生活科の基礎研究(1)歴史をひもとく 

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 はじめに〜研究の動機
 1.生活科は新しいか〜古今東西の教育論を比較
   ・考察1〜歴史は繰り返すー教育改革第3の波、生活科
   ・考察2〜教科、自立ー生活科の特質
 2.西洋教育史に見る生活科の源流
   ・コメニュウス
   ・ルソー(工事中です)
   ・ペスタロッチ
   ・フレーベル(工事中です)
   ・ヘルバルト
   ・モンテッソーリ
   ・シュタイナー(工事中です
   ・デューイ)(工事中です)
   ・キルパトリック
   ・ニイル
   ・ブルーナー
 3.日本教育史に見る生活科の源流
   ・及川平治
   ・国民学校における「自然観察」
   ・成蹊小学校の実践
   ・木下竹次
   ・梅根悟
   ・東井義雄
 附記〜新しい問題解決


 以下の論文は、1994年に執筆したものである。随所に生活科の未来像を予測した論述があるが、今読み返しても、それがすべて当たっていることに我ながらびっくりしている。「温故知新」とは本当だなと実感した。
はじめに
 生活科が完全実施されて4年が経つというのに、生活科をめぐる論議はいまだ昏迷の中にある。いや、論議というよりも「何で、こんなもの始まったんだ。」という批判的な戸惑いの声や、「遊ばせておけばいいのさ。」などというとんでもない誤解が今なおかなり存在する。さらに、「次の指導要領の改定では姿を消す」などといったまったく見当はずれの予言まで飛び出す始末である。
 生活科の誕生には歴史的必然性がある。そこが見えないと「こんなもの」「遊ばせておけば」に陥るのである。生活科が今後発展するためには、この『歴史的必然性』を明確にする必要がある。そこで、主に文献調査によって『歴史的必然性』を考察してみたいと考えた。
                
1.生活科は新しいか 
 次に、10の文章を引用する。これは、古今東西の著名な教育家の主張である。(一つだけ文部省のものが入っている。)あなたはどれが古く、どれが新しいかがお分かりだろうか。                                                               
 
 特にわたしの信ずるところでは、子供がものを思索し始めた最初の時期は、言葉本位の教授や、また学習者の精神状態と彼の外部関係とに適合しない教授によって乱される。教育上の命題というものは、現実の諸関係と切り離せない直感的な経験を考慮して初めて正しいものとして確かめられるのだ。    
 
 私が合科学習に想倒したのは、如何にすれば低学年の児童が自ら学習内容を定められるかの疑念が端緒となったのである。暫く考へている間に不図思ひついたのは児童が入学する前の家庭生活である。此の家庭教育固有の意義を保持しつつ更に之を改良して之を学校に延長したならば、必ず低学年の児童も学習することが出来て人生を渾一的に発展させることができる。 
 
 何よりも大切なことは、生徒の理解力をこえた社会関係についての観念を、彼の精神から遠ざけることだ。工場から工場へと連れ歩いて、仕事には参加しないで、ただ見学してまわるような学習は決してやらせてはいけない。 
 
 遊びは幼児の発達の、この時期の人間の発達の最高段階である。遊びは内面的なものの自主的な表現、内面的なものそのものの表現にほかならない。   
 
 教育とは、経験の不断の改造であり、未熟な経験を知的な技術と習慣を備えた経験へと発展させることである。したがって、様々な経験への参加を通じて、創造力を発揮させることが必要である。
 
 低学年の時期は、学校教育の最も基礎的段階にあることから、その後の教育の基礎となる国語、算数等に関わる能力など特に系統的に指導しなければならない教科は教科の系統性を重視するとともに、その他の教科内容については、児童の具体的な活動を通して総合的な指導を行った方が教育効果が上がるのではないかと考えられる。
 
 現行教育のごとく児童に対して『われの教えるだけ記憶せよ』と強要するような静的教育ではいけない。どうしても児童を発動的態度に出でしむる動的教育に改めねばならぬ。 
 
 今までのような学校の茶番が、いったい誰の役に立つのでしょう。知っていても役には立たない、知らなかったところで困らない、しかも年とれば忘れ、ほかの仕事にまぎれて消えてしまう、そんなものをおぼえてなんの足しになるのでしょう。学校は、青少年の心が真剣な事柄だけに向かうように努めなければなりません。
I  
 子供は、学校でも、町や村でも、家庭でも、常に新しい環境から与えられる新しい条件に反応し、適合していこうとして、変化や影響を受ける。その過程の中に、生活の形成が行なわれる。そこには、絶えず新しい疑問や問題がとりまいてその解決を迫ってくる。解決の結論を教師が教えこんだり、あるいはその知識を学ばせることではない。あくまでも子供の現実の生活の中から問題を発見させ、その問題を共通の学習活動へと展開させねばならない。
 
 今日は、この時間は、社会科のお勉強です。それで今日は工場を見に行きましょう。というような指導態度は子どもを生活者としての立場に開眼することを妨げるものであると言わねばならぬ。教科分立主義の枠を外して生活本位の教育に返りさえすれば、それでいいのである。 

 以上の主張者は次の通りである。(それぞれの詳細については、別項にまとめてあるので、ご覧頂きたい。)

 A〜ペスタロッチ
 B〜木下竹次
 C〜ルソー 
 D〜フレーベル
 E〜デューイ
 F〜文部省(1986年)
 G〜及川平治
 H〜コメニュウス 
 I〜成蹊小(1947年)
 J〜梅根悟 
 
 さて、これら10の主張をご覧頂き、どのように思われただろうか。
 「何だか、今も昔もあまり変わらないなあ。」と思われた方が多かったのではないだろうか。
 考察@〜歴史は繰り返す 
 歴史は繰り返す。繰り返しの中で、何度も新たな発見がなされ、より洗練されて進歩していく。スカートの丈しかり、音楽しかり、教育も例外ではない。
 生活科が生まれた背景には何度も繰り返された「形式的注入主義」への批判の歴史があった。(「形式的注入主義」は、筆者の造語である。)
 生活科は、「教育改革の起爆剤」であると言われている。
 教育審議会の答申の中にある「…実際の指導においては、知識理解に偏る傾向が見られ、体験や活動に基づく学習がかならずしも十分行われず、そのねらいが十分達成されたとは言い難い」という状況を、打破するために生まれた。
 これも、粗くとらえて「形式的注入主義への批判」である。

 歴史の中で、「形式的注入主義」への批判は、さまざまに展開されてきた。
 まず、欧米教育史においては粗く3つのカテゴリーで展開されてきた。

 その1つは、「自然主義」としての展開である。
 これは、ルネサンスにおける人間復興の思想から芽吹いた教育思想である。それまでのキリスト教会の思想は絶対的な神の言葉に従わせることが、すなわち教育であった。それに対し、人間と自然を教育の営みの中で見直そうとしたのが「自然主義」である。これは、主にコメニュウス、ルソー、ペスタロッチらによって主張された。

 その2つは、「経験主義」としての展開である。
 これは、アメリカのデューイの「為すことによって学ぶ」が有名である。経験主義はイギリスのベーコンやロックに始まると言われているが、教育論として確立させたのはやはりデューイやジェームズらのプラグマティストたちである。デューイにとっては生活は即教育であり、成長そのものである。成長とは経験の改造でありここに経験のもつ重要な意味がある。子供の自発性を重視し、生活の中から問題解決を掘り起こすことの重要さを説いた。そのためのカリキュラムとしてそれまでの伝統的なカリキュラムを批判し、「経験カリキュラム」を提唱した。そこから初期社会科に直結するバージニア・プランが生まれている。同じくアメリカのキルパトリックの「プロジェクト・メソッド」も、同一の思想に位置付けることができるだろう。

 その3つは、「児童中心主義」としての展開である。
 これは、それまでの学校教育が教師中心であり、書物と言語に多くを頼って行われていたことを批判し、子供中心の学校への転換を主張したものである。この運動の旗手としてはルソー、ペスタロッチ、フレーベル、デューイ、モンテッソーリなどが挙げられよう。本レジュメではシュタイナーやニイルも取り上げている。

 この「児童中心主義」は、先の「自然主義」「経験主義」と分けることが出来ないところにその特徴がある。すなわち、子供の内面の成長する力に目を向けた「児童中心主義」の思想をベースとしながら、教育の方法を自然から学ぼうとする「自然主義」がコメニュウスによって芽生えた。やがて、それは教授法への着目へと変わっていき、デューイによって「経験主義」の教育へと結実していったのである。  いわば3つのカテゴリーは、補完し合って新教育を展開してきた。無論それぞれの教育改革者は、自分以前・以外の教育改革者の思想を批判はしてきた。例えば、ヘルバルトはコメニュウスやロックの唱えた「陶冶」を批判して「教育的教授」を主張した、というようにである。しかし、歴史を概観すると「補完し合ってきた」ととらえるのが妥当である。
 ここまでを粗くまとめると、おおむね下図のような関係にあると考えられる。
 コメニュウス                 ヘルバルト        デューイ  キルパトリック
  自然主義                経験主義            (日本へ) 
1590   1780   1840   1900   1930   1940  
            児 童 中 心 主 義          
       ルソー  ペスタロッチ、フレーベル      モンテッソーリ   シュタイナー ニイル

 日本においては、大正期に主に経験主義の流れが入ってきた。
 そしてそのとき、「児童中心主義」の思想や「自然主義」の方法論の名残も同時に伝わった。
 当時の日本の学校では、「寺子屋教育」の教授方法が色濃く残っていた。寺子屋では、手習い(「いろは」「庭訓往来」など)と算盤が定番であったが、この学習は、「形式的注入主義」の典型であったと言えるだろう。この流れを汲んだ教授方法を改善するための道しるべとしてデューイらの方法論と思想は、熱意を持って受け入れられたのである。
 例えば、大正期には「八大教育主張」という一大イベントが開催されている。1921年のことである。全国各地の「新教育」の思想と実践が東京において交流された、というより、戦わされた。「目下我が教育思潮界を唸りを立てて流れている新思想の色彩を天下に紹介」するという主旨であった。
 主張者とその内容は、以下の通りである。

・及川平治〜動的教育論(上の設問にも引用した)
・稲毛詛風〜創造教育論
・樋口長市〜自学教育論
・手塚岸衛〜自由教育論
・片山 伸〜文芸教育論
・千葉命吉〜一切衝動皆満足論
・河野清丸〜自動教育論
・小原国芳〜全人教育論

 日本全国から2000名を越える教師が8日間にわたって繰り広げられたこのイベントに熱意をもって参加したという。毎夜、6時から主張がなされると、会場は水を打ったように聴き入り、やがて質問、討論、批判が活気に満ちて11時過ぎまで続いたという。北海道からも実に80人が参加している。
 やがて、そのうねりは新教育運動として、日本全国に広がることになる。
 さて、欧米においては「自然主義」「児童中心主義」「経験主義」の3つのカテゴリーで教育改革が進展したと考えられるのに対し、日本では「経験主義」を中心として「自然主義」や「児童中心主義」をその思想背景として一体化したものとして受け入れた。
 そして「新教育運動」のうねりを形成し、主に系統主義との対立・あるいは妥協という構図で進展していったのである。
 そのうねりの中心は、デューイの提唱する「問題解決学習」であった。
 後年の「問題解決か系統主義か」といういくつかの論争もこうした背景から起こったことなのである。(ただし、「系統主義」イコール「形式的注入主義」であるとは言っていない。念のため。)

 日本における新教育運動を概観すると以下のようになる。
年代  主な実践家・できごと  備考  

1913(大正2)
1917(大正6)
1921(大正10)
1923(大正12)
1930(昭和5)
1935(昭和10)
1937(昭和12)


1941(昭和16)
1945(昭和20)
1947(昭和22)
1948(昭和23)
1950(昭和28)


1954(昭和29)
1961(昭和36)
1984(昭和59)
1986(昭和61)
1987(昭和62)
『エミール』(三浦関造訳)出版大反響。         
成城小設置。沢柳政太郎   
八大教育主張。及川平治ら。  
奈良女高付属小の合科学習。木下竹次。         
自由学園設置。羽仁もと子   
児童の村設置。野口援太郎、下中弥三郎、戸塚廉ら  
『北方教育』創刊       
『生活学校』創刊       
教育審議会設置(昭和17年廃止) 
国民学校設置。統合カリキュラム
敗戦。         
教育基本法公布。社会科誕生。 川口プラン、桜田プラン発表 
コア・カリキュラム連盟設立  
矢川徳光『新教育への批判』  
広岡亮蔵「牧歌的なカリキュラムの自己批判」、
この頃「はいまわる経験主義」の批判      
問題解決学習VS系統学習論争  
低学年社会科論争       
臨教審発足          
社会科解体論争        
生活科の誕生  











「生活志向」学力





「基礎志向」学力
「科学志向」学力
「人間性志向」学力
「主体性志向」学力
「新しい」学力
 
          
 これを見ると、今日の生活科へとつながる教育運動には大きく3回の波があることが分かる。この3回の波は、思想として連綿と続くものである。生活科は、単なる思いつきで生まれたのではない。今、急に出てきたわけでもない。今、仮に今日の生活科誕生を含むうねりを「平成の新教育」と名づけよう。うねりの振幅は、かつてないほど大きい。その中心が生活科なのであり、今後教育が発展していくときの基礎となるのも生活科であろう。

    

            
 


    平成の新教育                    
       生活科の誕生 
      新しい学力観                                          
 
                    

   戦後新教育   
 コア・カリキュラム 
 初期社会科     
 問題解決学習        
 
        
 

 大正新教育 
 経験主義  
 綴方教育  
 

 ところで、1回目のうねり「大正新教育」は、世情が軍国主義への道を歩んだところから、立ち消えになった。そして2回目のうねり「戦後新教育」は、「はいまわり」「牧歌的」との批判から、衰退した。背後に、米ソの宇宙開発競争やヨーロッパの不況によって、「優秀性の育成」という課題がクローズアップしたという時代がある。
 では、第3のうねりである「平成の新教育」は、どのような進み方をするのだろうか。
 過去2回の新教育運動を分析し、その成果と衰退の歴史から学ぶことなしには生活科を旗印に掲げた今回の新教育も、衰退の可能性がないとは言えないだろう。      
 実は、過去2回の新教育運動と今回のものとには、大きな隔たりがある。次項で、その辺りを考察してみよう。

 考察A〜「教科」「自立」 
 「生活科」という名称そのものには、実は前例がある。           
 生活科とは、自己の直接体験を中心として、生活を観察し判断する教科を指す…従って生活科とは教科書なき教科に於て、直接児童生活の中から、生きた魚として、活教材を捕へて生活を指導せんとする教科である。(中略)  
 生活科とは子供たちが、子供達自身で、自分達の生活を観て行くところの科学でありー教師が子供に学ぶ教科である。
  (野村芳兵衛『綴方生活』1930年10月号)  
 社会科と自然科を再統合したら何ができるか。それは改めてこれを社会科と呼んでもいいし、生活科と呼んでもいいが、そんなことはどうでもいい。どうせそれは子どもには何の関係もないことである。とにかくそんな教科分立主義の枠を外して生活本位の教育に帰りさえすれば、それでいいのである。 
 このような主張を読むと、この「平成の生活科」の新しさとは何だろうと考えさせられる。前に触れたように、思想として、あるいは方法論としては、実に大正期から(欧米では15世紀から)続いているのである。

 「平成の生活科」の新しさは、次の2点にある。
(1) 低学年に205時間を配当された「教科」であること 
(2) 教科目標に「自立」を掲げていること

 (1) 低学年に205時間を配当された『教科』であること
 これまでの新教育運動における生活科は、超教科主義的な設定であった。(それは、初期社会科も同じ発想であった。)子供の生活を、教科学習の基盤としてとらえ、教科全体の核となるものとして、生活科を想定していたのである。明確に「対象学年」や「時数」を打ち出すことなく、極めて柔軟な設定としていた。これにはかつての生活科が多くは私学、あるいはごく少数の研究熱心な学校でのみ実践されていたという背景もある。

 実は、平成の生活科が誕生するかなり以前から、文部省でもこの「超教科」の考えを打ち出していた。例えば、昭和42年の教育課程審議会の答申では              
 低学年社会科については、具体性に欠け、教師の説明を中心にした学習に流れやすいものの取り扱いについて検討を加えるとともに、…児童の発達段階を考慮して、他教科、道徳等とも関連させて、効果的な指導ができるようにする。
と述べ、さらに昭和46年の中央教育審議会の答申でも            
 とくにその低学年においては、知性・情操・意志および身体の総合的な教育訓練により生活および学習の基本的な態度・能力を育てることが大切であるから、これまでの教科の区分にとらわれず、児童の発達段階に即した教育課程の編成のしかたについて再検討する必要がある。
と、述べている。しかし、現場ではこの趣旨に添った教育課程の編成はほとんど行なわれなかった。そして、例えば社会科は初期の志を見失い、どんどん教科のセクト主義に陥っていくのである。この辺りの事情については社会科生みの親である上田薫氏自身が次のように認めるところである。                  
 とにかく残念ながら社会科が久しく魅力を失ってきているということ、これは否定できないと思います。私は昭和20年代の社会科以外、社会科の名を与えたくないと考えるものですが、当時の社会科は一教科でありながら教科を越えて教育に責任をもつといいましょうか、そういう働きを自他ともに認めていたと思います。この社会科によって新しい社会を造り出さずばおかぬという激しい意欲がみなぎっていたといってもいいと思います。
  (『社会科「解体論」批判』 明治図書)

 これまでに見てきた歴史的な経緯から考えると、今回の生活科がなぜ教科として設定されなければなかったのかが、見えてくる。
 いくたの紆余曲折をへて、なお連綿と続く「新教育」への志向。文部省も、民間教育団体も、およそ40年にわたり、児童中心・問題解決の思想を「超教科」的に志向してきた。
 しかし、現場は動かなかったのだ。それは、何より日本の社会自体が経済的な進展には一応の成功を見たが、人間というものの理解に不十分で、結局は目に見える形にとらわれ、まず「諸外国に追いつけ、追い越せ」で進んできたという背景があるからである。具体的には「受験」などの問題である。
  しかし、平成の今、地球は狭くなり、知識は爆発する。情報や状況は、刻々と変化し、それにうまく対応する能力こそが必要とされてきている。もはやお手本となる外国はなく、気が付いたら国際社会の中で自己決定を迫られる立場になっていたのである。このような社会には、やはり児童中心・問題解決の学習が必要である。
 そこで、「教科の枠にとらわれず」「総合的に」と言ってきた文部省も、ついに「一つの教科として」生活科を発足させざるをえなかったのである。また、生活科を教科に据えることで、未来の教科というものの枠組みを壊すというもくろみもあるのではないだろうか。今後は、形に見える目標、あるいは教科間の線引き、時数の扱いなどが見直され、より子どもの側に立った柔軟な教育課程が求められる。その際、生活科という前例をまず作っておき、より上学年でも「平成の新教育」を推進する足場とする考えなのではないだろうか。

 また、指導要領に位置付いたということで、これまでの新教育と比べて、次の点で決定的に違う。
・全国レベルで時数を確保された。
・学習の対象を、「自分の身近な社会や自然」とした。かつてのコア・カリキュラム運動のように、その中に「教育のすべてを盛り込もう」という枠組を初めから放棄している。これにより、「はいまわり」「学力低下」に陥ることを予防している。
・対象学年を、低学年に限定した。これは、かつてもあったことであるが、子供の発達段階を重視するものである。

(2) 教科目標に『自立』を掲げていること

 生活科の目標をもう一度見る。                      
 具体的な活動や体験を通して、自分と身近な社会や自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせるとともに、その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養う。 
 この文言を、教育史及び従来教科との比較で分析してみよう。       
   文言        教育史から        従来教科では   
具体的な活動や体験を通して                                                   経験主義・問題解決学習の思想の流れ
〜コメニュウスやルソー、 デューイ、社会科や理科の主張のひとつ、新教育運動の主眼として歴史が ある
社会・理科をはじめとして従来から重視されていた。しかし、十分に実践がされていたとは言いにくい。
なお、これまで「体験」という言葉は、教科目標としては使われていなかった。
自分と身近な社会や自然とのかかわりに関心をもち                                環境をひとまとまりのものとする考えは、生活教育の流れ 
〜コアカリキュラム、生活単元学習、国民学校、木下竹次など多数
社会や自然を一体化するのは、難しかった。そこで、文部省は合科の呼びかけを盛んにしたたが、なかなか実施はされなかった。
自分自身や自分の生活について考えさせる         児童中心主義の流れ
〜ルソー、ペスタロッチ、 東井義雄など 
従来教科にはなく、道徳や特別活動の分野で扱われていた。
その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ           経験主義、問題解決学習の流れ
〜プロジェクトメソッドなど
この方法論は、従来教科でも重視されていた。
自立への基礎を養う                                      思想としては、児童中心主義の流れだろうが、全面に出されたことはなかった。
〜ルソー、ペスタロッチ、東井義雄など
「自立」という言葉は従来教科や道徳にはなかった。教科に分かれる前の教育の大前提として考えられていた。 

 以上のように教科目標の文言から見ると、生活科の基礎は「問題解決学習」であり、新しさは「自立への基礎」に向かうところにあると言えるだろう。
 「自立への基礎」とは、教育史の上では、まったく新しいコンセプトである。これまで、「自立」は主に青年心理学で「自己決定」「自己理解」「アイデンティティ」などを下位概念として研究されてきてはいた。しかし、小学校段階で、しかも一教科の目標にうたわれるというのは、画期的である。「への基礎」という但し書きがついているが、この但し書きをどう解釈するかが、大きな問題になるであろう。 また、「自立への基礎」は、全教科・領域で取り組まれるはずなのに、なぜ生活科の教科目標にあえてうたわれているのかも、生活科が問題解決学習の系譜を持つことに由来すると考えられる。
 さらに、現在の生活科研究の多くが「問題解決学習」に着目し、研究を構想していることは自然なことである。ただし、究極の目標が「自立への基礎」であることから、従来の「問題解決学習」の長短をより深く研究し、学習構造をまったく新しい発想でつくりかえなくてはならないのは明らかである。教え込みでもなく、体験させればそれでよい、でもない生活科の学習像を創り上げるのが急務である。
 いずれにせよ生活科が低学年だけを対象とし、「自立への基礎」を究極の目標としたことによって、従来教科とは次元を異にする教科となってしまった。このあたりのことから岡野啓氏(四国学院短期大学教授)は、生活科の位置付けを次のように提案している。                             
 生活科は、初期社会科の直系の後継者です。そしてそれは教育課程構造からいえば、教科の中に位置づくものではなく、教科とは異質のものと区別して考えるべきものである。むしろ、特別活動と教科との中間に位置する新しい教育課程の一領域として構想されるべきであると考えます。その方がはるかに正確に生活科の本質がとらえられますし、生活科の研究もより明確になると思います。
 生活科は従来の教科のように体系的な知識・技能を系統的に教えていく、いわゆる教科ではありません。
 しかしそれは一方で学校における日常生活、すなわち学級活動や勤労的奉仕的行事、学芸的行事、体育的行事など学校における日常生活的実践活動を行う特別活動とも若干ニュアンスを異にします。
 生活科は教科と特別活動の中間に位置し、体験的活動や問題解決的活動を行うことを目的とする新しい学習領域です。さらに「自ら学ぶ意欲や、変化に主体的に対応できる能力の育成」に直結する学習領域なのです。
 それは遊びに始まります。幼児の行動のすべては遊びですが、その中から、徐々に意味のある学習的行動が芽ばえてくる。やがて、子どもたちに目的的、意識的な問題解決行動が成長してくる。やがてしっかりした問題解決的学習が行なわれてくる。
 生活科というのは、そんなかたちをしたものだと私は考えています。
  (『生活科授業研究』 92年10月号より抜粋) 

 また、これに比較的近いと思われるのが森隆夫氏の主張である。
 生活科の教材は何か、単元構成の原理は?ときかれることがある。
 答えは、何でもOKなのである。その理由は、生活科というのは、教科の領域とか対象が何かということが問題なのでなく、教育方法が問題なのである。領域より方法が従来の教科と違うと思えばよい。従って、生活科という名称は領域を表わすので誤解を招くことになる。方法の特徴を強調して命名すれば、例えば「直接経験学習科」とか、「無意識的予習」となる。(中略)
 このように領域でなく方法にこそ「新」の意味があると考えてくると、社会科や理科の合科という誤解もなくなる。(中略)
 生活科は知識を教える教科ではない。物の見方、考え方を訓練する教科である。(中略)
 生活体験から、物の見方や考え方を学ぶ訓練、ウォーミングアップが生活科なのだから、そのとき、その都度理解できなくてもよいのだと考えておかねばならない。何となくわかったとか、わからなければわからないでもよくて、そのうちわかればよいというくらいが生活科なのである。これを筆者は「無意識的予習」ということにしている。
 (『たのしい生活科』bP エイデル研究所より抜粋) 

 両氏とも、従来教科と生活科とでは、問題解決の次元が違うことを中心に論じているとは言えないだろうか。
 生活科における問題解決は、従来の問題解決とは次元が違う。そして、この認識の希薄さが、社会科や理科の関係者の中にまだ根強くある生活科批判の壁となっているのではないだろうか。

 以上、ざっぱくながら生活科を歴史的に概観してみた。以下、ここまでに引用した教育家・実践・答申などを中心に資料としてまとめておく。 
        
2.西洋教育史に見る生活科の源流

@コメニュウス(1592〜1670) 

 コメニュウスは、チェコに生まれた。彼は、ベーコンの影響を受け、知の普及活動によって世界平和を実現し
ようと、「すべての人にすべてのことを、すべての面にわたって教授する」ために『大教授学』を著わした。
 コメニウスは、「近代教育学の父」と呼ばれるが、彼は、同時代のラトケはもちろんのこと、古く古代ギリシャ・ローマ時代の思想までを幅広く学び、それらを再整理し、体系づけたのである。
 
 人間はできるかぎり、書物から学ぶのではなく、天と地、樫の木やぶなの木から学ぶ態度を教わらなくてはなりません。  『大教授学』(明治図書)より 
 彼の教授学の原理は「合自然の原理」であった。つまり、自然の現象に教育も合わせていくべきだという思想である。これは、当時の中世の教育への痛烈な批判であった。
 
 今までのような学校の茶番が、いったい誰の役に立つのでしょう。知っていても役には立たない、知らなかったところで困らない、しかも年とれば忘れ、ほかの仕事にまぎれて消えてしまう、そんなものをおぼえてなんの足しになるのでしょう。無益な事柄には一秒も割かなくても、私たちの短い一生を充実し尽す事柄は、ほかにいくらでもあるのです。ですから、学校は、青少年の心が真剣な事柄だけに向かうように努めなければなりません。
 ですから、目をものを見るように駆り立てる必要がありません。目は自ら開きますし、地上にある目に見えるものすべて喜んで見ますし、すべての事柄を十分に見つめることができます。  (同書) 
 当時の教育は、少数のエリートを対象とした教養の詰め込みが主であった。
 しかし、彼はすべての人間が教育を受けるべきだと考え、またすべての人間に生まれつき備わっている「事物の認識を獲得する力」を基礎に置いた教育を構想していた。 さらに、教育の方法についても 
 まず第一に、子どもの感覚を訓練し(これがいちばんやさしいのですから)次に記憶力を、それから認識能力を、最後に判断力を訓練するようにしなければなりません。つまり、こうすれば段階を追った連続が出てくるわけです。なぜなら、知識は、感覚から始まり、写像作用を経て記憶の中に移り、次いで個々の知識の帰納によって普遍的な認識に形づくられ、最後に事物が充分に認識されれば知識の的確さに応じて判断力がつくからです。 (同書)  
と、段階を明らかにしている。
 ここに、自然との直接的な触れ合いを重視し、子供の意欲を喚起し、まず感性を高めることを第一のものとする思想が表明されている。これを見ると、はるか 400年近く昔に、生活科の教育思想の源流があったと言わざるをえない。
 そして、彼の思想はその後ルソー、ペスタロッチ、フレーベルらへと引き継がれていくのである。
 
Bペスタロッチ(1746〜1827) 

 ペスタロッチは、チューリッヒに生まれた。彼は都会生まれの都会育ちであったが、夏休みを過ごした寒村ヘンクの窮状を見て、事故の生涯の使命を貧民救済と定めた。その後、曲折を経て1798年シュタンツに孤児院を開設、実に彼が52才のときのことである。このようにコメニュウスやルソーが学者であったのに対し、ペスタロッチは真の社会改革は教育実践によってのみ達成できるという信念によって、終生を貧民の救済と孤児らの教育に捧げた実践家であった。 
 わたしは全孤児院そのものを秩序正しく経営していくために、さらに一箇の高い基礎を求め、しかもそれをいわば創造しなければならなかった。のみならずこの基礎のできないうちは、孤児院の教授も学習も十分には組織できなかった。わたしもそんなことは欲しなかった。教授も経済も学習も先走った計画からではなくて、むしろ子供とわたしの関係から発展すべきだった。わたしはそこにもまた高尚な原理と陶冶力を求めた。それは孤児院の高尚な精神と子供自身の調和的な注意と活動とから生まれてこなければならず、また彼らの生活と彼らの要求と彼らの社会的関係とから直接生まれてくるべきものだった。
  『シュタンツだより』(岩波文庫)より 
 ペスタロッチは、シュタンツにおける活動を彼自身のイデオロギーから起こすのではなく、どこまでも目の前の子供から起こそうとした。『シュタンツだより』には、孤児たちの悲惨な状況と、ペスタロッチの献身的な世話の様子が描かれているが、そのような状況にただ疲れるのではなく、むしろそこに喜びを見出している。 彼は、「三十年来一冊の本も読んだことがありません。」と言っているが、孤児たちを注意深く観察することが彼にとっては、何よりの研究であったと言えよう。「先走った計画からではなく、むしろ子供とわたしの関係から発展」したのは、次のような卓見であった。 
 ですから、人間に対する教授は、すべてその本来の発達に向かっての自然本性のこの努力に手をかす技術にほかなりません。そして、この技術の本質は、子供に刻みつけられる印象と、子供の能力の発達の程度との均衡及び調和をはかるというところにあります。
  『ゲルトルート児童教育法』(明治図書)より 
 これは、生活科でいう「支援」の思想である。彼は、支援が子供の内面においてどのような形で成就するかを視点において論じているのである。さらに彼は、子供に対する教授(イコール支援と言ってよいであろう)の3原則を次のように整理している。
(1) かれらの直感の範囲をどんどん広げるようにすること。
(2) かれらが意識するに至った直感を明確に、確実に、そして混乱することなく、かれらに印象づけること。
(3) 自然や技術がかれらの意識にもたらしたもの及びいくらかはもたらすはずのもの、のすべてに対して、十分な言語上の知識を与えること。  (同書) 
 子供たちを注意深く観察し、彼らの「直感」からその教育を始めようとしたのである。『ゲルトルート児童教育法』から2年後には『直感のABC』という本も出版している。さらに後年、次のように論を進めている。
 特にわたしの信ずるところでは、子供がものを思索し始めた最初の時期は、言葉本位の教授や、また学習者の精神状態と彼の外部関係とに適合しない教授によって乱される。教育上の命題というものは、現実の諸関係と切り離せない直感的な経験を考慮して初めて正しいものとして確かめられるのだ。 
 『シュタンツだより』(岩波文庫)より 
 コメニュウスのいう「感覚」の認識がここにきて、より進められていることが分かる。生活科以前の教科学習の弊害として、「直接経験の軽視」が挙げられていたが、ペスタロッチが聞いたら悲しんだことだろう。

Dヘルバルト(1776〜1841) 

 ヘルバルト教育学は、生国ドイツはもとより、世界各国の教育に大きな影響を与えた。とりわけ、アメリカと日本の教育界には顕著な影響を与えた。これは、ヘルバルト学派のハウスクネヒトが明治20年代に帝国大学で教育学の講義を行なったためであろう。ヘルバルトの功績は教育理論・教育実践のレベルを、科学性を加味した教育学へとレベルアップしたことにある。
 中でも教授方法を段階として捉えたことと、それの対として子供の学習過程を表象心理学として体系付けたことの意義は大きい。  
 興味は、興味ある対象及び仕事から生ずる。(豊富な)対象及び仕事から (多面的)興味が生ずる。この興味を喚起し、適切に提出することが(教授)の仕事であり、教授は、経験と交際に由来する先行活動を継続し充足する。
  『一般教育学』(明治図書)より 
 ヘルバルトは、教育における教授を上のように定義付けた。「経験」への立脚をうたっているのはルソーの思想を源流としていることの表われであろう。しかし、彼はルソーの思想とは次の一線で画した。 
 人間を自然にまかせようとしたり、あるいは更に自然に導いたり、自然に即して陶冶しようとするなどと望むことは愚かなことである。一体、人間の自然とは何だろうか。  (同書) 
 そして、教育と教授が結合した「教育的教授」を主張したのである。その中で、彼は「認識」「同情」「興味」「表象の定着過程」「4段階教授法」などについてその構造を明らかにしていった。 
 「認識」についての彼の整理は次のようであった。             
1 認識は眼前にあるものの像を模写する。
2 認識にあっては事物とそれの映像(表象)との間に対立がおこる。 
3 認識の対象は静的であるのが普通で、そこでは心情はひとつの対象から対象へと移行する。
4 認識における対象の範囲は自然と人間性を含んでいる。
5 知的活動はいつでもはじめてである。ここでは大人でも子供でも、その感受力は同じである。 
  (「ヘルバルトの教育思想」(山@英則)より) 〜『西洋教育史』(ミネルヴァ書房)所収
                                     
 また、「興味」については下表のように定義付けられている。




多様なものの認識に対する興味   現実的なもの、すなわち、自然や現象の多様性、すなわち、強烈さ、華麗さ、新奇さ、継続的変化に依存している興味





 
多様なものの法 則的諸関係の認 識に対する興味   現実的な諸関係において必然性が認識されるか、又は少なくとも前提される。従って、この興味の対象は諸概念であり、概念の対立や組み合わせであり、直観を総括する概念的手法である。




多様なものの美 的諸関係の認識 に対する興味   趣味が付加物を直観に与えるために、趣味判断はすべて 完成された諸表象の働きにどこへでも随伴する。従って、この興味の対象は心像であって存在ではない。諸関係であって、種々の事物表象やそれらの集団ではない。




人間性に対する 同情への興味   同情とは、人間の心情の内に起こるいろいろな感情の動きである。従って、この興味の対象は感情の経験であり、感情の相違や衝突や矛盾である。




社会に対する同情への興味   この同情は、一般的な幸福に愛着を感じて、個人に向かう同情である。従って、この興味の対象は、全体としての幸福な生活であり、より良い社会の在り方である。




前両者の最高実在への関係に対する同情への興味   この同情は、より良い人の心の在り方への畏敬と希望であり、神の国への憧憬と奉仕である。従って、この興味の対象は宗教、道徳、福祉的生活である。

 また、「4段階教授法」とは、先に引用した子供の「多面的な興味」が学習の対象と接触することで、子供の内にある表象を描かせ、それがその子供のそれまでの認識体系に「明瞭」「連合」「系統」「方法」の4つの段階を経て定着するという仮説と、それに対応する教授の方法を整理したものである。
 この考えは、日本においても一般化した「学習指導案」の原形と言える。日本の教育史においては「指導案」の功罪が大きいと言われているが、それはヘルバルトの「教授」過程にスポットを当てた主張を部分的に取り入れたためであると考えられる。ヘルバルトは、教授法を整理して、学としての教育を論じたが、その思想の背景には、やはり経験を重視している。終わりに、再度彼の「教授の前提」論を紹介しよう。
 実際、教育において、誰が経験と交際を欠くことができるだろうか。そのようにすることは、あたかも太陽の光を欠いてローソクの光で満足するようなものだ。ーわれわれすべての表象にとっての豊かさ、強さ、それぞれの明確さー普遍の応用における練習、現実や国、時代への適合、あるがままの人間の忍耐ーこれらはすべて精神生活の源泉である交際から引き出されなければならない。
 生活全体、人間の観察全体が裏書していることは、すべての人間は、自分にふさわしいものを自分の経験や交際から獲得しているということであり、また彼は、概念や心情を、ここで形成し身につけるということである。  『一般教育学』(明治図書)より 
  
Eモンテッソーリ(1870〜1952)
 
 マリア・モンテッソーリは、イタリアに生まれた。はじめ 医学を志し、博士号をとったが、30才になってから、ローマ大学哲学科に再入学し、心理学や教育学を学んだ。
 1907年、周囲の猛反対を押し切って「子どもの家」を開設し、貧しい子供のための教育を始めた。その中で、彼女は自分の教育実践の中から理論を発見した。それは、子供が我を忘れて没頭する「注意の集中現象」の観察から、子供の自発性を尊重し感覚訓練を行なう「モンテッソーリメソード」である。               
 観察の教育学的方法は子どもの自由をその基礎としている。自由とは活動性である。
 活動的に躾られるために子どもが獲得しなければならない最初の観念は善悪の区別である。教師の仕事は善と不動、悪と活動を混同しないよう気をつけることである。こうした混同は古い規律の場合しばしばあった。こうしたことからわれわれの目的は活動に対して、作業に対して善に対して躾ることであっ て、不動、受動、従順に対してではない。子どもすべてが有益に、知的に、主意的に動き回り、粗野で乱暴な行為をしない教室は、真によく躾られた教室であるように思われる。
  『モンテッソーリ・メソッド』(明治図書)より 
 モンテッソーリは、子供の「自由」を大切に考えていた。彼女の考える「自由」とは「善悪の躾の上に立つ活動の自己選択」であった。彼女は、子供が活発に、自分から動くことをまず、第一に考えたのである。
 自由をその基礎としようとする教育方法は、子どもがこれらの様々な障害を克服するのを助けるために介在しなければならない。要するに、子どもの教育は、子どもがその活動を制限する社会的拘束を合理的な方法で少なくしていくのを助けるようなものでなければならない。子どもがそのような環境の中で成長するにつれて、次第にその自発的表示はより明確になり、真理の明確さをもってその本性を表わすだろう。このために、教育的介在の第一の形式は、子どもを独立に向けて導かなければならない。
 非常に幼い子供たちについての教育目標は、知的、精神的、そして身体的な個性の自然な発達を援助することであらねばならず、子どもを一般に受け入れられている言葉の意味での教化された個人にすることではない。  (同書)  
 子供の「自由」を保障するために、教師のすべきことは「援助」であると言う。 これは、生活科の発想とまさしく一致する。
 モンテッソーリの描く子供像は、「秩序ある環境の中で自己発達を遂げ、自ら秩序だった本来の姿を呈する(正常化した子供)」であった。          
 作業を好み、秩序を好み、沈黙を愛し、一人で黙々と作業する。また、所有本能は浄化され、好奇心からではなく真の選択から活動する力を持っている。また柔順で(服従ではなく)しかも独立心に富み、自発的に自己を規制することができ、心から喜びを現わすことができる。つまり、正常化した子どもは、情緒も安定し、落ち着きもあり、明るい性格に変わり、秩序感もあり求知心に燃えて前進を続けるのである。このような子どもはそれほどまでに自我の成長自己の確立をとげた、少なくとも自己表現の方法を見つけた子どもになっている。 (同書) 
 これは、生活科で子供を観察するときの、ひとつのモノサシになりうるだろう。

Hキルパトリック(1871〜1965) 
 キルパトリックは、アメリカの教育学者である。デューイの教えを受け、「教育は、生活である」と主張した。彼によれば、教育の過程とは社会的過程すなわち人と環境との相互作用によって自己を改造していくものである。その具体的方法として「プロジェクト・メソッド」を提唱した。
 プロジェクト・メソッドとは、概略次のような学習法である。        
 問題解決学習法において、単元の中心となる観念が疑問または問題の形で提出され、それが精神的活動の領域で解決されるようなものである場合には、その学習指導法はプロブレム・メソッドとよばれる。それに対しそれが、たとえばウサギ箱をつくるとか、衣服をつくるというような、物を対象とする課題である場合には、その学習指導法をプロジェクト・メソッドとよぶ。
  『平凡社世界大百科事典』より 
 プロジェクト法は、一種の問題解決の学習法である。子どもみずからが、
 @学習の「目的を立て purposing」
 Aそれにかかわる具体的な「計画を立て plannning」
 Bそして実際に「遂行し executing]
 C結果を反省的に「判断する judging」 
という過程を辿って展開されるという。しかも、その学習のなかで、「目的ある活動 purposeful activity」が、全精神を打ち込んだ状態で遂行されるときその学習過程には、おのずから性格形成にかかわる「付随学習 concomitant learning」の成立が、ことのほか強調された。
  『人間形成の近代思想』(第一法規)より 
 この方法は、生活科教育の方法に限りなく近い。
 次に彼自身の教育学的考察を見てみよう。                 
 古い教育様式はもともと、子どものあたまは、当時の習慣になっていた言葉で言えばまだ書かれていない石版〔tabula rasa〕であると見なしていた。教育は本来この石版の上に書くこと、すなわち「そこにあるべきことを子どもの記憶」にたくわえることであり、それにたいして「たとえ今は反抗しても子どもが成長すればそれに感謝するであろう」と考えられた。ここで、以上のような考えと対照的に、子どもを出生時から、行動し感じている人間としてみ、子どもの現在の身分を尊重し利用することによって、適切に指導された実際生活の内外において継続的成長がおこるのを助けるような学習理論が求められる。
  『教育哲学』2(明治図書)より
 ここに、彼の人間観・子供観が述べられているが、師のデューイのそれと基本は同じであることが分かる。人間・子供をそもそも知的な存在として捉え、さらに学習過程の中の人間を「目的追求生物」(goal seeking organism)と理解したのである。そして、その人間・子供を教育する原理として次の4点を挙げている。
(一)学校をもって、本来生活する場であると考える。すなわち教師と生徒たちが、実行可能な限り地域社会にもおよんで、ともに工夫できるもっとも優れた生活の質を求めて努力する。(以下略)
(二)興味の原理と目的ある活動の原理が、有力な教育の様式を設定する。生徒たちが興味を感じているところから出発して、あたらしい興味や、あたらしい知識・技能・態度などを形成するように指導する。生徒が目的を持ち、自発的に動き、創造的であり、責任感をもつことを強調する。(緊急事態ではもちろん積極的な教師の支配を要求するが)原則としては、強制をすることもなく、罰もない。
(三)民主主義と人格の尊重を基盤として、すべてを運営する。(以下略) 
(四)授業の期間にこだわらず、生徒の成熟と発達によって、もっとも優れたまたもっとも包括的な生活の目的のために力をつくす。  同書 
 これがプロジェクト・メソッドの基礎となっているのであるが、思想・方法両面にわたって、生活科が学ぶべきものは多い。 

Iニイル(1883〜1973) 
 ニイルは、自由教育の父と呼ばれている。スコットランドに生まれた彼は、当時の暗記中心の学習になじめず、学業不振であったが、いくつかの職業を経て見習い教師になってから、エジンバラ大学に入り直し、教育学を学んだ。そして、当時の知識偏重の教育に反対して、遊びを重視する自由教育を主張し、やがてドイツに全寮制で男女共学のサマーヒル学園を創設した。            
 書物は学校において、もっとも重要さの少ない道具である。いずれの子どももみな必要とするのは読み書き算数であるに過ぎない。それ以外は、道具と粘土とスポーツと劇と絵画と、そして自由ということになる。少年時代にやらせられる学校の勉強の大部分は、単に時と勢力と忍耐の浪費に過ぎない。それは子どもの遊び、遊ぶ権利を奪うものであり、子どもの双肩に大人の頭脳をになわせるものである。
 わたしが教育大学やその他の大学の学生に講演にいって、しばしば驚かされることは、役にも立たぬ知識をつめこんでいるこれらの男女学生が、いかに大人気無い未成熟さをもっているかということである。彼らは多くの知識をもっている。理屈も立派である。古典を引用することもできる。しかし人生上の彼らの見解は、その大部分はまことに幼稚なものである。彼らは知ることだけに教育されおり、感ずることができるように教育されていないからである。
   『人間育成の基礎』(誠信書房)より 
 「自由」「遊び」「感ずることができる」こそが大切であり、「知識」「理屈」「古典の引用」は無意味であるとニイルは言う。そして、学校というもののあり方を見つめ直すように訴える。                        
 子ども時代は遊びの時代である、ということを認めるとしたら、この事実に対してわれわれ大人は、いったいどのようにしたらよいであろうか。われわれはそれを全く知らない。われわれはそれについて何もかも忘れてしまっている。というのは、遊びはわれわれにとって、時間の空費であると思っているからである。だからわれわれは、大都市の学校を建て、多くの部屋と、多くのぜいたくな教具を用意しながら、われわれのすべては、子どもの遊戯本能に対して小さなコンクリートの空間を提供するだけで、それ以上の何もしていない。 (同書) 
 サマーヒル学園は、学習や生活習慣への一切の強制を廃し、子供と教師が自由と平等の空気の中に生活していた。そこでの学習は「遊び」を原理とし、子供の創造性を伸ばし、子供の「自立」を目指すものであった。ニイルの主張は、急進的でありすぎ、またその論法は皮肉まじりの痛烈な批判調であったため、なかなか受け入れられるのに時間がかかった。しかし、サマーヒル学園の理念は、多くの人に受け継がれ、フリースクールとして今では日本を含む世界中に広がっている。中野重人氏は「生活科は『窓際のトットちゃん』の『トモエ学園』に学びたい。」と述べているが、「トモエ学園」も、サマーヒル学園の理念を受け継いでいると言われている。

Jブルーナー(1915〜  
 ブルーナーといえば、『教育の過程』があまりにも有名である。1960年に刊行された『教育の過程』は、ソ連の宇宙船打ち上げ成功によるいわゆるスプートニクショックが発刊の契機となった。ソ連の国力に、科学教育のカリキュラムで対抗しようとしたウッズホール会議の成果がまとめられている。
 ところで、そのブルーナーが『教育の過程』に対する反省の後述論文「The Process of Education Reconsidered 」を発表している。1971年、『教育の過程』 の発刊から10年後のことである。
 カリキュラムの改革だけで十分だろうか。それとも教育体制全体のもっと根本的な構造的再編が命令的必要となってくるのではないだろうか。
 わたしが答えうるすべては、アメリカ教育は今やまったくの危機の状態に入った、ということであった。アメリカ教育は、変化する社会的必要に応えることができなくなってしまって、社会を先導するのではなくむしろ社会におくれをとってしまった。
 1970年ごろになると、教育改革の関心はもはや、学校を、カリキュラムによって内部から変革することではなくて、社会の諸必要に全学校を総体として再適応させること、つまり学校を制度として変革することであった。われわれに向かって挑戦するようになったのは、もはや改革ではなく革命である。
 いかにしてわれわれは、子どもたちの失われたイニシアチブ(主導性)と自己の有能の感覚とを回復させたらよいか、いかにしてわれわれは、学習意欲を失っている子どもたちがふたたび学習意欲を回復しやる気を起こすように活動づけたらよいか、といった問題にかかわることになるだろう。
 当時のわれわれはカリキュラムの観念に固執しておったがために、相互扶助について考えることをしなかった。 
 「『教育の過程』を再考する」(『現代教育科学』1974年1月号)より 
 『教育の過程』が、教育の現代化に果たした役割は大きい。
 「構造化」「レディネス」「直感的思考と分析的思考」「動機づけ」「スパイラルカリキュラム」などの用語は、今なお我が国の教育論文の多くに見られる。その主張の当事者が、「危機の状態に入った」と、反省の弁をふるっている。そして、その原因を「イニシアチブと自己の有能の感覚」「学習意欲」「相互扶助」などの、学習の主体としての子供育成の観点の欠如であると分析しているのである。             

 
3.日本教育史に見る生活科の源流 
@及川平治(1875〜1939) 
  及川平治は、宮城県に生まれ、宮城師範を卒業後同付属小訓導及び東京の小学校教員を経て兵庫県明石女子師範付属小の主事となる。そこで『分団式動的教育法』『分団式各科動的教育法』などを著わす。1936年以降は仙台市教育研究所所長を務め、広く教育界に指導的役割を果した。                  
 教育の当体は児童なり。児童はあらゆる教育的企画の決定的要素なり。かかる教育を児童本位の教育と称す。
 衝動は教育の手掛かりなり。衝動を規正善導して理想に導くは即ち教育なり。衝動の規正善導は為さしむることなり。ゆえに為さしむることによりて陶冶するを教育の本質とす。

 動的教育、すなわち為すことによって学ばしむる教育の本質は、 
 (1) 児童の直接経験を尊び、児童自身の判断に訴うる教育を施すこと。
 (2) 児童の独立的活動的仕事を激励すること。
 (3) とくに作業を尊重す。これによりて実用的道徳的善的身体的陶冶をなすこと。
 (4) 各教科目の教育は、生活に連絡すること。とくに筋肉運動を要するものを学ぶべきこと。
 (5) 為すことによりて知能を構成し、為すことによりて真理の確信を増し、為すことによりて人類の貢献者たることを自覚せしむること。
   『教育改革者の群像』(国土社)より  
 この主張は、「動的教育論」の一説である。これは、1921(大正10)年に東京で開催された八大教育主張を契機に一気に全国に広まった。           
 「当体」とは現代語では「主体」、「衝動」とは「子供が持つ活動への意欲やエネルギー」といったところであろう。また、「為さしむることによりて陶冶する」は、デューイの“Learning by doing ”の訳であろう。 それにしても、「直接経験」「児童自身の判断」「生活に連絡」は、生活科そのものと言ってよい思想である。                       
 要するにもっと健全なる国民をつくりたい。もっと活動的な国民をつくりたい。それには現行教育のごとく児童に対して『われの教えるだけ記憶せよ』と強要するような静的教育ではいけない。どうしても児童を発動的態度に出でしむる動的教育に改めねばならぬ。  同書 
 生活科では「座学からの脱却」がアピールポイントの一つとなっているが、同じ発想がここに述べられている。「発動的態度」とは、子供自らが動きだすようすを表現した言葉であるが、正に生活科の発想そのものである。
 なお、及川の著書に「分団」という用語が使われているが、これは個性や能力に応じて適宜編成するグループの意味である。これも、「新しい学力観」にかかわりが深いと思われるが、本稿では割愛する。

A国民学校における「自然観察」 
 昭和16(1941)年、国民学校制度が発足した。この国民学校においては、従来の国語、国史、地理、修身を統合して「国民科」に、算数と理科を統合して 「理数科」に、体操と武道を統合して「体練科に」、音楽、習字、工作を統合して「芸能科」に、農業、工業、商業、水産を統合して「実業科」に、というように教科の統合を大胆に取り入れた教科構成がなされた。
 この統合の理由は、中野重人氏によれば「教科統合の理由のその一つは、皇国民の育成という国民学校の基本方針を実現するために教育の生活化を図ろうとするものであり、その二つは、いわゆる大正新教育における合科・総合学習などの成果に学び、それを可能な限り受け入れたものであったということである。」 
 ここで取り上げる「自然観察」とは、「理数科」の中の1〜3年生の理科の呼称である。当時の文部省は、「自然観察」開設の理由を次の様に指摘する。    
(1) 児童は、就学以前から自然に興味を持っている。自然の中で自然と共に遊び、自然に驚異を感じ、自然からいろいろなことを学びながら、経験を積み、生命を発展させている。又、機械・器具の利用されている現代に生活している児童は、これらに接して経験を重ね、殊に舟や車や飛行機などに関心をもち、いろいろな玩具をもてあそび、これ等からいろいろなことを学び、又、工夫する態度も養はれて来ているのである。このやうな発達過程にある児童を学校に於て指導するには、その過程に順応すべきはいふまでもないと ころであって、これに対して何等の考慮を拂はないときは、児童の自然物・製作物に対する興味の発達を中断することになり、将来の発展の支障となるのである。即ち、低学年に於て、このやうな指導をすることは、寧ろ当然のことといはなくてはならない。
(2) 理科指導の目的を達成するには、自然に親しみ、自然を愛好し、自然に驚異の眼をみはる心が養はれなくてはならない。又、自然のありのままの姿を素直につかまなくてはならない。かやうな修練は、主客の未分化な時期に於ける指導が極めて重要な意義をもつものである。知情意一体となって対象にはたらきかえるには、この時期の学習を疎かにしては、殆ど不可能といってよい。生命愛育の念も、理知の働きの発達が著しい時期よりも前に、その基礎が養はれなくてはならない。生活を秩序正しくし、科学的に処理する躾も、この時期を逃しては、身につけることが容易ではない。即ち、理数科理 科の目的を最も有効に達成するためには、是非とも適切な指導をしなくてはならない時期である。
 文部省『自然の観察』教師用(一)より 
 ここに述べられているのは、「自然の観察」の前後、すなわち入学以前の子供の生活との連絡と高学年理科への接続についである。これは、このまま現在にも通用する。もちろん、「自然の観察」は生活科と同じではない。生活科は、身近な社会も学習の対象にしているし、自己認識を中心として「自立への基礎」を究極のねらいとしている。しかし、「理科」が、このようなスタートを切っていたということは注目に値するであろう。
 内容としてはつぎのようであった。(1年生の第五課「春の野」)   
第五課 春の野(一日) 
 目的 
 広々とした野山の自然に接しさせ、自然と共に遊ばせながら、野山の春の姿を強く印象づけ、自然を見る眼を養ふ。

 要項 
 これまで各課を通して、自然に関心を持ち、親しみを感じるように児童を仕向けて来た。しかし、校庭を中心としていたから、自然とはいっても、著しく狭い処に限られていた。そこで、この課では一日を費やして、少し離れた野山へつれて出ることにする。野山には、豊かな自然が、生き生きとした自然、調和の取れた自然がある。そこには、校庭で見られない新しいものや珍しいものがたくさんにある。たとへ、日常見なれている木や草や虫でも、広々とした野山で見つけたときには、新しい感銘が湧くものである。このやうな自然に接すれば、自然を見る眼はしらずしらず肥えて来る。ここに、野山の自然に接しさせ、自然と共に遊ばせる一つの理由がある。
 また、四季折々に変わる自然の姿は、野山に行って始めて鋭く感じることができる。この季節に対する印象を深めておくことは、自然を知る上にも、情操を高める上にも必要なことである。
 かやうにして、やがてわれらの生を支へている自然を知り、風土を知り、これになつかしみやありがたみを感じるやうになって来るのであって、ここに教室や校庭にばかり閉じこもらせないで、広い野山を学習の場とする大きな意味がある。

観察の要点                             
 野山の有様は季節に応じて変って行くものであるが、この程度の児童にはまだその関連をはっきりと認めさせることはできない。それで、初めから四季の移り変わりの一つとして、春の色々なことをわからせやうと思ってはならない。ただ、四季折々に直接に経験させて、物に触れての直接の喜びや驚きを感じさせることから始めるのである。(中略) 
 春の野山には色々な花が咲き、鳥がさへづっていることを実際に見せたり、聞かせたりすることから始め、色々な春の野山の印象をはっきりさせることに努める。このとき、個々の草木の形態観察を直接の目的として強ひることは避けるがよい。この程度の児童は、例へば草を手にしても、花や茎や葉などのこまかいことを、とやかくせんさくするのをおもしろがるものはあるまい。随って、形態については、こまかいことには立ち入らないで、草木をもてあそんでいる間に、おのずから気づくのにまかせておけば十分である。(以下略)
  文部省『自然の観察』教師用(一)より  
 このように、積極的に外へ飛び出して、遊びを中心に学習を展開していたことが分かる。これは、正に生活科そのものであると言ってよい。
 (なお、この項の資料はすべて明治図書の『生活科授業研究』誌1992年11、12月号の中野重人氏の連載「生活科の教育的ルーツを求めて」から引用した)

B成蹊小学校の実践 
 昭和22年(1947年)、東京郊外の成蹊小学校において「生活学習」が始められた。敗戦の昏迷もひと段落付き、教育課程を次の3領域に大別し、学習計画の組織化を図ったのである。
1.生活学習課程 
 社会的な問題の解決を主とする生活単元の学習として、主要経験と日常生活、行事を中心におく。
2.基礎学習課程 
 美的鑑賞・表現を中心とする創作的・文化的学習をはじめとして、基礎的技術の修練を中心とする基礎的能力・技術の学習。および、身体の保護や調和 的発達を中心とする健康・体育の面の学習。
3.文化的学習課程
 子どもの自主的、自発的な学習意欲を高め、創意工夫の心を培うために、個人の自由意志に基づく自由研究を行い、それぞれのテーマについての問題解決に当たる。
  「新教育当時の総合・合科学習の実践」『社会科教育』1984年7月号  
 この教育課程の背景には、問題解決学習への指向が色濃いが、その基本的な思想は次のようであった。                           
 子どもは、学校でも、町や村でも、家庭でも、常に新しい環境から与えられる新しい条件に反応し、適合していこうとして、変化や影響を受ける。その過程の中に、生活の形成が行われる。そこには、絶えず新しい疑問や問題がとりまいてその解決を迫ってくる。単に個人の問題であるばかりでなく、その所属するグループや学級の共同の問題として生起する。そして、それぞれに自覚され、課題を解決する過程を通して発展が認められるのである。
 解決の結論を教師が教えこんだり、あるいはその知識を学ばせることではない。あくまでも子どもの現実の生活の中から問題を発見させ、その問題が共通の学習活動の対象としての課題たるに十分な価値をもっているかを批判させ、その解決への方法を探究させ、示唆しつつ、行動的協同的実践として学習活動を展開させねばならない。それまでに身につけている表現力、思考力、批判力、理解力などの能力と技術とを活用してこの学習が押し進められることになる。しかし、時にはその活動の進行過程において、それらの諸能力、諸技術の不足な点が反省され、発見されて、基礎教科的な学習の必要を感じ、その方面の基礎学習の展開がうながされてくる場合もあろう。
 そのように考えてくると、生活学習は、社会的な生活、自然的な生活、芸術的な生活といった広い振幅をもつ生活的領域に足をからみつけているといえる。
   『生活教育研究』(成蹊小学校教育研究所23年8月刊)より 
 では、具体的にはどのような実践が行なわれていたのであろうか。 
まず、時数を見てみよう。
                                       
《時数配当一覧》  
区分     学年
生活単元学習    13 13 11 10 10 10
基 礎 学 習         国語     
算数     
理科     
音楽    
図工     
家庭     
体育     
英語     
図書館    
自由研究     
自治活動(桃の会)
週時数 22  24  25  32  34  34 
  これらを見ると、いかに「生活学習」に力を入れていたのかが分かる。1、2年生では実に週時数の半分が「生活学習」である。 

C木下竹次
 

 木下竹次は、大正新教育運動の中心となって活躍した理論家・実践家である。彼には『学習原論』『学習各論』の大著があるが、この2大著書に当時一般的であった「教授」ではなく「学習」を冠したのが木下の面目躍如といったところであろう。                                   
 私は学習の名称を用ゐぬ。時には自律的学習と云ふが、その自律的たる形容詞も時には誤解の趣旨となることがあるから用ゐない方がよいかとも考へる。只教育と云へば教師の側面から眺めた様に思はれるから、児童の方から眺めた学習と云ふ名称を用ゐるのである。
  『学習原論』(明治図書)より 
 さらに木下は、この児童中心の教育を具体的に、こと細かく、しかも体系的に論じているが、その中心思想がもっとも端的に表現されているのは「合科学習」であった。彼は、合科学習の意義をつぎのようにまとめる。
(1) 低学年の不自然な教育法  
 学習法が実施されて漸次其の効果が見える様になっては如何にしても低学年の教育法が不自然で不都合で仕方がない。何故に各児童を最初から能力相応に発展させないのか。何故に渾一的生活を発展させないのか。

(2) 家庭教育法は教育の大径 
 私が合科学習に想到したのは、如何にすれば低学年の児童が自ら学習内容を定められるかの疑念が端緒となったのである。暫く考へている間に不図思ひついたのは児童が入学する前の家庭生活である。此の家庭教育固有の意義を保持しつつ更に之を改良して之を学校に延長したならば、必ず低学年の児童も学習することが出来て人生を渾一的に発展させることができる。

(3) 複式学級と家庭的学級と学習法 
 複式学級の方が比較的社会性を多く帯びている。若し此の複式学級を一の家庭の様に組織し合科学習法を実施したならば、恐くは単式学級に於けるよりも有効な効果を挙げることが出来るであろう。

(4) 合科学習法実施前の苦心と実施後の安堵
 学校教育には法令上一定の要求があって是非共その要求を充たさなくてはならぬ。学校教育には堅い伝統形式があって之を破ることは容易ではない。
 所謂学力は一時に低下しても真人至人を養成することには合科学習の実施は必要である。幸にも実施後の経験によると反って初学年から所謂学力も高くなることを経験した。勿論此の間に教育者の非難も父兄のうちの一二の反対はあった。

(5) 合科学習に対する思想の変遷
 最初合科学習を実施した時には低学年には合科学習を実施し、上学年には分化学習を実施する考へであった。所が分科学習に於ても其の生活単位の取扱いは合科主義でないと都合がわるい。此の合科的取扱が学習法の精神に適合するとすれば最早合科学習と分科学習とは相対立するものではない。合科 学習から分科学習に這入るのではない。合科主義を以て一貫するならば、便宜上合科学習を大中小の三種に分ち、尋常小学校に於て始二学年は大合科学習、中二学年は中合科学習、終二学年及び高等小学校は小合科学習を行うことと変更したら宜しからうと思ふ。此の小合科学習が従来の分科学習に相当するものである。

(6) 合科学習の名称と意義
 最初に合科学習と合科教授とを区別する必要がある。云うまでもなく教授は教育の一部であり、学習は教育の全部である。学習法は学習者が自ら生命そのものを確把して生々発展させて行く方法である。只結局に於て生命が全一的に進展すればよい。教科はあるが生活が無いと云う様にならねば宜しい。 (同書) 
 このように、積極的に全学年において合科の学習を行なおうとしていた背景に 「生活の発展」「生命の全一的発展」という生活科の思想が明確に示されていたのである。

D梅根悟(1903〜1980)
 1948年、コア・カリキュラム連盟が発足した。教育基本法が公布され、『学習指導要領一般編(試案)』が発表された翌年のことである。この連盟の生みの親が梅根悟である。
 コア・カリキュラムとは、19世紀後半にドイツのツィラーが提唱した「中心統合法」(konzentration)に由来し、1930年代にアメリカで提唱されたものである。ツィラーは、歴史的情操教科を中核教科(Zentrum) とし、他の教科・教材をこれに関連づけることによって、全体として統一のあるカリキュラムを構成しようとしたものである。日本のコア・カリキュラムは、1934年に公表されたヴァージニア・プランを元に、精力的にカリキュラムづくりに取り組んだが、梅根によれば「カリキュラムの形態以前の現実的な問題が自覚されるにつれて運動は停滞した」(平凡社世界大百科事典)ということになる。
 このコア・カリキュラム運動の中に、生活科の源流というよりも、限りなく生活科に近い思想や実践が見られる。                                                        
 このような考えから私は、社会科と自然科とがさらに再統合されることを要請せざるを得ない。私は少なくとも子どもの生活意識としては社会科とか自然科とかいう教科の区別はない方がいいと考えている。子どもは工場を研究したり、水道を研究したり、害虫駆除のことを研究したりしていればいいのであって、それをこれは社会科、これは自然科と分類する必要は少しもないのであ る。今日は、この時間は、社会科のお勉強です、それで今日は工場を見に行きましょう。というような指導態度は子どもを生活者としての立場に開眼することを妨げるものであると言わねばならぬ。
 社会科と自然科を再統合したら何ができるか。それは改めてこれを社会科と呼んでもいいし、生活科と呼んでもいいが、そんなことはどうでもいい。どうせそれは子どもには何の関係もないことである。とにかくそんな教科分立主義の枠を外して生活本位の教育に帰りさえすれば、それでいいのである。その上で星の研究をさせるのもいいだろうし、学校の校舎の修理をやらせこともいいだろう。そしてそれら一つ一つの仕事に中にはいろいろの思考活動が含まれているだろう。
  『教育と社会科』(河出書房)より 

 しかし、この主張と実践は数年で「はいまわり」「牧歌的」と批判されるようになる。時代は戦後の混乱期から高度成長時代に入ろうとしていた。またベビーブームの時期でもあった。世の中全体が激しい競争社会に移行していった。会社や工場では効率化が最優先される風潮の中で、子どもに寄り添おうとするこの運動には、風当たりが強くなっていった。しかし梅根は、そうした批判に応え、カリキュラムの全体構造を次の3層として打ち出し、将来的には競争社会にも耐えられる力が付くカリキュラムを作ろうとしたのである。(1951年)
(一) 日常生活課程=生産的活動(子どもにとっては遊びでありおとなにとっては生産労働そのもの)の中で、生活のしかた、労働のしかたを学ぶ課程(これを梅根は、のちに「生活単元課程」と呼びかえる)
(二) 中心課程=社会科を問題解決学習的な内容として構想・構成する(これを梅根は、のちに「問題単元課程」と呼びかえる)
(三) 系統課程=文化遺産を系統的に身につけさせていく課程(系統単元課程) 
  『子どもの生活をひらく教育』(学文社)より 
 この教育論は、さらに「三層四領域」構造の課程論へと進められた。しかし、この教育課程論はその後発展することなく、「日常生活課程の隘路」や 「経営活動の組織は学校単位か学級単位か」という論議が多く交わされるようになり、コア・カリキュラム運動は世の中の激変とも相まって急減速してしまうのである。この辺りの経緯を今野喜清氏は次のようにまとめる。 
 この「三層四領域」構造による課程論は、生活経験主義教育論に立脚することから当然のことであったが、生活と教科との分裂を自覚しながらも、生活と主体とを同一視することによって生活と主体との間、そしてその生活に内在する客観的なものと主体との関係を深く追求することを断念させることになった。そのために、教科と生活との間の分裂は“基礎”と“実践”課程間に介在する“問題解決”課程によって解決できるという、一見構造的ではあるが内実は単純で平板な思惟様式に支えられていたことに気づかせ、その結果、この構造論は主体と客観的かつ対立的に実在する客体(知識体系)の独自的論理にもとづいた“系統主義”の台頭のまえに急速に衰退することとなったのであった。   「総合・合科学習はどう論じられ、展開してきたか」 『社会科教育』1984年7月号 
 このあたりの経緯は、今後の生活科の未来を予測するための重要な資料となることであろう。(別項参照)

E東井義雄(1912〜1993?)  
 東井義雄は、明治45年兵庫県に生まれた。昭和7年に兵庫県姫路師範学校を卒業後、小学校教諭をつとめ、八鹿小学校長を最後に昭和47年定年退職。その後、八鹿町教育委員会に勤務。この間、その教育実践に対してペスタロッチー賞、小砂丘忠義賞、平和文化賞、教育功労賞などを受ける。『東井義雄著作集』(明治図書)をはじめ、著書多数。 
 子どものいのちを磨くしごと、それを私は「授業」だといいたい。だから 「授業」は、子どもの感じ方、思い方、考え方、行動をふみ外してはなりたたない。
古い「授業」は、教師の、子どもや子どもたちに対する一方的なはたらきかけであった。よい知識、よい考え、よい技能を授けることだと思われていた。そして、それが「教育」だと考えられてきた。私は、今、この授業観、教育観を、過去のことのように述べた。だが、これは、案外広く、根強く、現在も国民の教育観を支配し、教師たちをも支配しているのではないか。(中略)  
 私たちは、頭のどこかでは「自発性の原理」を考えている。口でもそれをいう。しかし、実践を実際に支配し、行動を現実に支えているものは、案外、古い教育観であり、古い授業観なのではないだろうか。(中略)
 たといこういう形のことがらが、どんなに熱心になされ、教師の主体の燃えあがりによってなされていようとも、「授業」だとはいえない。「子ども」をふみ外してしまっているからだ。子どもの主体が組織されていないからだ。 
  『東井義雄著作集4』(明治図書)より 
 日本作文の会会員であった東井は、自らの実践を子供の生活綴り方によって厳しく追究し続けた。そこから、東井は上のような授業観を確立していった。これは、これまでの「児童中心主義」の主張と、全く同じように感じられる。しかし、東井は、続けて言う。 
 子どもに、勝手気ままにふるまわせ、行動させ、おしゃべりさせてはいるが、そこに教師の「ねがい」も「意図」も「計画」も見られないような「児童中心主義」の中にも「授業」はない。「授業」は、子どもの主体の燃えあがりと、子ども仲間の主体の燃えあがりと、教師の主体的なねがいの燃えあがりの、意図的、計画的な組織づけでなければならない。その中でのおのおのの主体の高まりあいでなければならない。
 子どもからスタートするということは大じなことである。子どもにやらせてみるということも大じなことである。が、それだけのことでいいのかと思う。
 戦後、「経験学習」ということが言われ、「生活単元学習」ということがいわれた。「生活カリキュラム」の論議も花咲いたことがあった。そして、結局「学力低下」が問題にされるような結果が生まれた。とても大じな着眼をしながら、なぜ、このことがよい結果を生み出さなかったのか。
 私は、「学習」らしいことはあったが「授業」がなかったからだと言いたい。 (同書) 
 この主張に東井の学習論が集約されている。それは「注入主義」と「放任主義」の両極端の論調がかみ合わぬままに取り沙汰されていた昭和20〜30年代に新風を吹き込むものであった。

 東井は、「授業」の構成に当たっては2つの論理の対決が必要だと言う。    
 私たちが、子どもに教えようとすることがらというものは、大てい、私たちの父祖・先輩が、誰でもそう考え、誰でもがそうぜずにおれないものとして探りあててくれたもの、創りだしてくれたものである。だから、それは、きっとどこかに客観化された「論理性」「法則性」をもっている。そして、それは、そのことがらの中だけで論理的であり、法則的であるばかりでなく、他の教えたいことがらの「論理性」や「法則性」とも、体系的につながっているものがあると思うのである。(中略)私は、これを「教科の論理」と言ってきた。
 ところが、これを学ばせる子どもの方には、子どもひとりひとりの感じ方があり、思い方、考え方、受けとり方、行ない方がある。それは「客観化」されたものではないが、それはそれなりに一つの「論理性」をもっていると思うのである。それを支えるものは、その子どもの「個性」もあろうし、その子どもが育って来たまわりの諸条件(地域・伝統・経済・文化・人的条件)であろうが、とにかく、その子どもをして、それをそう感じさせ、思わせ、考えさせ、行動させるものがあると思うのである。わたしはそれを「生活の論理」といってきた。
 ところで、「授業」は、伸びたがり、太りたがっている子どもたちが、おのずから形成してきたその「生活の論理」(子どもに密着して育ってきたものではあるが、客観性・普遍性に欠けているという特質をもっている)と子どもたちが私たちの祖国と世界史に新しい頁を書き加えてくれるためにはどうしても身につけてくれることの必要な「教科の論理」(普遍性・客観性はもっているが、誰かに主体化されないでははたらき得ないでいるもの)を対決させ、かみあわせて、子どもの「生活の論理」を、より客観性のあるもの、普遍性のあるものに磨きあげるしごととも言えるのではないだろうか。 (同書) 
 このように、「生活」から始め「生活」に返そうとする東井の実践の金字塔は 『村を育てる学力』であった。子供たちが、学校で学んだ結果「村を捨てる学力」を身につけ、どんどん都会に出て行ってしまうことを憂い、「ほんものの授業」をすることで、学力は「村をも育てる」ことができた、というものである。
 ここに、生活科の「子供重視」「地域重視」の発想が見て取れる。      

 
附記〜新しい問題解決
以上、ざっと生活科の系譜をたどってみた。これを粗く言うなら「問題解決学習」発展の歴史と呼んでもよいだろう。
 問題解決学習とは、平凡社世界大百科事典によれば、            
 問題解決の過程において思考が働き、それによって知識が習得されることを基本原理とする学習指導の様式。児童生徒の生活や要求と無関係な知識や技能を注入する旧来の教授法に対する。
と規定されている。この後、デューイやキルパトリックの主張が紹介されているが割愛し、以下部分抜粋する。
 …問題解決学習は、日常的な生活経験を足場とし、そこにおける問題解決を通じて生徒の能力を高めようとする。したがって問題解決学習においては、事物や現象を正確に観察する能力、事物や現象を貫く理法やその応用を理解する能力を高めることが眼目となり、知識技能の習得はともすると副次的意義を持つにすぎなくなる。
 …こうした指導過程をとるために、学習内容を有機的なまとまりをもった単元に組織することが必要になり、そのために教科のわくをはずす場合も起こってくる。 
 このような特質により、新教育運動は「はいまわり」だの「牧歌的」だのという批判を受けることにもなったのは、すでに触れてきたとおりである。
 ついでに、よく混同されがちな「課題解決学習」については、栗田一良氏の説明が分かりやすいので紹介しておく。 
 問題解決学習は、児童中心主義の教育法であり、学習者の探究活動を発展させ、学習の喜びを味わわせ、問題解決の方法を学ばせる等の長所がある。しかしこの方法で必要な知識・技能を洩れなく学習させられるか、文化遺産の伝達が十分できるか、という不安が残る。この難点を排除するため、必要不可欠と思われる知識・技能に関する問題を教師側で選んで課題として与え、解決させるやり方が考えられた。これを課題解決学習という。 
 さて、では生活科はイコール新教育運動における「問題解決学習」であると言えるであろうか?
 上田薫氏は「社会科指導法の原理」(昭和27年発表)で次のように言う。(氏は、日本の問題解決学習のリーダー的役割を果した。また社会科創設の重要メンバーでもあった。)
(1) 子どもの自主的な自発活動を通じて指導の目標を達成すべきである。 
(2) したがって学習は、子どもが自分たちの生活で直面する個性的な問題解決を媒介として進められるべきである。 
(3) ゆえにまたその場合、学習の対象としてとりあげられてくるものは現実的、具体的であり、したがって全体的総合的な性格をもつべきである。
(4) 学習とその指導とは動的に進められるべきであり、その材料も固定されてはならない。
  (『系統主義とのたたかい』黎明書房) 
 生活科の学習のイメージとかなり近い感じをもたれることであろう。やはり、生活科は初期社会科の直系の後継者と言って良い。
 しかし、ここには「学習の段階」および「学習者の感情や認識の発達」という視点がない。極めておおざっぱなくくりかたで、後は授業者の腕次第、という感が否めない。ここを、改善しなければ、問題解決学習は「はいまわる」宿命から逃れられないであろう。
 現代においても「生活科では学級経営がものを言う」だとか「教師のセンスが大切」などとよく言われる。それは、一面の真理に違いないが、「学級経営」「センス」に多くを頼るというのは、授業研究のあり方としてはレベルが低いと言わざるを得ない。
 この点について、今谷順重氏は次のように言う。              
 初期社会科における問題解決学習では、問題解決過程を構成するこれらの諸要素についての厳密な分析と究明が、極めて未分化で不十分なものにとどまってしまっていたために、先に指摘したようなさまざまな疑問や批判が生じてこざるをえなかった。子供たちが積極的かつ活動的に、自らが直面する切実な生活的欲求によって動機づけられた社会問題をいきいきと追究していくという、初期社会科における問題解決学習の長所は大いに生かしながらも、こういった論理的な未分化性や不完全性を克服していくことのできる新しい問題解決学習を確立するための理論的な修正や補正を、どのように行っていくかが今後の重要な課題になってくるであろう。
  (『新しい問題解決学習の提唱』ぎょうせい) 
 氏は、同書の中で主に80年代のアメリカの新しい問題解決学習を具体的に紹介しているが、それらをまとめて、「授業構成の視点」として整理している。   
1.問題場面の発見(事実的知識の獲得)  
2.心情への共感(情緒的な豊かさと鋭敏さと柔軟性の拡大)
3.原因の探究(概念的・法則的知識の獲得)  
4.願い・価値の究明(行為の目的の明確化) 
5.合理的意志決定による社会参加の促進(自立的な社会的行為の実践)  
 今後、今まだ歩き始めたばかりの生活科が、日本中の子供に受け入れられ、楽しい活動が「子供の成長」となって見えてきたとき、新しい問題解決のあり方が具体的に見えて来るであろう。
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