第二章  中国通史2 周[西周]  

 

 中国史雑文演義で取り上げる話題は時代がバラバラですが、通史は時代順に中国史をたどっていきます。

周(しゅう)[西周(せいしゅう)]  前11世紀ごろー前770

神から、人へ

[族は、はじめ殷(いん)に服属していたが、前11世紀はじめに殷を滅ぼして周王朝をたて、鎬京(こうけい。いまの西安付近)に都をおいた。]
と、教科書はなんとも味気のない書き方をしています。ちなみに、三国志が好きな人には、西安というよりも、長安といった方がピンとくるでしょう。
 この王朝を建てたのが、後に武王と呼ばれる人です。名前は姫発(きはつ)です。彼を助けたのがあの太公望呂尚(りょしょう)です。太公望を見いだしたのは、武王の父である文王で名前は姫昌(きしょう)です。太公望が釣りをしていたとき、偶然それを見た文王が太公望と語り合い、すぐさま軍師として迎えたという有名な話があります。
 さて、文王とか武王とか、中国史を難しくする、いわゆる諡(おくりな)というものが出てきました。諡というものは、死後におくられる名前のことです。その人の人生を表す文字がおくられます。太公望を登用したり賢人を愛した姫昌は「文」王、殷を滅ぼし周王朝を築いた姫発は「武」王です。実にうまいですね。諡については、そのつど説明していきます。

 殷は神権政治でしたが、周は人間中心の政治を行いました。
 『論語』に「甚だしいかな、吾の衰えたるや。久しいかな、吾復(また)夢に周公を見ざること」という記述があります。衰えてしまってもう周公の夢を長い間見てないよ、という孔子の言葉です。孔子は、ちょくちょく夢に見るほどこの周公という人を尊敬していたのですが、この周公は名を姫旦(きたん)といい、周公旦と呼ばれる人です。武王の弟で、一応、800年近く続いた周王朝の人間中心の政治の基礎を築いた人です。
 さて、「一応、800年近く続いた」という記述をおかしいと思われた方がいるかもしれません。前11世紀に興って前770年に滅んだのでは計算が合いません。ですから、私は「一応」という言葉を使いました。

[前8世紀はじめ、鎬京が他民族の攻撃を受けたため、周は都を洛邑(らくゆう。今の洛陽)に移した。これ以後を東周とよび、以前の西周と区別する。]
 首都を捨てて、東の洛陽に逃げてしまったんですね。中国史雑文演義をお読みになった方は、どこかで聞いたような話だ、と思われる方がいるかもしれません。そうです、第二回に登場した幽王が、このときの王です。ああいう経過があって周は東遷を余儀なくされたのです。
 東遷して、東周と呼ばれるようになった後は、政治的実権を失いました。周の王室は、各地の諸侯から崇拝されはしましたが、ただ象徴的な存在にすぎなくなりました。日本史でいえば室町幕府の末期のような状態でしょうか(日本史を詳しく知らないので自信ありません)。

 殷の人は毎日大酒を喰らってましたが、周の人は祭祀のときのみ酒を飲みました。周の国民がそれを喜んでいたかどうかは知りませんが。どうも、殷は派手、周は地味、という印象があります。しかしそれは、言い換えれば、殷は華美、周は実直とも言えそうです。

 私の好きな小説に『銀河英雄伝説』というものがあります。その小説に「滅びるときに滅びそこねたものは、国も人もみじめなものだ」というようなセリフ(もちろんラインハルトです)がありまして、強烈に私の胸に残っているのですが、この言葉は、東周にも当てはまるような気がします。
 もっとも、これは亡国の憂き目など知りもしない私の勝手な言い分なのでしょうが。