バルマムッサは、ガルガスタン人によって造られた、ヴァイスたちウォルスタ人の強制収容所がある町。ここには、およそ5000人が収容されている。ウォルスタ人の指導者ロンウェー公爵は、彼らを武装蜂起させる命令をヴァイスとカチュア、その弟のデニムの3人に下す。3人とも10代の若者であるが、公爵救出という大功により、英雄と呼ばれている。
 収容所の警備兵を駆逐した彼らは、バルマムッサ収容所にいるウォルスタ人の長老たちに、武装蜂起をもちちかけるが・・・。

ヴァイス
「ふざけるなッ! 俺たちが来たのはそんな台詞を聞くためじゃない。おまえたちは、このままガルガスタンの奴隷でいいって言うんだなッ! 解放軍はじゃまだって言うんだなッ!!」

カチュア
「そんなに熱くならないで、ヴァイス。これじゃ話したくてもできなくなるわ」

老人
「戦って何になるというんじゃ。争いは憎しみしか生み出さん・・・。
 わしらは今のままでいいんじゃ。ここなら戦禍に巻き込まれることもないし、食うにはこまらん」

ヴァイス
「家畜と変わらない生活なんだぞッ。ここにいるかぎりそれは変わらない。自由が欲しくないのかッ。人間らしい生活をしたくはないのかッ。ウォルスタの誇りはどこへいったんだ!」

老婆
「あんたたちが何もしなければ平和な生活が続いたんだよ。解放軍だかなんだか知らないが、ただ、首がすげかわるだけじゃないか。あたしたちには関わりのないことだ。あんたたちと同じことを言っていた息子は半年前の戦争で死んだよ・・・。
 あたしの息子を返しとくれッ」

老人
「お願いじゃ、このまま帰ってくれんか。ここに戦おうという者はおらん。それに、おぬしたちは勝てるとでもいうのか。英雄だかなんだかしらんが、うぬぼれているだけではないのか!」

 

争いに疲弊した老人たち

 長老たちの言葉から、バルマムッサはかつてのナチス・ドイツのアウシュビッツのような強制収容所ではないようである。殺されるわけではない、ならば不自由でも命に危険なく暮らしていけるほうがよい、と長老たちは考える。
 だが、この考えは甘くはないか。
 ガルガスタン人の指導者はバルバトス枢機卿である。彼は民族浄化を掲げて、ウォルスタ人の排斥を実行した人物である。その残虐な政策は、ナチスの党首ヒトラーを思わせる。その彼が、強制収容所のウォルスタ人をいつまでも生かしているだろうか。
 まず、抵抗運動を続けるロンウェー公爵をリーダーとする解放軍を全滅させる。その後に、収容所の連中を排除しようと画策していたのではないか。
 抵抗しなければ命は奪わない、という虚言で抵抗運動が広がらないようにしたのである──。バルバトスに批判的な者は、そう考える。
 この点を、ヴァイスたちは長老たちに説けば(悪く言えば脅す)違った反応があったかもしれない。しかし、これは戦乱に疲れた人々の心理を読んだ、バルバトスの作戦勝ちといえるであろう。

自由は、戦い勝ち取るもの

 古代ギリシアの哲学者アリストテレスがこのようなことを言っている。
「自由国家の市民は、武器を持つ者のみから構成されるべきである」
 彼の生きた古代ギリシアは、ポリスの時代である。ポリスでは、成年男子は政治に参加する代償として戦争が起こったときには兵士として戦った。
 アリストテレスは女性差別論者だった。「女性は、不完全な男性である」と考えていた。女性は武器を持って戦えない、国家を外敵から守ることができない、とみていたのが理由の一つであろう。古代ギリシアでは、戦士のみが選挙権を持てたのである。
 無償の平和や自由、権利というものはない。戦って勝ち取り、武器を手に守らねばならない、とアリストテレスは言うのである。バルマムッサの老人は「争いは憎しみしか生みださ」ないと言うのだが。

強要された自己犠牲

 他人に「戦え」と命令する、これは罪である。無論、軍人は別だ。
 防衛のための戦闘の場合、家族や愛する人、郷土、国家、政治体制を守るために戦う。しかし、命が失われる危険がある以上、防衛戦闘であっても自己犠牲の精神によって行われるものである。自分が死んでも、大切なものを守りたいという想いから行われるものである。
 自己犠牲の精神は、美化するつもりはないが美しいものだ。
 ただ、忘れてならないのは、その美しい自己犠牲の精神は、自分の選択によって生まれるものであることだ。
 だから「強要された自己犠牲」というのは矛盾である。
 他人に自己犠牲を強要することは、罪である。ヴァイスも罪を犯している。
 人にはそれぞれ生き方がある。生命を維持できるなら自由を捨てる生き方、自由を得るために生命を賭ける生き方、逃亡し別の場所で自由を得ようとする生き方。どれも間違ってはいない。
 国家や共同体から恩恵を受けているなら、守ろうとするのは当然だし義務でもあろう。だが、老婆曰く、
「解放軍だかなんだか知らないが、ただ、首がすげかわるだけじゃないか」
 どうひいき目に解釈しても、恩恵を受けているようには思えない。
 彼女にとって、自分たちの指導者がバルバトス枢機卿でもロンウェー公爵でも大した違いはないのだ。権力者によって支配されるという構図に変わりはないのだから。
 それなら、たとえ家畜や奴隷のような生活でも無事に生きられる今のほうがよい。命を賭して戦った末、ロンウェー公爵が勝ったとしても、家畜や奴隷よりややマシになるだけなのだから。
「あたしたちには関わりのないこと」なのだ。