り様も大きい物だった。
ちなみに今回の検査は月一の簡易検査のため、目視による点検だが、三月に一度ほど花やしき支部にてオーバーホールに近い状態まで光武を解体して、各種検知機を用いた厳密なチェックを行っている。
動力部の検査が済むと、今度は関節のジョイントの具合のチェックに入る。
関節部の油圧の状態、部品の摩耗。ここでも紅蘭や大西を始めとする点検スタッフの厳しい目がチェックを次々と行っていく。
いつ実践配備が必要になるか分からない光武なだけに、どんな整備不良も許されない。
大西の双肩には多大なプレッシャーがかかるが、その重圧感が何とも無く心地よい。
技術者の悲しい性といえようか。
全ての作業が滞りなく進み、全ての計測器の類のスイッチを切ると大西や紅蘭たちの表情にも安堵が浮かぶ。
「ふぅ、今回も何事も無く終わりましたなぁ」
「そうですね。いつも点検が終わるのにかかる時間はこのくらいですか?トゥリィ先輩ならもっと早く済ませられるとか?」
無意味だと分かっていても、自分とトゥリィを比べてしまう大西。
よき先輩であると同時に、いずれは追い越さなければいけない壁でもある人物だと大西は思っている。
「そうでもないで。トゥリィはんがやってもかかる時間はこんなもんやで。いや、むしろ初めての点検でこれだけ手早くやりはった大西はんの手際の良さが光ってたで、ホンマ」
その言葉が社交辞令でない事は、紅蘭の目を見れば分かる。
「そうですか、良かった。代理で来ておきながら先輩の顔を丸潰しにするような事になったら、どうしようかと内心不安が無い訳でもなかったんです」
気が抜けた所為か、大西の口調に何処と無く気弱なものがにじむ。
「何言うとりますんや、これだけ精緻な仕事ぶりを見せておきながら。さすがトゥリィはんが自分の代理を任せるだけの事はあるで。若いのにたいしたもんや」
「そ、そうでしょうか?」
「もっとしっかりしいや!そんなザマだと、さくらはんにも嫌われてしまうで!」
どっきぃん!
大西の内心にぐさりと楔が突き刺さる。
このまま六破星降魔陣を掛けられるくらい、深々と。
「え、ええ、あ、あの、その、あの・・・」
表情が真っ赤に染まる大西。
「うちがトゥリィはんからなーんも聞いてないんと思うてはりましたか?ちゃーんと知っとるんやで。大西はんがさくらはんにぞっこんなことくらい」
ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる紅蘭。
トゥ〜リィ〜先輩ぃ〜
内心で、怨嗟の叫びを上げる大西。
「アハハハハ、そう言う変に純なとこ、トゥリィはんにそっくりやな!あの御仁もすみれはんの事になると形無しなんやで」
「そうなんですよね、あのトゥリィ先輩も神崎さんの事になると、そりゃもう」
恥ずかしさを紛らわすために、造り笑いを浮かべる大西。
会社に戻ったら、すれみさんネタでトゥリィ先輩をイヂメようと心に固く誓う彼であった。
「後始末もすべて終わったようやな。ほな、食堂の方にでも行って、冷たいもんでも飲んでいきなはれ」
「お言葉に甘えます」
光武の点検で汗だくになっているだけに、冷たい飲み物が恋しかった。
「ふぅ、生き返りますねえ」
キンキンに冷えた麦茶を飲み干した大西が、実感のこもった声で言う。
「ホンマ、一仕事終えた後の一杯は格別ですなぁ」
幸せそうな表情の紅蘭。
「どや、もう一杯」
「あ、頂きます」
水滴がたっぷり付いたコップに麦茶を注ぐ紅蘭。
(麦茶を注いでくれるのが真宮寺さんだったら・・・)
紅蘭に申し訳ないと思いながらも、不謹慎な考えが大西の脳裏を過ぎる。
「あ、今ウチがさくらはんだったらって思いはったろ?」
ぎく。
どうやら、考えている事が顔に出てしまったらしい。
「え、あ、う、そんな事ないですよ、帝劇が誇る女優が一人、李紅蘭さんにお茶汲みの真似ごとまでをしてもらえて、光栄です」
「口のうまさはトゥリィはん仕込みやな。あの御人も、相当口が上手いからなぁ」
「いいえ、そんなつもりは決して。紅蘭さんのことはトゥリィ先輩から、伺ってますけど、世辞で誉めそやすような女性ではないですよ、決して」
「あははは、おおきに。ウチのような女のにそないなことゆうてくれはるのは、大西はんトゥリィはんと・・・大神はんくらいなもんやな」
冗談めかして微笑む紅蘭だったが、その表情にどこか寂しげなものも浮かぶ。
大神・・・その名前に大西の心にチクッと来る物があった。
帝國華撃団花組、現職隊長。
トゥリィの話では、花組の面々は彼に憧れ―――限りなく恋心に近い―――を抱いているとか。
紅蘭も、そして、さくらも。
そして訪れる、静かな沈黙。
「・・・やっぱり俺には無理なのかな・・・」
静けさを破ったのは、思わず本音をこぼす大西の呟きだった。
「最初から諦めてどうするんや。そんな様じゃ、さくらはんを振り向かせるのは無理やで」
少しキツイ眼で大西を睨む紅蘭。
「え、あたしがどうかしましたか?」
びくぅ!!
大西と紅蘭の全身がその声に反応して震えを刻む。
背後から聞こえた溌剌としたその声を、聞き間違える二人ではない。
「し、しし、真宮寺さん!?」
「さ、ささ、さくらはん!?」
そして、二人の声がシンクロする。
「何時からそこに!?」
慌てて後ろを振り向く大西と紅蘭。
「何時からって・・・ついさっきからですけど・・・舞台の稽古が終わったんで何か飲み物でも思って・・・」
二人にある種の迫力を感じたさくらの声が、幾分か細い物になる。
さくらの姿を認識した大西と紅蘭が、さくらへの返答を同時に検索開始したが、答えが出たのは紅蘭の方が早かった。
この瞬間から、大西の運命は決まった。
「なーに、光武の整備をしてて、さくらはんの機でちょっと気になる事があってな。あとで搭乗者同伴でチェックを行おうかっていっとたんや」
紅蘭の言葉にうろたえたのは大西だ。
(ちょ、ちょちょ、ちょっと待った!!!!)
無論、点検中にそんな必要性を感じた事はなかった。
簡易チェックではあったが、異常箇所は特に見受けられなかったからだ。
「搭乗者って、あたし?一体何をやるの、紅蘭?」
「なーに、ホントにちょっとしたチェックや。すぐ終わるさかい、気にせんといてや。な、大西はん」
紅蘭がそっと大西にウインクをして返す。
「え、あ、は、はい、すぐに済みます」
紅蘭につられて、大西が答える。
「ウチはこれから稽古をせなあかんから、チェック作業は大西はんに任せたで」
とん、と大西の肩を軽く叩く紅蘭。
(な、なな。なにぃ!?!?)
再び大西の心に動揺が走る。
同時に、紅蘭のハラが読めた。
自分とさくらを二人っきりにする機会を設けてくれたのだ。
(邪魔者はいなくなるさかい、うまくしいや、大西はん)
内心で優しく微笑む紅蘭だった。
コツコツコツ。
靴音だけが、静かに廊下に響く。
さくらと並んで歩いているものの、どんなことを話せばよいのか解答が出せるほど大西は冷静を保てなかった。
し、しし、真宮寺さんが、あの真宮寺さくらさんが俺と一緒に歩いてるぅぅぅ!!!
一歩一歩を刻む度に、緊張が高まる。高まり過ぎて、頭が爆発しそうなくらいだ。
一方で、さくらの方も若干の不安が表情に表れていた。
いきなりチェックをすると言われて、何がなんだかさっぱり分からないのだ。
「あのぉ、チェックって一体どんなことをするんですか?」
感情が直に出やすいさくらの声が、恐る恐る尋ねる。
「え、あ、い、いや、ほんとにチョットした事なんだ、ホントに」
実際のところはチョットどころか、全くチェックの必要なんか無いんだけど。
さくらを騙していると言う後ろめたさも手伝ってか、大西の声に狼狽がありありと見える。
まあ本当のところ、でっち上げればチェック事項が無い訳でもない。
操縦系の具合などは、実際に搭乗者本人に触ってもらわなければ分からない物もある。
その辺で適当にお茶を濁すつもりの大西。その後チョット話が出来れば良いのだからと自己弁護。
地下1階、2階と階段を下りて、格納庫に入る二人。
ライトが消え、ひっそりとした格納庫はどこか薄気味が悪い、出撃時とは趣の異なった雰囲気を醸していた。
本社で暗がりの工房を普段から見慣れている大西にとっては何気ない風景であったが、ライトで照らされ発進準備で賑わう格納庫しか見ていないさくらにとっては、不安を催させさえする。
「あ、明かりが点いていない格納庫って、何だかひっそりとしてますね」
謎のチェックの不安も手伝って、さくらの声に震えが見られる。
「すぐに明かりを点けますから。待ってて下さい」
入り口のドアの前にさくらを残すと、大西はすたすたと歩き出した。
格納庫のような作業場は自分にとってホームグラウンドだ。
気持ちも落ち着く。
あ、その落ち着きが彼に油断を誘った。
通風孔の蓋に気づかなかった大西は、その僅かな段差に足を引っかけててしまったのだ。
「うわぁ」
どた。
またやっちゃった。
これでコケたのは、今日は2回目だ。カッコ悪いったらありゃしない。
顔から火が出るほど恥ずかしさを感じる大西。
「どうしたんですか!?」
薄暗い出入り口に取り残された状態になっているさくらは、大西の奇声を聞いてさらに不安を募らせる。
居ても立ってもいられず、大西の声がした方へ走り出した。
「イタタ・・・」
転んだ際に打った膝をさする大西。
幸いスラックス越しなので、血が出ているという事はないだろう。
そして。
タタタタタ・・・
小走りで駆けてくる足音。
膝の痛みに気を取られていた大西は、その足音をさくらの物だと認識するのが遅れた。そう、遅れたのだ、認識が。
「あれ、し、真宮寺さん!?」
まさか、さくらが不安の余り自分を追いかけてくるとは思わなかった大西が驚いている間にも、さくらの足音は近づいてきていた。
そして。
「あ、そこ危ないっ!!」
「えっ!?」
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