走れメロス  (太宰治著)

 お勧め本のコーナーで太宰治著『走れメロス』を採り上げるのは、はなはだ恐縮なのですが、(ほとんどの人が小学生や中学生の頃、一読されていることは百も承知なのですから・・・)挙げさせていただきます。
 大人の方々も、もう一度、再読していただきたいという思いゆへに、今日、取り上げたしだいであります。
 私は東京にいた頃、塾で国語の授業を担当したことがあました。そこで、太宰治著『走れメロス』を教えるという機会がありました。
 私は指導マニュアルを見ました。そうか、そのようなことがあったのだと思い至り、恥ずかしい思いをしました。
 『走れメロス』では、太陽の描写で、時間の経過を暗に描写しているとあったのです。村に帰るときは太陽は高く、妹の結婚式からは雨が降り、明朝跳ね起き雨もいくぶん小降りになっており、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇っていていて・・・セリヌンティウスの弟子に、もうこれから走っても間に合わないので、走るのを止めてくれといわれる頃は「まだ日は沈まぬ」とあり、太陽の描写で時間を暗に進めているとあったのです。私は驚きました。『走れメロス』は子供の読む本だと思っていましたし、こんな念密な計算があったと解ったからです。私の拙作の絵本『はんぶんっこ』の中で、
(それは剽窃のそしりを受けるかもしれませんが、)太陽の位置を変えることによって、はんぶんっこしていく時間の経過を表していたのです。お気づきになりましたでしょうか)

 最近の研究では、(といってもその指摘を読んだのは20数年前のことでありますが、最後、真っ裸でいるメロスに、マントを差し出す少女に、親友セリヌティウスは「メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」とあります。そして最後に勇者は、ひどく赤面したで結ばれています。しかし(どの研究図書で、そう指摘されていたのか忘れてしまいましたが)ひどく赤面したのは、自分が全裸だと気づいたメロスではなく、当の太宰治氏、本人ではないかという指摘を目にしたこともありました。こんなうそ臭い人間への信頼を書いた『走れメロス』、こんなものは恥ずかしくてしょうがないというものでした。

 友情や愛、人間が人間に信頼することへの不信。過去に友人や知人や、あることないか妻もグルになって、パビナール中毒を治すために脳病院に入院させられた太宰治氏。その懊悩、苦痛、人間への不信、それらは『二十世紀旗手』にもその心情が描かれています

 『走れメロス』の中で、人間を信じられない王様。それは太宰治氏、本人の戯画化とも読めます。昭和14年、石原美知子さんとの結婚。才女であり、令嬢でもある夫人との結婚は、太宰治氏に大きな転機となりました。『富嶽百景』にそのころのことは描かれています。メロスもただ、約束を守るために強い意志をもって走りきったのではありません。途中で、走るのを止めてしまいます。そして自分に言い聞かせるように、約束を守るのをあきらめる自己弁護が描かれています。しかし清流の水を口にし、やっぱり約束を守らなくてはならないと奮い立ち、走り出すのです。それは、太宰治氏が、自らが自らを励ますために、命がけでメロスに託して書いたと思われます。自分もどのような艱難辛苦を味あおうとも約束を絶対に守りきる人間になりたい。太宰治氏の自分の将来への願いも込められて、勇者は走りきったと思いました。
 

『走れメロス』是非お読み下さい。

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