出会いの弁(1990年4月6日,1年生入学式に配布の通信)
輝かしい出会いの日に,こんなことを言うのもナンだけれど,教育は,別れの日に焦点を絞った営みだと私は思う。
人と人が出会い,時を共有し,そしてやがて別れる。人と人の関係は,どんなものにしろこのサイクルから逃れることはできない。だから私は限定された「時」を大切にしたいと思う。
この3月まで,本校で3年生の担任をしていた。3年生を終了する日,子供たちも私も泣けた。まだ4年生の担任が誰になるか,子どもたちは知らなかった。私かもしれなかったのだが,泣いていた。
春休みに子供たちからもらった手紙の中に,次の一節があった。
「3年生を思い出すと,とてもとても明るくて,そしてさびしい」
私も同じ気持ちだった。子供たちと共有した「時」が輝いていればいるほど,別れは身を切るように切ない。
『星の王子さま』の中に,王子が自分の星に残してきたバラの花を思い出し,言う言葉がある。
「僕がこんなに,あのバラのことが気になるのは,バラが僕のことを愛してくれたからじゃない。僕が,バラのことをたくさん世話したからなんだ。」
3年生に,私は私なりの全力をつくした。そして,別れの日は泣けてしかたなかったのだ。
春休み3月いっぱいは,ずっとその余韻に浸っていた。
しかし,4月に入り新1年生の学級編成が始まると,その余韻はピタリと消えた。かわりに,新しい出会いへの,そして新しい子供たちと共有する「時」への希望が果てしなく広がり始めた。こんな力がどこにあったのだろうと自分でも驚くほどのエネルギーが,体中に広がり始めた。
今日,子供たちと出会う。
今日から,新しい子供たちと私との「時」が始まる。
有限の「時」に,無限の夢をのせて,今日から1の3の教育はスタートする。
この教育のターゲットは,今までの3年生との「時」。昨年までの自分の教育活動の一切を乗り越える,新しい教育を目指す。教師としての自分の限界を打ち破る努力を,ここに誓う。
これまで創った,どの学級よりも,子供の顔が輝く学級づくりを目指して,今日1の3の「時」は始まる。
学級でのあいさつでも話そうと思っているが,ここにも書いておく。
私は,私なりの全力で1の3の子供たちの教育に当たりたい。しかし,どんなにがんばっても一人の教師の力などたかがしれている。「教育は,ザルで水をすくうような仕事である」という。例えるならば,教師の力はザルで,子どもの可能性は水のようなもの。また,家庭の力もザルのようなものだろう。
しかし,ザルでも2枚,3枚と重ねれば,穴を埋め合い,より多くの水を汲むことができるだろう。子供は,みんなで育てるもの。私とあなた,家庭と家庭,カバーし合ってやっていきたい。ご家庭の理解と協力がなければ,私は何もできない。
う〜む。出会いの日の緊張に,肩に力の入った文体になってしまった。しかし,どれも本音である。
99年のコメント
この学級とは,1年間だけのお付き合いでした。しかし,今もこの学級の子供たちや親と,つながりがあります。そして,今でも親と当時の話をすると,よくこの学級通信第1号が話題になります。
文章に力が入りすぎている感はありますが,子供たちとの「時」への思いは,今も変わらないと思っています。