第六章  中国通史6 漢楚争覇時代

 

 漢(劉邦)と楚(項羽)が天下を争ったこの時期を、時代といっていいのかわかりませんが、一応時代と呼ばさせてもらいます。この時代のことは、よく「楚漢争覇戦」なんて呼ばれます。最終的には負けた楚が、勝った漢より前に来るのは、日本人の判官贔屓でしょうか。
 そんなわけで、あえて「漢楚争覇時代」としてみました。

漢楚争覇時代  前206−前202

項羽VS劉邦たち

[秦(しん)の滅亡後いちじ混乱がつづき、やがて平民出身の劉邦(りゅうほう)楚(そ)の名族出身の項羽(こうう)が天下を争って対抗したが、劉邦が項羽をやぶり、前202年、長安(いまの西安付近)に都して漢王朝をたてた。]
 ・・・中国史において、人気の高い時代の記述がわずかにこれだけ、ということに度肝をぬかれます。なんとかならんもんでしょうかね。

 秦は、あっさりと滅亡しました。
 戦国時代には、七つの強国がありましたが、当然ながらそれぞれの国が、自分たちの政治を行ってました。それを、始皇帝は全国で秦の政治を行いました。反感が生まれるのが人情という者です。また、滅ぼされた国の生き残りの人々は、秦の強引な政治によって「昔の自分たちの国は良かったな」という愛国心に目覚めてもいたのです。
 始皇帝という怖い人が生きてる間は、みんな何も言えませんでしたが、始皇帝が死んでしまったら、不満が爆発です。最初に爆発したのが陳勝(ちんしょう)という人でした。字(あざな)は渉(しょう)といいます。ですから、陳渉と呼ばれることもあります。発音は同じですけど。
[王侯いずくんぞ種あらんや]
「王侯といった偉い人間だって、同じ人間じゃないか! ならば、俺たちが王侯になってもなんらおかしくはない!」
という、陳勝の言葉が教科書に載ってます。雇われ百姓だった陳勝にこんなかっこいいセリフが考えられたかちょっと疑問ですが、とにかく陳勝は反乱ののろしをあげました。
 秦の法律はとても厳しかったのです。それは、国民を統率しやすくするため、罪人を出にくくするためでした。しかし、厳しかったがために、刑罰怖さからの反乱を誘発しやすい、という逆効果をも生んだのです。

 陳勝は快進撃を続け、とうとう王になりました。ですが、この時代の農民ですから学がありません。しかも、彼の所にやって来たインテリの言葉も聞きません。軍の統率はめちゃくちゃです。いい例があります。
 陳勝は、武臣(ぶしん)という部下に昔の国があった地域の攻略を命じます。武臣は、それに成功すると、勝手に趙王を名乗ってしまいました。その趙王となった武臣は、韓広(かんこう)という部下に昔の国があった地域の攻略を命じました。それに成功した韓広は、武臣に断りもなく勝手に燕王と称してしまいました。
 かくのごときです。農民が王になったばかりでなく、農民の部下、さらにその部下まで王になったのです。まさに日本の戦国時代と同じ下克上の世。マムシの斉藤道三もびっくりでしょう。
 そんな陳勝軍は、やがて崩壊します。当然の結果です。
 ここまでは、秦の付け足しでしたね。いよいよ、項羽と劉邦です。

 と言いながら、項羽と劉邦の時代は、おもしろい話だらけなので、とてもまとめられそうにありません。概略だけ紹介することにします。
 項梁(こうりょう。項羽の叔父)は、国の王族の生き残りを王にたてました。義帝(ぎてい)と呼ばれます。この項梁、やがて秦との戦いで戦死します。後を継いだのが項羽です。項羽は、反乱軍の総大将となって、秦の都、咸陽(かんよう)を落とすべく出陣しました。
 項羽の出発後、別ルートで咸陽に向かう者がありました。劉邦です。劉邦は、項羽軍の一部将にすぎませんでしたが、劉邦の方が先に咸陽を占領してしまったのです。義帝が「咸陽に一番乗りした者に、咸陽を与える」と約束していたので劉邦は大喜びです。なんといっても、咸陽は、始皇帝の残した財宝やら後宮の美女やらでいっぱいです。
 遅れて項羽がやってきました。項羽は悔しくてたまりません。咸陽を奪おうとします。劉邦は抵抗しようとしますが冷静に考えると「項羽に勝てるわけがない」と悟ります。項羽は戦争の天才なのです。項羽に平謝りして、辺境の土地に逃げました。
 やがて、項羽は自分の思い通りに動かない義帝を殺してしまいます。それを知った劉邦は、項羽の主君殺しを名分に、辺境から出陣しました。こてんぱんにやられます。やられすぎて、実の子どもを見捨てようとすらしました(雑文演義第五回)。その後も、戦うたびに負けます。しかし、背水の陣で有名な韓信(かんしん)といった、劉邦の仲間が各地で項羽軍と戦い、項羽の勢力を削っていきます。
 劉邦と項羽の戦いなら間違いなく項羽の勝ちですが、劉邦には人材が豊富にいて、項羽にはいませんでした。項羽は、降参した20万人の兵士を皆殺しにするなど、怖いことを実行していて、人が近寄ってこなかったようです。中国はたった一人で戦うには広すぎます。項羽のいない戦場では、項羽軍は敗北を続けます。
 負け続けた劉邦が、とうとう項羽を破りました。
 しかも、とどめの一撃は、項羽との約束を破って奇襲をかけるという念の入れようです。
 項羽を倒した劉邦は、天下を統一し、漢(かん)王朝を建てるのです。

 項羽は、このとき二十代後半。楚の重臣の家に生まれ、なに不自由することなく育った金持ちのぼっちゃんです。対する劉邦は五十代。農家に生まれ、苦労ばかり背負って生きてきました。世間知らず苦労知らずの若者と、世間の荒波を知るじいちゃんの戦いだったのです。
 項羽は、金持ちのぼんぼんですから我慢を知りません。気に入らない人間は問答無用で殺してしまいます。劉邦もわがままではありましたが、彼は信頼する人間の忠告は素直に聞くことができました。
「わしは、有能な人材をうまく使った。しかし、項羽は人を使えなかった。それが勝因だな」
とは、劉邦のお言葉。
 劉邦を勝利に導いた名将韓信は、最初は、項羽の部下でした。