第四章  中国通史4 戦国時代[東周]

 

 戦国の世だったのですから、多くの人が死んでいってたのは分かってます。分かってはいますが、熱くなってしまいます。歴史を残してくれた人たちに、感謝と一緒にすべきことは、せめて私たちの時代で戦争がないようにすることかもしれません。

戦国時代[東周]  前403頃ー前221

野望、縦横に走る七国志

[東周は、春秋時代と戦国時代にわかれる。]
 春秋時代から戦国時代への移り変わりの時期は、諸説あるようです。ですから、前403年頃、となるわけです。一般的には、という国(前章で出てきた文公重耳の国)が、有力家臣によって、三つの国──趙(ちょう)魏(ぎ)韓(かん)──に分裂したときが戦国時代の始まりとされます。晋は、文公という名君も出て、とても強い国でした。春秋という時代のすさまじさを物語る出来事です。
 ちなみに、この魏は、三国志に出てくる魏とは違います。もっと後の時代には、北魏に東魏、西魏なんてのも出てきて、ややこしいですね。

[前5世紀末には、斉(せい)楚(そ)秦(しん)、韓、魏、趙、燕(えん)の、いわゆる戦国の七雄をはじめとする諸国があい争う状況がつくりだされ、周王朝の権威は完全に失われた。]
 春秋時代は、多くの諸侯は王と名乗りませんでした。桓公とか文公とかでした。「公」というのは爵位です。公爵とか伯爵とか、ちょっと前まで日本でも使われてましたね。公、という爵位を周王朝からもらっていた、というわけだったんです。ところが、この時代になると、
[戦国諸侯(君主)は王を自称]
と、なります。まさしく、周王朝の権威は、完全に失墜したのです。それでも、周(東周)は当分保ちえましたから、あってもなくても変わらない無害者扱いされたのでしょう。ここに、私は東周の滅びそこねた悲哀を感じるのです。

[春秋・戦国時代には、中央集権化をすすめる君主らに、その政治のありかたを提言する多くの思想家があらわれた。]
 この思想家とは、諸子百家と呼ばれる人たちのことです。諸侯がドンパチやってる中を、諸子百家は自分の才能のみを頼りに、中国を回りました。彼らは、自分の産まれた国にこだわりません。自分の才能をわかってくれる君主を求めて、歩き続けたのです。忠誠心を捧げるに足る君主を捜したのです。君主も、器量がシビアに試される時代でした。
 諸子百家には「矛盾」の語源になった(最強の矛と盾が戦ったらどうなるのか、というあれ)話の載った書物を書いた韓非(かんぴ)なんて人もいました。春秋時代の人ですが、孔子もそうですね。

[戦国君主の外交策を論じた縦横家。]
 戦国の七雄とありましたが、その中でも秦が圧倒的に強かったのです。その理由は、次章で述べます。
「縦」の外交は、秦以外の六国が同盟を結んで秦に対抗しよう、というもの。「横」の外交は、それぞれの国が秦と和睦して仲良くしよう、というものです。
 秦は西方の国です。中国大陸に縦線を引くと、秦以外の国が全て結ばれるのです。それで「縦」なのかな、と私は思ってます。そして、中国大陸に横線を引けば全ての国が結ばれます。それで「横」と勝手に納得してます。
 一言で戦国時代を語るとしたら、西の強国・秦と他の国々が戦って、結局秦に滅ぼされた、ということになります。秦が全土を統一して、戦国時代は終わります。 

「春秋の五覇」に対抗したわけではないでしょうが、この時代には「戦国の四君」と呼ばれる四人の有名人がいます。彼らはもちろん、各国の王、家臣、諸子百家と、いろいろな人が登場して、おもしろい時代です。戦争で大きく揺れた時代だからこそ、人間は輝きを放って生きられたのかもしれません。別に、戦争を賛美するつもりはありませんが。
 古代の戦争というと、私は馬に乗った騎兵を真っ先に思い浮かべますが、この直接馬に乗って戦う方法を取り入れたのは趙の国の王でした。それまでは、馬に車をつなげた戦車で戦うのが普通でした。この時代は、文武ともに、後の中国に大きく影響を及ぼしたのです。戦国時代は、現代から、2500年近く前の時代です。