1 モーリス・グリーンと私(原題、アキレスと亀)

 モーリス・グリーン(アキレス)と私(亀)が100メートル走をすると、モーリスは私を抜くことができない。というパラドックスです。ただし条件が一つ。私がモーリスより10メートルほど手前からスタートするというものです。
 実際に競走すると、あっさり抜かれます。当然の結果です。私はまだ4年後のアテネに向け始動したばかりですから。今は勝てません。ですが、「ゼノンのパラドックス」では抜けないことになるのです。パラドックスとは簡単に言えば、矛盾です。モーリスが私を抜けない、というのは矛盾ですね。ゼノンはその矛盾を論理的に説明するのです。

 モーリスが私を追い抜くには、まず私に追いつかなくてはなりません。
 私は10メートル手前を走ってますから、まずモーリスは10メートル走ります。10メートル走るのに2秒かかりました。その頃(2秒後)私は5メートル先を走っていました。私は止まっていたわけではありませんから、少しは進んでいます。
 10メートル走ったモーリスは、私を抜くために、次は5メートル先を目指して走ります。1秒で5メートル走りました。その1秒で私だって2メートル進んでいます。
 なかなか私に追いつけないモーリスは、今度は2メートル先にいる私に追いつこうと走ります。2メートル走りました。0.2秒で走りました。その0.2秒で私も0.5メートル進みました。かなり両者の差は縮まりましたが、まだモーリスは私を抜けません。
 モーリスは0.5メートル先を行く私を追いかけて・・・。

 紙に図を書いて整理するとわかりやすいです。
 こうやって考えていくと、モーリス・グリーンは永遠に私を抜けません。上のようなことをずっとやっていくと、0.000001メートル先を行く私に追いつくためにモーリスは0.000001メートル走った。それに0.000001秒かかった。その0.000001秒で私は0.00000001メートル進んだ・・・というふうに。
 時間にゼロはありません。大昔(神が世界を造る前)にはあったのかもしれませんが。では、その前には何があったのでしょうか。
 二つの物体の距離がゼロだったら、それは一つの物体です。物体の厚さがゼロだったら、それは存在しないものです。
 時間とか距離にゼロはありません。だからこそ、数字の「0」というのは偉大な発明だと私は思います。
 モーリス・グリーンと私の距離が限りなく近くなっても、ゼロにはなりません。つまり、私を追い抜くことはできないわけです、論理上は。


2 飛んでいる将門の首は止まっている(原題、飛んでいる矢は止まっている)

 平将門は京都で斬刑に処されました。その後、さらし首にされたのは将門が初めてということです。そのさらされた首が、故郷の下総(今の千葉県あたり)を目指して空を飛び、ゴール目前の東京あたりで力尽きて落ちてしまったそうです。生首が力尽きる、という言い方もどうかと思いますが。
「最初から力尽きてるんじゃ・・・」

 京都から千葉を目指して飛ぶには、まず、その中間点まで行かなくてはなりません。静岡あたりでしょうか。
 静岡まで行くには、京都と静岡の中間点まで行かなくてはなりません。名古屋あたりでしょうか。名古屋まで行くには、京都と名古屋の中間点まで行かなくてはなりません。鈴鹿あたりですかね。そして、鈴鹿まで行くには・・・。
 と、こういう理屈です。気取った言い方しますと「永遠の中点」
 上述したように、距離にゼロはありませんから、「将門の首はいつまで経っても京都を出発することができない」というのがゼノンのパラドックスです。
 ゼノンは、将門の力を見くびっていたようです。