危険な任務に赴くことになったデニムは、死への恐怖をランスロットに語る。ランスロットは、自分も恐怖を感じるとデニムに告げ、姉カチュアのためにも生きなくてはならないと諭す。
 デニムは尋ねた。あなたはどうなんですか、と。その質問に、ランスロットは懐から小さな小箱を取り出す。

デニム
「それは・・・?」

聖騎士ランスロット
「このオルゴールは死んだ妻の形見だ・・・」

デニム
「形見・・・・・・」

聖騎士ランスロット
「もう4〜5年前になるかな。帝国と戦う前のことだ。帝国に追われ、各地を放浪しているうちに、妻は病気にかかってね。そのまま逝ってしまった・・・。
 幾度となく妻のあとを追って死のうと考えたことがある。戦いの前にはとくにそうだった。
 でもね・・・。そのたびにこのオルゴールが教えてくれる。命という名の責任の重さをね・・・。死んではいけない、自分のまいた種の成長を見届けなければならないってね・・・

デニム
「命という名の責任・・・」

聖騎士ランスロット
「きみたちのような若者が戦わなくともよい・・・そんな世界を築きたいものだな・・・・・・」

命という名の責任

 デニムがランスロットの言葉を繰り返して言う「命という名の責任・・・」というセリフは、全ての『タクティクス』プレイヤーが、思わず口にしてしまう(と私は思いこんでいる)という。この瞬間こそ、プレイヤー=デニムとなるのである。

 命という名の責任──生きているということに対する責任、と言うのは奥が深くない言い方かもしれない。
 今の人類は、今を生きていることに対しての責任を果たしているか。自分勝手に地球を荒らして、乏しい資源と環境汚染を未来へ残そうとはしていないか。
 今の日本、「自由」が世を闊歩しているが、「責任を放棄する自由」というのはただのわがままである。それがわかっていても、言うは易し行うは難しなのだが・・・。

○○という名の××

 夢という名の宝物。
 希望という名の翼。
 愛という名の魔法。

 どっかで聞いたことあるような、私の嫌いな表現。なのに、↑のランスロットのセリフはすんなり受け入れられたのは、私のえこひいきかもしれません。
 それほど私の心の中で、「『タクティクスオウガ』という名の市民権」は強力なのです。