もてなす側の亭主が手作りにしたものを勧めるのが本来の姿。
一番食べ頃を考えて作り、形は少々悪くても、その心が客に伝われば良い訳です。
手元に材料さえあれば、いつでも出来たてのものを風味の変わらないうちに客に出す、寒い時には温かく、暑い時には冷やすというような工夫です。
実際に作ることが難しい場合は、菓子屋で入手する訳ですが、その「もてなしの心」を基に考えれば選び易いのではないでしょうか。お稽古用、お茶会用でも同じです。
茶菓子は風味に重点を置いたものとも言われます。
菓子は生きているので味も刻一刻と変化しています。
舌に感じるその味に重点を置くので、原材料の良いことと新鮮さが条件になると思います。
特に「主菓子」(おもがし)と言われる「蒸菓子類」は、「干菓子」と比べ味の変化が早いので、食べる時間を考慮して手に入れる必要があります 茶菓子の決り事はないようです。しかし、明治以降の茶の湯とともに今日の洗練された御菓子になってきた中で次の様なものを、お茶関係の方々が選ばれるようです。
先の条件の他には、「香りがある場合は、強すぎず、ほのかな香りの菓子」、「食べ口の問題で、舌の上で溶ける感触のある菓子」、「美味しそうに見える色と形(姿)」、「季節感を感じる菓子」。更に付け加えるなら「今までにない発見を感じる菓子」と父は話していました。
材料は、やはり和の天然原材料が中心となります。バター、チーズ、油を使ったものは、お茶の味を引き立てる脇役のスタンスからすると相応しくない訳です。
難しいことですが、「味、香り、色、形、銘」の調和を考えて、自然体て゛出来るだけシンプルな菓子を作りたい所です。
和菓子の歴史
大昔、葉っぱに木の実や果物を乗せたものが始まり。
弥生時代には餅があったようです。(満月のことを望月と言っていたのでモチとなったと言う節がある)
主食の代用として、また儀式や祭典の供物として用いられました。
平安時代、遣唐使が唐から持ち帰った「唐果物(からくだもの)」はモチ米やウルチ米、麦や大豆に塩を加えて、油で揚げたものなどがありました。
やはり、祭事に神の供物の役割がほとんどだったようです。
同じ頃(七世紀)、「茶」が渡来しました。
鎌倉時代には禅僧の生活に喫茶の習慣が定着し、中でも「点心」と呼ばれる簡単な小食は後の「おやつ」の原型になったそうです。(心に一点を加える程のものという意味もあるらしい)
点心の一つに羊羹の字にある「羹(あつもの)」があります。羹とは本来は羊の肉を煮た汁らしいですが、日本では肉などの形だけを取り入れ、穀物などで作った蒸し物で見立てたとのことです。
この頃、点心として肉や野菜を詰めた饅頭が渡来し、後に小豆餡を入れた「饅頭」に変化していきます。
室町時代に入ると武士の精神と禅宗が結びつき、武家社会を中心に「茶の湯」が発達しました。
茶道の確立とともに、茶席でも菓子が発達していきました。
その頃の菓子は木の実、アワビ、松茸の煮物味噌を付けた餅、焼き栗などが用いられました。
長い間、料理の一つとして「茶の肴」とも呼ばれてきたようです。
安土桃山時代以降に砂糖が多く使われるようになりました。いわゆる南蛮貿易によりポルトガルやスペインから金平糖、有平糖、ぼうろ、カステラなど卵と砂糖をふんだんに使うものが輸入されたのです。
ただ、まだ特殊階級のもので一般的ではありませんでした。
江戸時代に入り和菓子も完成されていき、天保10年(1839)には「古今新製菓子大全」が刊行されました。
ここには、200種の蒸し菓子、干菓子、飴今の菓子の図示と製法が記され今日の和菓子の基本はほとんど完成されました。
御所のある京都では、献上菓子(略して上菓子)「御用菓子」が盛んになり、上菓子屋、饅頭屋、餅屋が区別されて商いをしていたらしいです。
幕府のある江戸では、京都から進出した菓子屋が京風の菓子を広め、一般化していきました。
しかし、砂糖はまだまだ貴重品で、薬屋でも売られていたとのことです。
江戸後期になり、ようやく庶民も菓子を楽しめるようになっていくのです。このころ四国の和三盆糖が誕生しました。さとうきびの栽培が始まり、製糖も盛んになっていきました。地方でも神社の参拝客や宿場の茶屋で旅人をお客に、土産菓子が作られ始めました。
明治時代になり、工業や生活様式も西欧化していき、多売主義が発生するとともに洋菓子を並売する菓子屋も増えていきました。
大正、昭和と全国で和菓子も定着していきました。また、和菓子屋から洋菓子屋へ変更する店も出てきました。
不幸なことに第2次世界大戦中は砂糖も手に入らなくなり閉店状態の店がほとんどになりました。
その後、砂糖の配給制度を経て昭和20年代後半には平静を取り戻し、茶道の一般化とともに茶菓子も広く知られるようになり今日に至っています。
和菓子と茶道
茶の湯では懐石の後のデザートとして発達してきたものが、生菓子(蒸し菓子)となりました。
茶菓子に主題と季節を織り込み、亭主が趣向をこらす過程で洗練されていきました。
五味(甘、酸、渋、苦、辛)五感(視、触、味、嗅、聴)を大切に長い茶道の歴史の中で、季節の移ろいにつれて彩りを変え、姿を変える自然を色と形に映した和菓子が成長したのです。
特別なお茶菓子専門店の御菓子でなくても、名産やごく普通のものでも、それに趣などを感じ相応しいと考えれば、亭主の茶心(茶のセンス)により選ぶ場合もあります。 正式な茶会では、「主菓子」は濃茶の前の前座の料理の後で、菓子そのものの味を賞味するものに対して、「干菓子」は薄茶の時にお茶と菓子の両者の味が調和したものを賞味するものという違いがあります。
<懐石を伴う正式な茶会>
懐石→(主菓子)→中立‥‥客は一旦茶室から出て露地の腰掛け待合で次の席入り
を待ちます。
ドラが鳴り、再び席入りし濃茶が点てられます。
↓
濃茶を飲み終えたあと、正客は亭主に御礼を述べ茶銘、菓子の銘を尋ねます。
亭主の趣向や心配りが感じられます。
↓
濃茶が済めば、緊張感もやや和らぎ干菓子が
出され薄茶が点てられます。
<一般的な場合>
主菓子を頂いた後、一服目の薄茶が出され飲みます。
更にもう一服(お続き)の場合には干菓子が出されます。
<簡略の時>
主菓子と干菓子が同時に出される場面もあるかもしれません。
表千家会報「同門」の中の茶道講座で家元が述べられたことの一部を要約して、ご紹介します。
家元で使われる菓子をまねて、各地で作られている菓子もありますが、「形は兎も角としてその味だとか風合などになってくると余程の差があって似て非なるものも多い」「食品の世界は非常に複雑な要素があって、その材料の選択と技術、そしてその伝統による何かが加わる」とその感想を述べられています。
そして、模して作っている店の主人に、実物を見せ賞味させて聞いたところ、「これに近いものは作れると言う。しかし、費用が今の倍になり、それでは売れないとにべもなく続ける。形だけ似たものが出来ればそれで良しと言うのである」
「茶道の文化は、少しでも良いものを、少しでも美しいものを、少しでも合理的なものを、少しでも使い易いものを等々求め続けて向上してきた歴史があります。その向上心が良い道具を作りだし、食生活をより良いものへ、そして違いが判る人を増やしてきました。」
「文化はゆとりがないと育てられない。一方育てられる方も感謝の気持ちを向上で応えなければならない。それに増して私達茶を習う者は、少しの差でもより良い世界を感じ取れる感性を磨き上げる必要のあることは当然」と。
引用・参考文献
表千家会報「同門」 1975年 第48号〜1999年
8月号
茶の湯菓子 鈴木宗康他 淡交社 1999
四季の和菓子 小学館 1997
茶趣の和菓子 婦人画報
1996
宗家の茶菓子 世界文化社
1982
京のお菓子
中央公論社 1981
京都の菓子 鈴木宗康
淡交社 1972
茶花 「梅花空木」ばいかうつき
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