第一章  中国通史1 夏/殷[商]

 

 私は、通史が書けるほど中国史に詳しくありません。そこで、一度は皆さんも読んでいるであろう、世界史の教科書を利用します。
「つまんなそう」と思った方、しばらくお待ちを。もちろん、教科書の文章全てをそのまま使うわけではありません。時代の流れを書くのに、教科書を使わせてもらうだけです。
 おもしろいエピソードや人物が、教科書ではわずか1行だったり掲載されていないことすらあります。そこで、私の知っている話を教科書の内容に取り入れてみようと思います。もし、教科書の内容に納得できないところがあったら、それを訂正するという大胆不敵な行為も行っていきたいと思います。
 使用する教科書は、実教出版の『世界史 四訂版』です(著作権、大丈夫なのでしょうか)。私が高校生(もしくは中学生)のときに使っていたものです。最新の世界史の教科書は知りませんが、びっくりするくらい内容が変わった、ということはないでしょう。仮にあったらどうしましょう。
 両手をあげて、白旗掲げ「降参!」と言うしかありません。

夏(か)  前2000?ー前1600ごろ

あったか、なかったか、調査中

[伝説によると、王朝の存在が伝えられているが、現在のところ確認されていない。](教科書の記述部分は[ ]でくくります)
 伝説、というのは、有名な司馬遷『史記』の記述によります。『史記』の記述を伝説扱いするとはなんたることでしょう。
 実在が確認されてないので書きようがありません。この王朝の実在を証明すること(私はあると思ってます。あの司馬遷が完全なウソを書くわけがないです)に、世界中の考古学者や歴史家が頑張っているということです。中学生の時、三国志の影響で中国史に多少興味のあった私は、将来の夢は夏王朝を見つけること、と考えていた短い期間がありました。

[夏王朝以前にも黄帝(こうてい)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)などのすぐれた天子がおり・・・。]
 三皇五帝の伝説、の時代のことです。神話時代、といっていいかもしれません。
 この時代に、文字ができ、婚姻の制度ができ、漁業ができ、牧畜ができ、音楽ができ、他にもいろいろなものが誕生した、といわれています。私が思うに、この中国の神話は、名君の下で人々が平和に暮らす話です。ギリシア神話などに比べて、おもしろみにはかけますが、素朴な古代中国人を思わせます。
 後に、天下を制したファーストエンペラー、秦王の、即ち始皇帝は「皇帝」の称号を作りますが、これは三「皇」五「帝」からとったものといわれています。教科書には、
[皇はひかりかがやく、帝とは天帝を意味する]
と、あります。なんとも大層な名称を考えたものです。

 

殷(いん)[商(しょう)]  前1600ごろー前11世紀ごろ 

発見! 発見! 最古の王朝

[最初の王朝は、殷墟の発掘と甲骨文字の解読によって知ることのできる殷(商)で・・・王は、祖先を神として崇拝し、その祭の儀式をつかさどった。殷墟から出土した青銅器は、この祭祀のために使われたと思われる。]
 ・・・これ以外、特に書くこともありません。
 というわけで、いきなりですが、夏の最後の王は桀(けつ)です。この人が暗君だったようで、家臣の湯(とう)という人に討伐されました。その湯が殷を起こしました。最近話題(もう下火ですか?)の『封神演義』の舞台は、この殷の末期です。殷の最後の王は、紂(ちゅう)王です。傾国の美女、妲己(だっき。『封神演義』では女狐でしたか)に溺れ、わがままの限りを尽くした暴君といわれています。滅亡した王朝の最後の君主は、たいてい悪く書かれます。次の王朝の人間が歴史を書くのですから、仕方のないところでしょうか。「夏の桀、殷の紂」というと暴君の見本のようにいわれますが、実際はどうだったのでしょう。もっとも、国を滅ぼしたのですから、名君ではなかったでしょうし、殷の時代は文字が残っていて、紂王はやはり暴君だったようです。しかし、その暴君ぶりはかなり大げさに書かれたようです。

 殷の別名は商です。といっても、正式名称が商のようです。殷が滅びた後、亡国の民となった人々は、流通の仕事を始めました。これが、今日まで使われる「商業」の由来だそうです。
 殷墟発見には、おもしろいエピソードがあります。偶然かどうかわかりませんが「商人」が一枚かんでいたのです。
 水野晴郎氏に「歴史ってホントにおもしろいですね」って言ってもらいたい!

 夏と殷(商)については、教科書の記述が少ないです。夏は、実在すら確認されていないのですから、当然といえば当然ですが。