生活科の授業づくりを共に考える2
〜H先生とのメールによる授業研究〜

 H先生とのメールのやりとりの続編です。H先生の,実践報告とそれに対する素直な思いや疑問は,私にとっても考えさせられるところが多く,本当にいい勉強になります。


H先生からの第4信(桜の木を見に行ったのですが…)

きょうは、フレンドのページをゆっくり見ました。大型犬ですが、やはり子供のときはかわいいものですね。以前、盲動犬協会主催のコンサートに行った時、講演もあって、リトリバーという種類の犬は、元々は猟犬であるが、その中で、真っ先駆けて狩猟に走り出すものより、いつも人のそばにいたがり、動作もどちらかというとスローな犬・・・猟犬としては落ちこぼれの方が選ばれて、盲導犬として飼育されるようになったのだという話を聞きました。この話を聞きながら、これは人間にも当てはまる話だなあと思ったものです。競争社会で、いつも勝利を得ようと心身とも突っ走っている人だけでは、暮らしやすい世の中にはなるまい、負けてもいっこうに苦にしない人も必要だし、勝負の場から離れて遊びたがる人もいていいし、走っている人だって時には立ち止まるゆとりもある社会であればいい・・・等と考えたものです。

秋の実践にアドバイスありがとうございました。HP掲載のページも拝見しました。
ここによそからまたメールが来たら楽しいですね。紙上討論会みたいなことができるかも・・・。よこさんのおかげでメールの楽しさを、わたしは満喫していますよ。(でも、返信などであまり体に無理をなさらないでください。)
神社への交渉・・・たしかに最初からあきらめることはないですね。きちんと目的など伝えれば、許可していただけるかもしれません。なにしろ、学校のすぐとなりなので、放課後ではなく、授業中ということでもいいのです。ここには、みごとな桜の大木があって、春には、枝がグランドに大きく張りだし、体育の時間ごとに花見ができたものです。このあいだ、「この桜の木は今どうなっているか見に行こう」と声をかけて、行ってみたのですが、張り出していた枝は、すでに刈られ、緑の葉は他の木々と交じり合って、区別がつかず(子供たちには)、なによりも子供たちの内面には、桜がどうなったか知りたいという欲求も疑問もなかったせいでしょう、「これがあの桜の木だよ」とわたしが声をかけても、子供たちはつまらなそうに「ふーん」というだけ。まさしく、活動の対象があり、活動が行われても、内面の関心・期待・欲求・願いそういったものがなければ、子供たちの心には、何も残らないという実践になりました。お粗末。

H先生への返信(子供が夢中になる活動)

盲導犬が,猟犬としては落ちこぼれだったという話,いい話ですね。
神様は,意味のない生命をこの世には送ってこられないのでしょうね。

桜の木に対するHさんの感動を子供たちにも分け与えたいですね。大きな幹や枝,見事に咲く花,一斉に散りゆく花吹雪,生命力の感じられる葉の芽吹き,さわさわと揺れる葉桜,紅葉,落葉,そして吹雪に耐える中での新芽。そうした1年を通じての桜の木の生き方に触れ,子供たちが桜の木が大好きになり,小さな畏敬の念を抱くようになれば,どんなにすばらしいことでしょう。木は,長くそこに立ち続けますから,大きくなった子供たちが,桜の木を見上げて,小さい頃に遊んだっけ,と懐かしく思い起こすような活動を仕組めれば,すばらしいと思います。
落ちた花びらで花飾りを作る,葉っぱを当てるネイチャーゲームをする,幹に聴診器を当てて音を聞いてみる,木登りをする,払った枝でクラフトを作る,他の木もあるなら「自分のお気に入りの木」を決めて名札をかける,暑い日に外遊びをして木の下で休む,年齢を予想する,落ち葉に埋もれて横たわるなど,子供が夢中になる活動は多くあります。

そのためには,先生が子供たちに思いを込めて木のことを語ることも必要になるでしょう。いきなり活動に入っても,子供たちはなかなか木には向かわないと思います。
さしあたって,もう少しあとには,落ち葉を集めて,その中に横たわるあたりがお勧めです。これは,「とっても気持ちがいいんだって。やってみない?」くらい呼びかければ,子供たちは乗り気になるでしょう。気の利いた子なら,どんな服を着てくるといいか,などと質問してくれるかもしれませんね。そして,よいしょよいしょと落ち葉を集めて,落ち葉の布団を作るでしょう。落ち葉の中では,じっとさせるようにします。最低1分くらいは。そうしないと,体で十分落ち葉を感じることができませんからね。落ち葉の布団から,目だけ出して眺めるのは,恐らく生まれてはじめての景色です。地面の高さからの下から見上げる木の枝,その向こうの秋の空,時折横からのぞく友達の顔,子供にとって貴重な経験となることでしょう。

なお,2〜3日は天気が続いた後でやらないと,落ち葉が濡れていて気持ち悪くなりがちですから,気を付けてください。
この実践は「ネイチャーゲーム」のものです。書店にありますよ。他の木とのふれ合い方も載っていますので,ぜひどうぞ。


H先生の第5信(あさがおの双葉,名前を教えるのはいつですか?)

秋の単元については、まだ、模索の最中です。本校でも「ネイチャーゲーム」の本を購入しているので、どこかにあるはずなのですが、今日のところは見つかっていません。明日もさがしてみようと思っています。

自然を対象として、学習を組み立てようとする場合、教師自身がそれに感動するというのが、大切なことだと思います。前任校の近くに防風林があり、これをよく利用したものですが、なかなかゆっくりとそこの自然を味わう時間がとれませんでした。いつかいつかと思いつつ、結局それらしいことをしないまま、異動しました。

自宅の近所に自然観察指導員をしている女性がいて、その人にさそわれて、夏休み自然観察会(滝野で宿泊)に参加したことがありますが、ウォッチングするにしても、やはりよくご存知の方に草花の名前やおもしろい性質を教えてもらうと何もわからないまま、森林浴をしているよりもはるかにおもしろいものだと思いました。ヘレン・ケラーが水という単語を知ったことから、広い世界が開けたように、わたしたちも名前を知ることで、ものがそれまでとちがってみえてくることがあるような気がします。そういうことからも、教師は、子供たちの学習の対象をよく知っていたほうが、子供たちのよきガイドになれるのではないかと思います。

「名前を知る」ということについて、さらに思う事を少々・・・例えば、あさがおの「ふたば」という名称は、子供にとっていろいろ触発するところのある言葉であると思いますが、よこさんは、どの時点でどのように教えますか?(わたしは、単純に芽が出た時点で教えましたが)「ふたば」に限らず、あるものの概念を規定する言葉をどこでどのように理解させるか、これも日ごろから迷っていることです。

こうして考えていくうちに、このごろ、わたしは「生活科」というものがちっともわかっていないなと思うようになりました。HP中のある児童のお父さんのような、生活科に関する激烈な疑問を突きつけられたら、わたしならまるきり答えられないだろうと思います。

H先生への返信(名前の前にセンス・オブ・ワンダーを)
動植物など,名前を知るということで,自然の見方が変わった経験は,私も持っています。名前の由来を知ると,ぐっと親しみが増したりもしますね。
ヒトリシズカ,ハハコグサ,ツリフネソウ,マツヨイグサ…,名前を聞いただけでやさしい気持ちになれそうな気がします。

さて,いつも感心させられているのですが,Hさんの問題提起は,とても具体的で,それに対して考えを書いているうちに,私も自分の考えがまとまってきて,とてもありがたいです。今回の,

「名前を知る」ということについて、さらに思う事を少々・・・例えば、あさがおの 「ふたば」という名称は、子供にとっていろいろ触発するところのある言葉である と思いますが、 よこさんは、どの時点でどのように教えますか?(わたしは、単純に芽が出た時点で 教えましたが)「ふたば」に限らず、あるものの概念を規定する言葉をどこでどのよ うに理解させるか、これも日ごろから迷っていることです。

について,思うところを述べますね。

まず,名前を知るということはとても大切な事だと思います。名前によって,他との違いを認識し,そこからまた新たな発見が生まれます。しかし,低学年の子には名前を「教える」ことは,意外と効果の少ないものだと思います。
HPの中には,子供が花を見つけてきたとき,「名前を教える」「名前を考えさせる」「図鑑を引かせる」の3つの方法を子供の様子と,その花の特長から判断して選択している事例を紹介しています。
また,あさがおについて言いますと,本当に子供は双葉と本葉の違いを認識するのに時間がかかるのです。これは,「生活科・総合」の「日常の見取り」に紹介しています。
これまでの実践では,双葉という名前を教えるタイミングがバッチリだったなあと思うのは,次のようなタイミングのときでした。
・「あれ?これ違うぞ」とまず一人の子供が気付き,それに触発されて数人の子が「ほんとだ,ほんとだ」と言いだした頃。
それを取り上げて全体に投げかけ,「あなたのあさがおの葉っぱも違う?」と問いかけると,子供たちは自分の鉢に直行しますね。そして,いろんなことを言うんです。「とがっていない」「もう,しぼんでいる」「ハートの形をしている」「毛が生えていない」「2枚だけある」…。
そこで,「2枚しかないの。じゃあ,この葉っぱだけ特別なのかもしれないね。」などと言うと,「種から出てきたんじゃない?」とか「最初は合わさっていたけど,手を広げたんだよ。」などと動作で表す反応が出てきます。「ああ,この葉はこうやって開いたの?みんなの手と同じように2つあるんだね。」なんていうところから「ふたば」という言葉に導きました。要するに,言葉を教えたときに,それを自然に受け入れるだけの体験と気付きがあることが大切だと思うのです。また,言葉を教えるにしても,言葉を覚えることより,その言葉がすとんと心に落ちるような「間」が大切だと思います。

レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」という本をお読みになったことがありますか?
その中に,次のような一節があります。
「もしも,わたしが,すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら,世界中の子供に,生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は,やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅,わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること,つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する,かわらぬ解毒剤になるのです。」
「いろいろなものの名前を覚えていくことの価値は,どれほど楽しみながら覚えるかによって,まったく違ってくるとわたしは考えています。もし,名前を覚えることで終わりになってしまうのだとしたら,それはあまり意味のあることとは思えません。生命の不思議さに打たれてハッとするような経験をしたことがなくても,それまでに見たことがある生きものの名前を書きだしたリストをつくることはできます。」

もし,まだお読みでなければ是非買って,手元に置いて何度も読んでいただきたい本です。新潮社,1400円。幻想的な写真も多く収められた60ページほどの薄い本です。

また,先生とのメールが財産になりました。HPに転載をさせていただこうと思います。ありがとうございました。


H先生の第6信(ネイチャーゲームやってみます)
 ネイチャーゲームの本、本校もありました。学校で役立つネイチャーゲーム20選です。使えそうなゲームもありますので、これでだいじょうぶだと思います。ご配慮ありがとうございました。
 また、質問へのご意見もありがとうございました。「ふたば」という言葉は、おとなにとってはまさしくふたつの葉という意味で、言葉を知ることで即納得がいくのですが、子供はそのような理解はしないのですね。たしかに、よこさんの実践例のようにグッドタイミングで知らせると、観察もぐっと深まり、心の底から理解できるようで、あさがおにかぎらずこれから同様な場面があったら、工夫して用語を教えよう
と思います。
 レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーは、わたしも読みました。その時点で、感動したところもあって、学級だよりなどで紹介した覚えもあるのですが、引越しのどさくさで見えなくなりました。これは、再度買うつもりです。
この人のものは、「沈黙の春」がやはり印象的でしたね。自転車通勤していると、春には、毎朝ヒバリをはじめたくさんの小鳥の声が楽しみなので、これがなかったら・・・と想像するとそらおそろしい気がします。

私の返信
 レイチェル・カーソンの本をすでにお読みだったようで,失礼しました。
 私は,文部省の教科調査官である,嶋野道弘先生に教わってこの本を手に取りました。レイチェルの主張することは,生活科の主張することとぴったり一致していて,とても感銘を受けた記憶があります。

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