「……ん……」
暗闇の中で小柄な身体が身じろぎした。
「……あれ?」
クリーオウは、ぱちくりと瞳をしばたかせた。が、広がるのは黒い闇ばかり。
と、薄ぼんやりと明るさを感じる。視線を動かすと、ドアの擦りガラス越しにわずかであるが、そこに光の白さがあった。
その明るさを他にも馴染ませようとするかのように、何度も周囲を見回し――ついでにおぼろげな記憶も掘り起こす。
(ここ……図書室? あ、そうかわたしテスト勉強をしようと思って来たんだっけ)
そして改めて自分の現在の状況を理解する。
図書室の閲覧コーナー。机の上に申し訳程度に教科書とノート、プリント等が広げてある。どうやら自分は机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。自分の腕の下敷きになっていたのであろうプリントが変な方向に折れ曲がっている。まだよく見えないが、手で触ってそれが理解できた。
(真っ暗ってことはもしかして、ここが閉められちゃったってこと? 今何時……)
まだ暗闇に目が慣れないことも手伝って、妙に焦燥感がつのる。今の状態では壁の時計は見えないだろうと思い、左腕の腕時計を見やる。確か文字盤は蛍光仕様だったはずだ。
「……もう6時半?!」
文字盤を見てクリーオウは思わず叫んでしまう。暗闇でなおかつ静まり返っているせいか、自分の叫び声が妙に大きく聞こえ、しまったと口を押さえた。とはいえ、今の図書室では静かにしなさい等と注意する人も、ましてやその叫び自体を聞いた人すらいないのであるが。
誰も見てはいないだろうが、妙に気恥ずかしくなる。それを隠すかのようにクリーオウは急いで行動を開始した。
(早く帰らないと、お母様とお姉ちゃんが心配するわ……そうよ、今朝、今日はテスト前だから早く帰れるみたいな話ししちゃったし)
クリーオウは机の上に散らばっている教科書等を急いでかき集めてカバンにしまった。筆箱から出したのはシャーペンだけだったので、そのままカバンの中へと筆箱と共に投げ入れる。
最後に、忘れ物はないわよね、と――まだ目は慣れなかったから――机の上を手で探り、何もないことを確認する。
そしてガタンと音をたててイスから立ち上がると、そのイスをもどかしく戻しながら闇の中でぼんやりと白くなっている擦りガラス付きのドアへと急ぐ。
ノブに手をかけて――
がたっ……がたがたっ。
「……開いてるわけないわよね……」
確かここの図書室は夕方5時半には閉めてしまうはずだった。ましてや、今はテスト前だから戸締りを任されている図書委員が早めに閉めてしまったのかもしれない。
(気持ちはわかるけど、中に人が残ってるかどうかをちゃんと確認してから閉めてもらいたいわよね)
防犯上、校内のドアは外側からはカギを使って、内側からは手動で施錠ができるようになっている。クリーオウは手探りで内部のカギを探し始めた。
実は、普通の教室と図書室のカギは違った構造になっている。蔵書を守る為に、魔術でおいそれと開けられないように複雑なカギを使用しているためだ。実際、この学園の蔵書量――特に魔術関連のもの――は学園パンフレットの売り文句の一つであり、それなりに価値のあるものが揃っている。また、これは魔術が使える生徒の下手な小遣い稼ぎに使われないための策でもあった。
(……まぁ、人目につかない席を選んだのは確かだけど)
授業が終わってすぐに家へと帰っても良かったのだが、何となく気分が乗らなかった。仕方ないので図書室で少しばかり勉強していこうと思い、そして先程の奥まった席を選んだ。
本当なら家で勉強した方がどちらかというとはかどるのだが、気分が乗らない時に実行しても身に付かないし、何より――
(……実の所、あまりお母様とかお姉ちゃんと話したくなかったのよね)
それは一月ほど前のあの事件と関連していた――というか、そのものなのであるが。
あの事件以来、クリーオウはどうにも気分がすぐれなかった。事件の次の日から、表面上はいつもどおり笑顔で過ごせてはいたが、ずっと何か重いものが心の底にあった。
(わかってる。忘れるのが一番だって。……でも)
忘れる事などできはしない。レキのことも、助けに来てくれたオーフェンのことも、そして――
何もできなかった自分のことも。
(ずっとレキの側にいたのに……わたし、何もできなかった……何かできるのはわたしだけだったのに)
今ではもうレキに会うことも叶わない。それどころか、助けに来てくれたオーフェンにも迷惑をかけたままだ。
自分がしっかりしていれば、彼が傷つく事もなかったのに。
クリーオウのドアを探る手が止まる。
(……わかってる。一番いいのは、わたしがいつも通りに生活していく事よ。あのチャイルドマンとかいう教授が何とかしてくれるって言ってたし……信用していいってオーフェンも言ってたし……)
だから、全てを忘れようと元のこれまでの生活へ戻ることへと集中した。オーフェンと出会う前の、何の変化もない普遍的な日常に。
この一月、だいぶその生活にも慣れてきた。というより、自分でも信じられないくらい、元の生活へと順応するスピードは早かった。
しかしそれは学校だけのことであって、家に帰ると気が抜けたようになっていた。これまでのように、母や姉と話すのが妙におっくうに感じられた。
(……正しくは、『これまでのように演じるのが』、よね)
わかっていた。無理をしているのだということも。そして、これが一番良い方法なのだということも。
家族というものはやはり違うのだろうか、そんな自分の様子を心配してか、事あるごとに話し掛けてくることが多くなったように感じる。
姉などは、テスト勉強だと言って部屋にいると、毎回調子はどう?とか、そろそろ休憩しない?とか、何かと理由を付けては部屋に入って来ようとする。
それが、自分を気遣ってのことなのか、いつもの、体裁が悪い時に部屋に来るという妙な癖(?)のせいなのかはわからなかったが。
(……お姉ちゃんには悪いけど、それが嫌で図書室に来ちゃったのよね)
人にはいらない心配をかけたくない。それが例え家族であっても。
昔からそうだった。難儀な性格だ、という自覚はほとんどなかったが。
と、クリーオウはそれらの考えを打ち消すようにふるふると首を振ると、またカギの探索を開始した。
(今はそんなことで思いにふけってる場合じゃなかったわ。早く家に帰らないと)
心配をかけるのだけは嫌だから。帰りが遅いから、というのもあったが、何より、あの事件に関連してまた何かあったのではないか、と思われるのが嫌だったから。
と、ドアの端っこに手をやって小さなへこみがあるのに気付いた。人差し指をへこみに差し入れて、ぐっと力を入れる。
がちゃん。
小さな音がして、その暗闇の封印は解かれた。