第五章  中国通史5 秦

 

 満を持して登場、という感じです。秦の統一は、度量衡や文字、貨幣の統一をももたらしました。これによって「中国は一つだ」という想いが、人々に刻まれました。

  前221ー前206

一瞬の輝き、永遠の残光

[戦国時代の諸国は抗争をくりかえしたのち、前221年、秦(しん)によって統一された。]
 という国が、いつから存在したかはわかっていません。西方の辺境国が、どうして中国を統一できたのでしょうか。言うまでもなく、他国よりも強い国を作り上げたからです。

[前4世紀なかば、秦の考公(こうこう)に仕えた商鞅(しょうおう)の変法・・・これによって秦は一躍強国に発展した。]
 商鞅は、富国強兵の政治術を説きました。教科書では「法家」なんて書かれてます。要するに、法律によって国民を統治しようという考え方です。この時の中国は王の徳によって国民を治めるという政治でしたから、合理的な政策を提言したのです。
 この商鞅という人、秦に仕える前、の国に仕官しようとしました。これは失敗しましたが、その時、魏国のある家臣が「商鞅を用いないのなら、殺してしまいなさい」と王に言ったほどスゴイ人です。商鞅を他国にやっては、後々、自分の国が脅威にさらされることを予知していたのです。

[秦王の政(せい)はみずから皇帝と称し、始皇帝(しこうてい)と呼ばれた。]
 呼ばれた・・・。この人の性格からして、呼ばせた、といった方が正しいような気もします。
 始皇帝は、確かに英雄でしたが、彼一人の力で統一がなったわけではありません。前述したように、秦は、始皇帝の前から強かったのです。

[医学・占い・農業以外の書物を焼き、とくに儒家を弾圧した。]
 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)というヤツです。占いの本は燃やさなかった、というところに時代背景が出てて笑えます。儒家は、文字通り生き埋めにされてしまいました。なんで、こんなことをやったのでしょうか。
 焚書坑儒をやりましょう、と言い出したのは、丞相という政務を担当する地位にいた李斯(りし)です。秦は、法律によって国を治める政策を続けています。ところが、儒家は、法治主義に反する徳治主義を唱えます。「徳のある王なら命令などなくても国は治まるし、徳のない王なら、いくら命令しても民は受け入れない」と言います。これは、徳のない王の命令は聞かなくてもいいという、一種の革命思想に思えます。儒学は、礼と形式だけの学問ではないのです。
 丞相たる李斯としては、こんな危険な思想を唱えるヤツらに勝手なことを言わせておくわけにはいきません。というわけで、言論弾圧をしたのです。殺すことによって。
 書物を焼いたのはもう一つ意味があったのでは、と私は思います。国民を無知にするためだったのではないでしょうか。専制国家において、政治にケチをつけられない無知な国民ほど統治しやすいものはありませんから・・・。皆さん、選挙に行きましょう。

[中央から官僚を派遣して統治した。]
 一般に群県制と呼ばれる制度です。秦の中国統一後、遠隔地の統治は、のように各地に王として皇族を封じる封建制でいこう、と言う人が多かったのですが、李斯が強硬に反対しました。
 なぜでしょうか。筋道を立てて考えてみましょう。周の政治(封建制)の基を築いた人は、周公旦(しゅうこうたん)という人です。孔子は、この周公旦を尊敬してました。孔子の弟子たる儒家も当然、周公旦、ひいては周の政治を良しとします。
 儒家を穴埋めにしてしまう李斯が反対したのは当然です。結局、李斯の意見が入れられました。始皇帝の性格からして、権力が分散する封建制よりも、皇帝に権力が集中する群県制を好んだことでしょう。

[対外的には、匈奴を攻め、以後の侵入をふせぐため万里の長城を修築し、また南方では北部ベトナムまで領域をひろげた。]
 注目したいのは、修築、ということです。戦国時代、諸侯は自国の国境に城壁を築きました。秦の統一後、この城壁は通行のジャマということで壊されましたが、北方の城壁だけは異民族の侵入防止のため残し、それらをつなぎ、補強して万里の長城となしたのです。私は、一から全部始皇帝が作らせたのだと思ってました。
 修築のために、多くの人(30万人とか)が苦しんで作業しました。ですが、この長城修築が無意味なものだったと、私は思いません。何もないのと、防壁があるのとでは異民族の攻撃に対する不安感は大きく減少したはずです。また、侵入してくる異民族に与える精神的な圧迫感も違ったでしょうしね。作業員の方々に、拍手を送りたいです。

[始皇帝の改革・統治はあまりに急激できびしく、多くの人民の苦しみや旧諸侯一族の反発をまねいた。始皇帝の死後まもなく・・・各地に反乱がおこって秦は滅んだ。]
 反乱の口火を切ったのは、陳勝(ちんしょう)とその弟分の呉広(ごこう)です。陳勝・呉広の乱、とそのまんま呼ばれています。
 春秋、戦国と中国はずっと分裂していました。約500年もです。統一されたからといって、急に変われるわけがありません。それなのに、始皇帝は急激に変えてしまいました。それが、反発を生んだのです。

 王や皇帝が死んだ後に、その業績や行ったことに対する名を贈る諡(おくりな)の制度を、始皇帝は廃してしまいました。始皇帝からすれば「朕(皇帝の一人称)の業績を、家臣たるお前らが判断するなど厚かましいわ!」というところでしょうか。始皇帝は永遠の命を求めていたといいますから、死後という考えが気にくわなかったのかもしれませんね。
 それでも、自分の後は二世皇帝、三世皇帝、四世・・・と行って、万世皇帝まで続くことを望んだとか。秦王朝が今でも続いているとしましょう。10年に1人の皇帝が立ったとしても、まだ220世くらいです。歴史を重んじる中国人らしい、壮大な考えです。
 秦は、二世皇帝で滅亡しました(三世目は、皇帝ではなく秦王と名乗りました)。

 英語で、中国はChina、チャイナです。秦は、Chinと発音しました。というわけで、チャイナは秦王朝から来ているのです。昔、日本は中国のことをシナと言ってました(今でもこう呼ぶ人がいますが)。これも秦から来ています。
 皇帝という称号。そして「中国は一つ」という想い。
 わずか15年しか続かなかった王朝が、今でも生きているのです。