ゼノン。この名前を聞いて真っ先に『ドラゴンフォース』を思いだしたあなたと私はサターン派。けれど今や私はPS派。PSと聞いて『テラファンタスティカ』を思い出した私の中でサターンは生きている。
まず、ゼノンという人について少し。前回登場したパルメニデスの恋人です。実にお似合いのカップルでした。アテネの街を仲良く散歩する二人を、私は何度か目撃しました。
普通のカップルと少しだけ違うのは、二人とも男性だということです。まぁ、大したことではありませんね。この頃のアテネの街は男性同士のカップルが珍しくありませんでした。その中でも多かったのが、おじさんと美少年、だったようです。パルメニデスとゼノンもそうでした。
現代日本では、同性愛者というのは偏見の目で見られることが多いようです。
今の日本はそういう「社会」ですよね。どこかに同性愛者=変、という印象があります。ですが、ゼノンの生きた古代ギリシアの時代はそうではなかったようです。少なくとも今の日本よりは同性愛(男性同士のみ)に理解があったようです。古代ギリシアはそういう社会だったのです。
「社会」とか「文化」とか「風習」によって、常識とか人間の考え方って大きく異なります。キリスト教が普及してないから粗野だとか、機械化してないから無教養だとか、自分たちの習慣と違うから野蛮だとか、そういうことではないのです。──古代ギリシアのソフィストと呼ばれる人たちの考え方。
前置きが長くなりました。話をすすめましょう。
案外「ゼノンのパラドックス」というのは有名みたいです。と言いながら私がこれを知ったのは、人生をシドニーオリンピックのマラソンコースでたとえると、折り返し後のセンテニアル公園あたり(←テキトーなんで詳しく検証しないで)ですが。けっこう最近のことです。
話がそれますが、本を読んでいるとたまに「これは有名な話だが──」とかいう文章がありますよね。その話を自分が知らないと「有名な話なのに知らなかったのか」とちょっと落ち込んでしまいます。その反動から「いちいち有名な話だなんて補足説明つけないで本題に入りなさい」と思ってしまいます。みみっちい性格だなぁ、とは自分でも思うんですけどね。
思い出してください。パルメニデスの哲学を一言で言えば「変化なんてありゃしない」でした。ゼノンはパルメニデスの弟子ですから、お師匠様の味方をします。
「この世に変化がないだって! そんなバカなことあるわけがないだろ」
という論敵に向かって反論するのです。その反論が「ゼノンのパラドックス」です。代表的なものを二つほど。
1 モーリス・グリーンは私に追いつけない(原題、アキレスは亀に追いつけない)
2 飛んでいる将門の首は止まっている(原題、飛んでいる矢は止まっている)
1の「アキレス」はとても足が速い人です。亀は足が遅いものの代表です。モーリス・グリーンはシドニーオリンピック男子100メートル金メダリストです。私はなんとか100メートル走りきれるという程度です。今住んでいるところ(赤道ニッポン)に、100メートルのトラックが一つしかないから・・・(元ネタはオリンピックの競泳で話題になりました)。
2の将門とは平将門(たいらのまさかど)のこと。処刑された後、首が故郷に向かって空を飛んでいった人です。
このパラドックスは、(人によっては)おもしろいんですがちょっと複雑になります。ですから、説明はここではやりません。こちらの方に書いてあります。
100メートル走でアキレスが亀を追い抜けないとか、飛んでいる矢は止まっているとか、ありっこないことですが、ゼノンはそれを「論理的」に説明したのです。
これらの「パラドックス(矛盾)」でゼノンは、パルメニデスの意見を否定する論敵に対して何を言いたかったのでしょうか。
それは、この世界に運動や変化があることを認めることは、「論理上」とても多くの難点をもっているのだ、ということです。つまり、お師匠であるパルメニデスの「変化や運動なんてないんだ」という考えをただ単純に否定できはしない、ということです。
ゼノンのパラドックスは、現代でもパラドックスとして生きています。私は初めてこのパラドックスを知ったとき、バカにしました。「飛んでいる矢が止まってるって、何それ。日本語の使い方間違ってるじゃん」と。でも、パラドックスの説明を聞くと、反論できないのです。ゼノンのパラドックスはとても論理的だからです。
「運動や変化がないなんて、そんなわけないだろう」
という意見は、事実ですが、論理的ではありません。
ゼノンのパラドックスは2000年以上、多くの人が否定しつつも、誰も論理的に否定できていないのです。
同性愛については、私も偏見の色眼鏡を持った一人でしょう。
少し前に芥川賞をとった小説『夏の約束』(同性愛者が主人公)や、その著者が書いた他の小説を読んで、少しは同性愛について偏見がなくなったと思ってはいますが、全く偏見がないというわけにはいきません。