第三章  中国通史3 春秋時代[東周]

 

 いよいよおもしろい時代がやって来ました。中国史雑文演義で、現在(第七回)まで取り上げているのはほとんど、この時代の話です。

春秋(しゅんじゅう)時代[東周]  前770−前403頃

覇者、中国を駆ける

[東周は、春秋時代と戦国時代にわかれる。]
 前章で、周(西周)が異民族に攻められ首都を東の洛陽に移したといいました。このときをもって、春秋時代がはじまります。春秋時代の次にやって来るのが戦国時代ですが、この時代については、次章です。

[春秋時代初期には、周の王室はいちおう尊重されていたが、諸侯がしだいにみずからの領域を固めて独立国のようになった。]
 いちおう尊重、という記述に滅びそこねた国の悲哀を感じて、ちょっとしんみりしてしまいました。なかなか教科書もやりますね。私は、こういう、感慨を呼ぶ文章、好きです。
 この諸侯の争いが春秋という時代です。
 たくさんの国があって、たくさんの支配者(彼らは、王とは名乗りません。王は、周(東周)の王一人だけです。いちおう尊重、されてましたから)がいて、たくさん戦うわけです。この時代は、非常におもしろいエピソードがたくさんあります。

[有力諸侯は覇者として諸侯閧フ同盟を主催し、尊王攘夷(周王を尊び異民族から周を守る)を唱えながら、その支配勢力をひろげた。] 
 諸侯で特に有名なのが、春秋の五覇と呼ばれる人たちです。ただ、この5人が誰か、というのは諸説あります。候補は8、9人いるのですが、全員の名を挙げるのも面倒くさいので、誰もが五覇と数える二人を紹介します。
 時代順に行きまして、一人は斉(せい)の国の桓公(かんこう)です。管仲(かんちゅう)という名宰相を登用した人です。この管仲は、昔、事情があったとはいえ、桓公に矢を射て殺そうとしたのです。それを許して、信用し重い地位につけたのです。桓公にはちょっと傲慢なところがあったのですが、管仲のおかげもあって名君たりえました。
 もう一人は、晋(しん)の国の文公(ぶんこう)です。本名は、重耳(ちょうじ)という一度聞いたら忘れられない名前です。この人は、晋王の公子だったのですが、お家騒動に巻き込まれて国を脱出し、20年近く放浪した末に、晋の支配者となりました。この放浪の旅の最中、いろいろなことが起こりまして非常におもしろいです。私が思うに、ロールプレイングゲームの主人公にピッタリです。貴種流離譚ものです。「幻想重耳伝」なんて、どこかで聞いたようなタイトルはどうでしょうかね。
 話がそれました。

[有力諸侯たちは・・・中央集権策をすすめた。しかし弱小国は、他の諸侯に滅ぼされたり、有力な卿(けい)・大夫(たいふ)たちに位をうばわれたりした。] 
 卿や大夫というのは、簡単にいえば有力な家臣(貴族)です。家臣に国を奪われる──下克上です。先ほどの桓公の国、斉も前375年(これは、次の戦国時代ですが)有力家臣に国を乗っ取られました。国名は同じですが、支配者の家系は変わったのです。
 なんか、日本の戦国時代そのまま、という感じです。次の(中国史の)戦国時代より、この春秋時代の方が、日本の戦国時代に似ているかもしれません。

「春秋に義戦なし」という言い方があるそうです。春秋時代は戦いの連続でした。確かに義戦なし、だったのかもしれません。ですが、それだけではないように私には思われます。
 覇者は、私たちがその言葉に対して持つイメージと違って、いたずらに武力を誇示したりはしませんでした。中国の秩序を保つために、条約を締結する会議の議長を務めたりしたのです。ですから覇者は、、ある国が、その条約が守らなかったり、いきなり他国に攻め入ったりすると救援の軍隊を出しました。そこで、相手の弱みにつけこんだりせず、敵を追い払うと軍を引きました。
 その裏には、策略があったかもしれません(他国に領土を広げられると困る、とか)。謝礼としてお金が動いたかもしれません。けれども、その救助行為は、たとえ偽りであったとしても「義」ではないでしょうか。私は、そう思います。

 なぜ、春秋時代と呼ぶのかというと、この時代に生きた孔子が編纂した(事実かどうかはわかりません)とされる『春秋』という書物がありまして、それから取ったのです。この書は、孔子が生まれた魯(ろ)の国の歴史を記した本です。
 覇者が議長となって開いた会議で、条約を遵守するという誓約は、牛の耳を切りそこから流れる血を飲んで行いました。そこから、牛耳る、という言葉が生まれました。春秋時代は、今でも使われる故事成語の宝庫でもあるのです。