1日だけの新しい家族
99年,猛暑の夏休みも,終わりに近づいた快晴の日。父さんは,汗を拭いながらホームページを作成し,母さんは,パッチワークをしていました。そこへ,友達とサタデーテーリング(札幌市の市営交通機関を使って,札幌市のいろいろな施設を巡って歩くイベント)に行っていた優から,電話がかかってきました。母さんが電話を取りました。
「今,地下鉄の駅と家の中間地点なんだけど,かわいそうな猫を見つけたの。死にそうなの。どうしよう。」
話を聞いて,父さんはそこに向かいました。
その猫は,上半身(というのか,腰から頭にかけての部分)の毛がすべて抜け落ち,その部分は皮膚がぼろぼろになっていました。そこを触ると,角質化した皮膚が砂のようにぼろぼろと落ちるのです。しかも,その下の背骨やあばら骨が1本1本はっきりわかるほど,やせこけていました。目も,片方はまったく動かず,前脚は小刻みにふるえていました。そして,全身からいやな匂いを発していたのです。一緒にいた友達も,どうしていいかわからず,そばで立ちつくしていました。猫は,優に助けを求めるように膝の上でふるえており,かすかに「ニャー」と鳴くばかりです。
猫の様子を見て,父さんは「これは,素人の手には負えない」と判断し,動物病院へ優と一緒に運ぶことにしました。
まず近くの動物病院へ車で運びましたが,運悪く診察時間が合いませんでした。そこで,ちょっと遠かったのですが,以前盲導犬協会から紹介していただいた動物病院に行ってみました。
猫を一目見た先生は,
「これはひどいですね。まず,今日は入院です。」
とおっしゃいました。その場で顕微鏡検査をしてくださり,皮膚はダニですっかりやられていること,脱水症状と栄養不足がひどいことなどもわかりました。
そして,野良猫の場合は治療が済んだら,どうするかをまず考えなければならないこと。入院費用やエサ代は病院でもつけれど,それ以上の治療(抗生物質や点滴などの投与)は有料になるがどうするか,などたくさんの問題があることを知らされました。
優は,「元気になったらうちで飼ってあげたい。」と言います。
父さんは,心の中で「うちには,今犬もいるしなあ…。」と思いましたが,目の前の猫を見ていると,回復したとしてもまた外に放すのは無理だとも思い,迷いました。そんな様子を見ていた先生は,
「ま,今日はとりあえず入院させておきましょう。そして,今後のことについては,お宅でゆっくりと考えてください。それに,血液も検査してみますが,野良猫の場合エイズに罹っている可能性も高いですし,他の病気も持っているかもしれません。そうなると,また飼えるかどうかもかわるでしょう。」
と言ってくださいました。有料の治療については,できるだけのことをしていただくこととして,帰宅しました。
優も父さんも,猫を触ったので,手や服にかなりのダニの粉がついていました。車の中も,粉だらけです。先生の指示通りに,よく粉を払い,すぐにシャワーを浴び,服は母さんに洗ってもらいました。それでも,しばらくすると優も父さんも手の辺りがなんだかむずむずとかゆくなってきました。母さんは,車の中も掃除機をかけ,シートのクッションも洗ってくれました。
次の日は,夏休み最後の日で,前日出勤をしました。学年の先生と打ち合わせをし,教室を掃除したりしながらも「あの猫は,どうしているかな?」と時折思い出していました。帰りがけに,病院に寄ってみました。大きなケージの中で,猫はずいぶん小ぎれいになっていました。「体力を消耗しているので,あまり洗ってやれなかったのですが,きれいになったでしょ?」と先生。このまま,順調に回復すれば,約2ヶ月で毛もある程度は生えてくるだろうとのことでした。
「ですが,…。」
と,先生は目を伏せて言いました。そして,続けました。
「やはりエイズを持っていました。今のところ発症はしていませんが,発症したら急激に死に向かいます。それに,全身の衰弱が激しくて,昨日も抗生物質や栄養剤の点滴をしました。治療が長引けば,費用もかかります。退院できたら,お宅で飼われますか?」
父さんは,
「このまま,外に放り出すことはできないでしょう。今,うちにはパピーがいるのですが,それとの関わりはどうでしょう?」
とききました。
すると先生は,
「犬と猫は共存します。問題ありません。猫は,散歩させる必要はないし,犬よりもずっと手間はかかりません。しかし,ダニが完治するまでは一緒にはできませんね。人間には移らないダニですが,犬には移ります。エイズの方は,猫同士でないと移りませんが。」
とおっしゃいます。それを聞いて,父さんの気持ちはほとんど決まりました。
「やっぱり,うちで飼うことになるでしょう。」
そして,猫のところへ行って,
「おい,お前退院したらうちの家族だぞ。」
と話しかけました。
ところが,次の日学校に母さんから電話がかかってきました。
「動物病院の先生から電話があったの。猫の容態がよくないんだって。帰りに寄ってあげて。」
夕方,動物病院へ行くと,猫は横たわっていました。
「脱水が激しくて,また点滴もしたのですが,もう手の下しようがありません。時間の問題です。残念ですが。」
と,先生。
時折,大きく胸を上下させて呼吸はしているようですが,目は完全に動いていません。先生が聴診器を胸に当てて心音を聴くと,やはりかなり弱いとのことでした。
突然のことに,ショックを受けましたが,父さんはせめて最期を看取ってやろうと思いました。
約1時間くらいもそばにいたでしょうか。外来の犬の診察を終えて,戻っていらした先生が心音を確かめると,もう聴こえなくなっていました。どうやら猫は,父さんが駆けつけるのを待って,あの世へ旅立ったようです。遺体の埋葬も,動物病院でやってくださるとのことで,本当に感謝して,精算も済ませ,帰宅しました。
帰宅して,すぐには優に話せませんでした。しばらくたって,寝る前に,話して聞かせました。
優は,
「わかった。どうも,ありがとう。」
とだけ言って,自分の部屋に行きました。
たった1日だけの我が家の新しい家族でしたが,外でぼろぼろになって死ぬより,病院の手厚い看護を受けて,暖かいところで旅立ててよかったのだと,思うことにしています。