震災の宝塚から

 1995年1月。激震が阪神地区を襲った。ニュースでそれを知った私は,すぐに数名の教え子のことが心配になった。すぐにその子たちのところへ電話を入れた。すぐに通じて安全を確認できた子もいたが,なかなか確認できない子が一人いた。由佳(仮名)である。彼女は,前任校で1年生を1年間だけ受け持った子だった。その後,私は転勤。彼女は4年生から宝塚の方へと転校していた。震災の年には,彼女は中学2年生になっていた。年賀状や,時折の電話で連絡を取り合っていた子の一人だった。
 何度目かの電話が通じたのは,震災から2週間もたってからのことだった。その後,手紙と電話でのやりとりが何度かあった。手紙は,学年通信に紹介した。当時の2年生の子供たちや保護者に,人として大切なことを考えてもらうために。学年通信からそのときの様子をお届けしよう。


学年通信「たんぽぽ」bR5(95年1月20日発行)より

 遅くなりましたが,あけましておめでとうございます。そして,今年もどうぞよろしくお願いします。
 子供たちは,どんな冬休みを過ごしたことでしょう。今日,どんな話をしてくれることでしょう。3学期は一番短い学期ですが,学年のしめくくりの学期です。今日から,どんな日々が始まることでしょう。それが,とても楽しな一方,休み中の生活リズムから,また学校中心の生活リズムに,うまく乗っていけない子はいないか,少し心配なところです。寒いだけに,風邪を引いたりしませんように,各家庭でのご配慮とご協力をよろしくお願いします。

 話は変わりますが,先日の兵庫県南部地震は,すさまじかったですね。まだまだ犠牲者も増えそうですし,住民の方の生活が落ち着くにはかなりの時間がかかりそうです。犠牲となった方には心からお悔やみを申し上げたいと思います。聞くところによりますと,神戸市内の学校はすでに3学期が始まっていたのですが,22日まで臨時休校になったそうです。家族を失って悲しみのどん底にある子供たちも多いことと思います。また,余震や二次災害におびえている子供たちも多いことでしょう。
 幸いなことに私たちは,無事に新しい学期を迎えることができましたが,同じ空の下に,大変な思いをして生きている子供たちがいることを,忘れてはならないと思います。無事であることを感謝しつつ,兵庫県南部の子供たちの分までも精一杯学校生活に取り組んでいけるよう,子供たちに語っていきたいと思っております。「がれきの山の中から,最初にひびく笑い声は,必ず子供の声だ」といいます。兵庫県南部の子供たちの笑い声が一日も早くひびくことを願い,一足早く二条の子供たちの笑い声をいっぱいひびかせたいと考えております。 
 また,北海道にもいつ大地震や他の災害が訪れるかもしれません。来週には避難訓練もありますが,非常事態への備えについても,一層の指導をしていきたいと思います。
 ご家庭でも,この機会に同様のご指導をしていただければ幸いです。


 この通信を発行した直後,やっと彼女と連絡が取れた。何度目かの電話が鳴ったとき,ちょうど彼女の母親が家の片づけに来ていたのである。まず,無事を喜び合った。そして,現地の様子を聞いて衝撃を受けた。電話で聞いた震災の様子は,想像を超えて本当に生々しいものだった。私は,学級の子供たちとも毎日震災のことについて話し合っていることを伝え,この電話の話を伝えてもいいか,と聞いた。すると,由佳が書いた作文があるから,それも活用してほしいという提案をいただいた。


 学年通信「たんぽぽ」bR7(95年2月18日発行)より

 宝塚からの手紙
 阪神大震災から早くも一か月がたちました。3学期はじめの『たんぽぽ』でもこの大震災については取り上げましたが,その後も子供たちと,折にふれ,新聞やテレビなどの情報から「人と人が助けあうことの大切さ」や「自分たちにできることは」などを考えあってきました。

 そんな折り,一通の手紙が横藤のもとに来ました。差出人は,かつて横藤が1年生のときに1年間だけ担任した子供です。名前を由佳といいます。現在中学2年生です。彼女は,宝塚市に住んでいました。震災から2週間ほどたったある日,横藤は彼女の安否を電話で知ることができました。そして,地震の様子やその後の生活ぶりについていろいろと聞くことができたのです。
 その後,彼女は転校先で学級通信に地震の体験と現在の心境を綴った作文を載せたのですが,それを送ってきてくれました。私たち担任は,これを二条小学校の子供たちに読んでやることにしました。彼女の生々しい,しかし素直な作文は,地域や年代を越えて子供たちの心に届くと考えたのです。子供たちは,ニュース報道などとはまた違った角度から地震やその後について知り,人にとって大切なものは何かにふれることができたと思います。以下,彼女の作文をご紹介します。

由佳さんの作文
 明け方,大きな音と共に激しいゆれを感じた。とっさに上体を起こしたけど,それ以上に起き上がることはできなかった。少しゆれがおさまってやっと立てる状態になっても辺りはまだ真っ暗だった。部屋の中を見わたすこともできず,とにかく部屋を出るためにドアを引いてはみたものの,ビクともしなかった。弟が机から小さなライトをとりだしてドアを照らすと,大きくゆがんでいる。とても開けられそうにない。お父さんがドアの向こうで私たちの部屋のドアをドンドンとけっている。その時お母さんが,一枚のドアをへだてた向こう側で「ガス臭い!」とさけんでいる。その時の私は,その私は,そのガスもれのひどさを知らなかった。私の想像していたの,たまに台所でピーピーという音がなった時のように,あんな軽い程度のもので,すぐに止まるものだとばかり思っていた。だから,ガスもれのこわさは,その時はまだ知らずにいた。
 とにかく部屋を出るために,窓からとなりの部屋のベランダまで足をのばした。(この窓は,たまたまカギが開いていたので,地震のゆれで勝手に開いていたから良かったけど,もしカギをかけて寝ていたら,窓もゆがんで私と弟は2人,部屋にとじこめられていた。)暗闇で,ほとんど足元など見えず,それでも手さぐりでなんとか階段をおりた。玄関もゆがんでぜんぜん開かない。居間の窓が一枚,雨戸ごとふっとんでいた。そこから外に出るために,居間に一歩足をふみ入れた。すると,さっきまで私が想像していた“ガスもれ”のイメージは,ひとかけらも残さずにふっとんだ。なぜなら,ものすごいにおいと共に,ものすごい勢いでガスが吹き出る音で,恐怖のどん底につきおとされたからだ。足元では,バリバリと何かが割れる音がする。もちろん私たち4人はパジャマのまま何もはかず,はだしで外に逃げた。怖かったのは,それからガスを止めるまでの数分間だった。ガスを止める工具もないし,爆発するかもしれないという恐怖で頭がパニックしていた。ガスのメーターが,信じられない速さでまわる。どうしていいかわからなかった。足の裏が冷たくて痛くて,道路にすわりこんだ。
 たまたま隣の人が工具をかしてくれた。弟のもっていたライトで元栓のありかがわかった。そして,やっとガスを止めることができた。まさしく“不幸中の幸い”というヤツだった。実は,弟の持っていたライトというのは,弟がどうしても買うと言ってきかなかった物で,私と母は「そんな物買っても役に立たないよ」と言って,へたをすればそのライトを買わなかったかもしれなかった。もし,あのライトがなければ,私と弟はベランダにつたうこともガスの元栓をしめることもできなかった。“どんな時にどんなものが役に立つのかわからない”
 それから明るくなるまでが,とても長かった。その夜から,近くの知り合いの家で寝泊まりする日が10日ぐらい続いた。2日目の夜は,さすがに余震でおびえて,少しでも物音がすると無意識のうちにとびおきていた。
 地震の後,家の中を見ると,とても人の住む家のようには見えなかった。かべは落ち,天井は落ち,柱は真っ二つにわれて,何もかもが散乱していた。私たちの寝ていた部屋はメチャクチャだった。机は移動して,机のカドがかべにつきささっていた。本だなからはすべて落ちて,部屋のはじにあったはずの弟のベッドが,真ん中に大きく移動していた。電気は下に落ちてコナゴナにくだけちっていた。
 私の家から一本の道をはさんだ裏では,何人かの人が亡くなった。2,3日たっても近所はまだガスのにおいが残っていた。学校の友達も何人かケガをしていた。3年生の男子にも,亡くなった人が1人いた。
 居間の,私たちがはだしで逃げてきた所は,食器棚からとびだした食器がわれて,山づみになっていた。その上を私たちは走ってきた。ガスが吹き出していた所は,かべにポッカリと大きな黒い穴をあけていた。時間がたつにつれ「私たち4人+犬」が無傷だったのが不思議でしょうがない。お母さんとお父さんの寝ていた部屋も,タンスがおちてふすまにささっていた。私たちが逃げてきたベランダにつたう道も,後で見ると,落ちて即死してもおかしくないほどの所だった。まさに“火事場の馬鹿力”だ。
 今回の地震で経験したことは,私にとっていい経験だったと思う。そう思わずにはいられない。私の家族は,早めに引っ越すことができたけど,今もまだ学校の体育館やグランドですごしている人がたくさんいる。本当なら,私もボランティアとかで,もっとつらい経験をした人の手助けをしなくてはいけない。だからせめて,私たちのできる最小限の我慢をして,ムダはしないと家族で決めた。
 お母さんは,大好きな食器を買わない。
 お父さんは,大好きな車の雑誌を買わない。
 弟は,大好きなCDを買わない。
 そして私は,未だに決められずにいる。
 地震が良いことだったとは言わない。こういうことを経験して,つらかったこともたくさんある。だけど,それ以上に良かったことはいっぱい(×2 )ある。なにより良かったと心から思えるのは,一番心配だった友達のことです。こっち(由佳さんは,引っ越して転校もしました。転校先は「第一中学校」だそうです。横藤註)に来る前まで何度も(×2 ) 泣いては,不安ばかりつのっていきました。けれど,そんなことがウソみたいに,連日楽しい学校生活が続いています。
 もし地震が起こらなかったら,いつも通りの平ぼんな幸せの日々が続いていたら,ニュースであんなにたくさんの悲しむ人たちを見ずにすんだかもしれない。だけど,地震が起こらなかったら,私は今ここにいない。第一中学校の存在も今のクラスのこの顔も名前も永遠に知らずにいた。だけど,今私は,ここでたくさんの友達と共に勉強して,遊んで,じょうだんを言って笑っている。
 地震が良いことだったとは言わない。だけど,地震を経験できたことに感謝している。長い人生の中でーたかが14年生きてきただけだけどーつらい経験もたまには必要かもしれない。つらい経験の後には,必ずそれ以上に良いことがたくさんあるから!

 かつて「がれきの山に最初に響く笑い声は,子供のものだと言う。一日も早く震災地に子供たちの笑い声が響くことを願いつつ,一足早く二条の子供たちの笑い声を響かせたい。」と書きました。由佳さんの作文を読んで,一番うれしかったのは「たくさんの友達と共に勉強して,遊んで,じょうだんを言って笑っている」という,子供本来のたくましさに触れられたことでした。「つらい経験の後には,必ずそれ以上に良いことがたくさんある」と信じられるたくましさでした。感動させられました。
 おうちの方は,お読みになってどのように感じられたことでしょうか。おうちの人にもこのようにたくましく生きている子供がいることを伝え,またお子さんと家庭でも話し合うきっかけとなればと考え,長く引用しました。 
 感想など,お聞かせ願えれば幸いです。


この呼びかけに応え,多くの保護者の方からの励ましの手紙が寄せられた。


 学年通信「たんぽぽ」bS1(95年3月4日発行)より

 宝塚からの五十嵐由佳さんへの手紙に対して何人かの父母の方から感想をいただきました。(このように学年だより紙上で,私たち担任と父母のみなさんが交流できましたことを本当にうれしく思っています。)その中からいくつか,ご紹介します。紙面の都合ですべて一部抜粋です。

☆「今回の地震が私にとっていい経験だったと思う」と言い切る由佳さんは,本当にたくましく成長なさったのでしょうね。又「つらい経験の後には必ずそれ以上に良いことが沢山あるから!」 という言葉がとても印象的でしたし,私もそう思います。
☆由佳さんの文中にあった私たちのできる最小限の我慢をして,ムダはしないと家族で決めたーというくだりは,多くのものに囲まれ豊かな状態が普通になっている今,人間にとって本当に大切なものって何だろう,豊かさとは何だろうと深く考えさせられました。
☆連日の報道で深い悲しみの底に追いやられている人々を見ていて,人ごとではすまされないものを感じていました。でも子供たちはやはりたくましいなあと思います。あんな苦しみも一か月足らずで“いい経験だった”と語ることができるなんて14才と言えどもう立派な大人なんですね。
☆由佳さんの作文,何度読んでも熱いものがこみあげてきます。私も5400人もの尊い命が奪われたこと,いまだに20万人もの人々が避難所で不自由な生活を続けていることを忘れずに,折にふれて協力していきたいと思っています。
☆毎日毎日テレビに写し出される震災地を見て,何かできることは,何かしてあげなくては,私たちはこんなに平和にしていていいのだろうか,と思っていましたから,逆に私の方が勇気づけられる思いでした。おとなにとってもとてもつらい体験なのに,元気に立ち直ろうとしている由佳さん,ご家族をはげましながら,これからもたくましく生きてほしいと思います。

 この感想は,原文のコピーを宝塚に送らせていただくことにしました。ありがとうございました。


 学年通信「たんぽぽ」bS3(95年3月18日発行)より

 前前号でご紹介した父母の皆さんの声を宝塚に送りました。すると,それに対して由佳さんのお母さんからお返事が届きました。

 前略。
 先生から送っていただいたお便り読ませていただき,もう感動で涙がポロポロこぼれて止めることができませんでした。(あれ以来,辛いこと,悲しいことには涙も出ません。)
 二条小学校2年生の父母の皆様,本当にありがとうございました。遠く離れた北の大地から故郷の香りのするやさしさを思いきり頂戴することができ,この喜びは文字ではお伝えしきれません。
 あと少しで震災後2か月が過ぎようとしていますが,なんだかまだ夢の中にいるようです。もう,何年も経ったような気もしています。報道では,神戸方面の取り扱いがほとんどですが,私の住んでいた宝塚や井丹など報道にあまり取り上げられなかった場所でも大きく被害を受けている場所がずいぶんたくさんあります。現に私の住んでいた宝塚の売布(めふ)という所は,まだガスも出ず,みんながお風呂を求めて行列といった有様なのです。
 私が皆さんのお便りでとても勇気づけられたように,人々の傷をいやしてくれるのは,人との暖かな触れ合いと,あとは時間しかないと思います。この震災で心に深い痛みをおったすべての人々の心がいやされるまで周囲の方々のご理解と心遣い,最後まで続けてほしいと強く願います。
 ところで,我が家の「最小限の我慢」は,1か月半後に解禁となりました。というのも,こういうときだからこそ,自分の好きだった趣味で心が和まされるということに,少し時間が経ってから気付いたからなのです。私は,陶器収集が唯一の楽しみで,気に入った器に囲まれて暮らしておりましたが,いろんな思い出の詰まったそれらのモノすべてが一瞬にして消え失せました。でも,自分でも意外なほど,惜しいとは思いませんでした。地震の後,くずれかけた家(もうすでに取り壊され,ありませんが)から何を一番最初に取り出したかというと,子供たちのアルバムと自分で作ったパッチワークの作品の数々でした。(貯金通帳の残額はそうないとわかっていましたから)その2つだけは自分の意識で持ちだしたのですが,あとは庭に落ちている洗濯ばさみを拾ったり,飾っていた小指の先ほどの大きさのお人形を集めたりと,まるで訳の分からない行動をとっていたようです。思考回路がグチャグチャで(地震の前からという噂もあるのですが),同時に色々なことが考えられず,1つのことしか考えられない状態で,それは1か月以上続きました。
 我が家は本当に幸運にも会社の素早い対応で,早い時期に引っ越しすることができ,ここでは余震はほとんどありません。
 でも,まだ宝塚,神戸等は余震が続き,それもほとんど寝入りばなに起こる皮肉なもので,まだまだ熟睡することも不可能な状態なのです。我が家も土,日には1泊お風呂付きで売布の友人を交代で招いていますが,どの方も一様に声をそろえて「ここへ来てあれ以来初めてぐっすりねむった」と言います。
 もう,2か月も熟睡できない状態が続いているのです。想像できますでしょうか?人間が人間らしく生きる限界をとうに越えた状況なのです。それをテレビの画面で伝えることは不可能です。だから,体験した者として,生き残った者として,それを多くの人に伝えることが私にできることだと思っています。
 「こんな辛い経験は私たちだけで沢山だ」と思いますし,経験しなかったからこそ私たち以上に心を痛めていらっしゃるやさしい人たちを,私は大勢知っています。でも,思うだけでは伝わらないのです。何か形にして届けてあげてください。そして,どんな形にしたらいいのか,みんなで時間をかけて話し合ってください。私は「どさんこ」の人間なので,北海道らしい大らかさとやさしさが伝えられるナニカを望んでいます。
 私は,この経験で人間は絶望のどん底に落ちると,笑うという治癒力を本能として持ち合わせているということに気付かされました。笑顔こそが救いなのです。そして,なにより自分の身近な愛するべき人達の思いやりを一番大切にしてください。
     1995.3.10  由佳の母より

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